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第十九話 穢れしもの(後)


「……」

「……」


 ぼんやりと青い空の下、二人は無言で座っていた。

 何かが飛んでいる。あれはなんだろう。鳥か。飛行機か。いや、オロロンゲボーロだ。……それは鳴き声だ。正しくはグランギョルヌールだ。

 粘液を滴らせながら飛ぶそれを魔物と勘違いしたシラノは刃を抜き放ちかけ、また何事もなかったかのように腰を下ろす。

 オロロンゲボーロ、オロロンゲボーロ。馬鹿にするように三匹の粘液を纏った冒涜的な飛行物体が空を横切って行った。

 そして、また沈黙である。


 正直な話、シラノは何を話していいのか分からなかった。

 エルマリカと合うのは実に久しぶりだ。一か月とはいかなくても――おおよそそのぐらい前に会ったっきりだ。一度出会って、それで分かれた。そんな少女である。

 あの時はかなり言葉を交わした気がするが、同時にそれはあのような特殊な状況であったからでもあろう。共通の危機があり、共通の話題があった。

 だが今はどうだろう。何もないではないか。

 元より話題が豊富とは――修学旅行の歴史名所観光でだけはやたらと多弁になると言われた――言えないシラノである。正直、この歳の少女相手に何を話したらいいのか分からない。

 或いは、あちらの弟妹と同じなのか。でも他人様にそんな扱いをしていいのか。

 いや、


「……なあ、エルマリカ」

「な、なに? なにかしら、シラノさん?」

「いや……歳、いくつだ?」

「え?」

「……悪い。なんでもねえ」


 問い返される。それが一番キくのである。

 人との会話が決して苦手というわけではない。だが、気まずい沈黙から明るく話題を切り出せるほど上級者でもない。お通夜めいた雰囲気を挽回できるほどシラノは器用ではないのだ。

 思えば、フローはかなり話しやすい人間であった。

 セレーネもまた話題を上手く促すことや聞くことに長けた女性であり、アンセラもかなり気さくで喋りやすい。そういう意味で、今まではなんとかなっていた。

 どうしたもんかと思っても、なにも浮かばない。


「……」


 シラノ・ア・ローが白野孝介であったときに弟妹はいた。

 やや歳が離れていたが――ちょうど今のエルマリカとシラノほどか――兄弟仲は悪くはなかったが……。

 彼らが友人を家に連れてくることはあったがわざわざ話しかけるほどでもないし、故に、この年頃を相手に会話する機会には恵まれていない。

 やはり必然、また無言の状態に戻るしかない。


「……」


 だが、なんだろう。本当にこの空気はなんだというのだろう。

 時折ちらちらとシラノを眺めては、エルマリカはまた顔を背けてしまう。それでは話題も何もあったものではない。

 何たる鬼畜の所業なのか。シラノは内心途方に暮れた。

 フロランスとは言わない。せめてセレーネがこの場にいてくれたら――――いや、この場にいたら魔物と斬り結んだシラノに興奮して、恍惚としながら剣を抜いてきそうだ。

 やはり居なくていい。いなくてよかったと胸を撫で下ろす。


「……」


 また、空を眺めるだけのかんたんなお仕事に戻ってしまうのか。そろそろ脳内麻薬の高揚も冷めて、いい加減全身の痛みや痛烈な筋肉痛が襲い掛かってきそうなのに。

 いや――シラノは妙案を閃いた。

 どうやら仏は、かのブッダはシラノを見捨ててはいなかったらしい。

 異世界でも頼りになるとはなんという偉大なる人物なのだろう。触手剣豪として身を立てたら、余生は仏像師として生きるのもよいかもしれない――などと考えつつ、言った。


「……なあ、あの人はどんな人なんだ?」

「メアリさん? えっと……メアリさんは凄い人なの。いっぱい魔術が使えて、色々なことに詳しいの。……わたしのお祖母様のお祖母様よりも昔から生きてる、なんて言ってたけど」

「エルフ、だと……!?」


 シラノは若干後悔した。

 エルフである。

 ファンタジーといえばエルフである。シラノとしても出逢いたいと思っていたが、ついに出会うことができてなかったエルフである。

 生きているといいことがある。シラノは力強く頷いた。

 エルフの、凄腕の、魔術士――――しかも国家から依頼とかされている。凄まじい人間。いや、凄まじいエルフ。何とも浪漫に溢れているではないか。


「そんな凄い人……いや、凄い森人族(エルフ)だったのか……」

「ええ……半分長寿の血が入っていて、ずっとわたしのお家に仕えてくださってるんですって」

「そうか……」


 ハーフエルフの執事。いや、この場合はハーフエルフのメイド長だろうか。

 ともあれこの世界の学習制度が判らぬ以上、家人としてエルフを雇うというのは非常に合理的に思えた。

 何しろ人より寿命が長く、その家のあり方というものに仕えられるのである。

 そんな人物さえいれば、おいそれと代替わりに伴って一家が没落――などということも避けられるだろう。誰しもが知る三国志でよくある駄目な流れが断ち切れるという訳だ。

 いや、もしもエルフの軍師などいたら、それはもう物凄いのではないだろうか。かなりの長期の国家運営が期待できそうである――――。


 ……と、話が逸れた。

 どうにもそれが自分の良くない癖だなとシラノは髪を掻き、妙な気恥ずかしさを消そうと口を開く。


「エルマリカは、なんでそんな人とこんな場所まで――」


 軽い気持ちで言いかけて、シラノは後悔した。

 エルマリカが、怯えるようにその群青色の瞳を見開いていた。

 触れてはならない傷。きっとシラノは、それに無遠慮にも踏み込んでしまっていた。

 何故エルマリカがメアリと共にいるのか。この場でその理由を問うなど――それはあまりにも白々しい所業であった。


「……」

「……あ、いや、悪い。なんでもねえ……悪い、今のは違うんだ」

「ぁ……ぇ、ええと」

「いや、でも……その……また会えてよかった。あのあと、ちゃんと家の人と会えたのか心配してたんだ。いや……だから、また会えて良かった……無事でよかった。いや、その……悪い」


 目を逸らしながら、シラノは苦し紛れにお茶を濁した。

 誰にだって、触れられたくないことはある。

 メアリは裏方だと言った。裏方の、日陰者だと。そして国家から雇われた人間だと。

 そんな風に呟くメアリが家人を務めている家の生まれのエルマリカが何かなど――聞くまでもなく、ある程度は想像がつく。

 彼女は、それを恐れていた。そこにシラノは触れてしまっていた。


「……」


 気まずい沈黙が満ちる。下手を打ったと乱雑に髪を掻くシラノへ、彼女は静かに口を開いた。


「……ねえ。シラノさんは、わたしが無事だと嬉しい?」

「ああ。……それは本当に嬉しい。嘘じゃない」

「ふふ、えへへ……そっか。わたしが無事だと、嬉しいのね……ふふ、うふふ……そっかぁ……」

「……?」


 極々当たり前のことを言っただけであるというのに、妙な含み笑いと共に頬に手を当てて顔を隠されると……これが全くどんな反応をしていいのか判らなくなる。

 眉間に皺を寄せてシラノは頬を掻いた。

 本当にどうしたものか。そう思っていると、小さな笑いと共にエルマリカが口を開いた。


「ごめんなさい、シラノさん……。わたし、話すのがあまり上手じゃないでしょう?」

「いや……」

「ふふ、この間はあんなときだからいっぱい喋ったけど……不思議ね。こうしていると、何をお話ししたらいいのか分からなくなってしまうわ。実はこんな風に、誰かと何でもないことを話すのって……そんなの、初めてなの」

「……メアリさんとは?」

「メアリさんは……ええ、好きよ。でも……少し、違うの。わたしたちの関係は……少し……」


 少し寂しそうに彼女は目を伏せて、


「……わたしね、本当は産まれてきちゃいけない子だったんですって。産まれて来たらいけない子……選ばれてもいけない子だった……わたしが選ばれたせいで、お父様もお義母様も望まない身分になってしまった……」

「それは……」

「ずっと、要らない子だと思われていたわ。……誰もわたしのことを見てくれない。誰もわたしのことを考えてもくれない。わたしは呪われた幽霊と同じなの…………同じ、だったわ」


 呟くようになった口調は、それでもすぐに明るい笑顔に塗り替えられた。


「ぁ……で、でもね!? えっと、言いたいのはそういうことじゃなくて……それにその、今は褒めて貰えてるのよ!? 本当に、ちゃんと褒めて貰ってるの! そう、わたしはへっちゃらなの!」

「……」

「ですから、シラノさん……あのね? 無事でよかったって言ってくれて……わたし、本当に本当にとっても嬉しかったわ! わたしね、そんなことを言われるの初めてで……! この間みたいに守ってくれたのも、シラノさんが初めてで……!」

「それは……」

「だから今日会えたのもとっても嬉しくて……って。そういう話をしたかったんだけど……」


 ざわりと、背筋が震えた。

 明るく自分自身に苦笑するようなエルマリカのその笑みには、見覚えがある。

 エルマリカのことは知らない。出会ってからも合わせてたったの数時間。どんな人間なのかを知るにはあまりにも短すぎて、その距離は遠すぎる。

 それでも、判る。

 年頃の少女然としたその裏に、闇を抱えている。本当は冗談にもできず、茶化すことも嘘で、それでも納得を付けていくしかない痛みを抱えているのだ。

 それは知っている。それは、シラノも見たことがある。()()()()()()()()()


「ごめんなさい、もう少しお話の練習をしなきゃ駄目ね……これじゃあ本当に呪われた幽霊みたい」


 そう言って複雑な笑みを浮かべたエルマリカの顔が、良く知った誰かの顔に重なって――――。


(――()()()()()


 ぎり、とシラノは奥歯を噛み締めた。

 何故、許されるのだ。何故、そんな非道が許されるのだ。

 何が産まれてはならないだ。何が選ばれてはならないだ。何故、普通の幸せを得てはならぬと突き放せるのだ。そんな当たり前の願いを持つことさえさせぬというのだ。

 誰が決めた。誰が許した。誰が(がえ)んじた。

 生まれ。血筋。

 それを理由に人の笑顔を奪うことを、何故貴様らは許してしまえるのだ。ごく普通の望みや想いさえ、何故貴様らは踏みにじってしまえるのだ。


(――()()()()()


 人の持つ、当たり前の明日を迎えたいという――どこにでもある今日を送りたいという気持ちを、亡き者のように扱う。亡き者として押し潰す。ただの呪いにする。

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 いいや、たとえこの地上の誰が許そうとも――――万人がそれを肯定しようとも、シラノ・ア・ローは決して許してはならない。

 絶対に首を縦に振ってはならない。それだけは飲み込んではならない。

 ()()()()()()()()

 気付けば拳を握り締め、言っていた。


「エルマリカ」

「……なあに、シラノさん?」

「君の後ろにあるものを詳しくは聞かねえ。……誰だってきっと、そういうのがある。話せとは俺ァ言わない」

「……」

「でもな……もしそこで……君が助けて欲しいと思ってるなら、そう言うなら……もし君が助けてくれと願うなら、俺は絶対に君を助けに行く」


 見開かれたエルマリカの群青色の瞳を前に、その手を取って真っ直ぐに続けた。


「ただ一言言ってくれ……君がそう言うなら、誰が何と言おうと絶対に助け出す。必ず助け出す。それだけは約束する……絶対に、絶対に約束する。絶対に――俺だけは君を見捨てない」

「……」

()()()()なんて――そんなことは、そんな言葉は、この世の誰が許したとしても……俺だけは許さねえ。俺が斬る。その言葉だけは、俺が斬らなきゃならねえ」

「……」

「……エルマリカ?」


 覗き込むシラノの前で――これを、なんと言えばいいのだろう。

 夕焼けというのか。リンゴというのか。いや、それとも茹で蛸だろうか。とにかく……こう、真っ赤だった。


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!? な、なんでもないわ!? ええ、なんでもないから!? ええ、大丈夫! 大丈夫よ!?」

「お、おう……」

「だ、大丈夫だから! 大丈夫よ!? 大丈夫です! ええ、うん、大丈夫!」

「あ、はい……うす」

「え、ええ……うん……」

「……」


 そして釣られて、シラノまで顔を赤らめて目を背けていた。

 疲労を忘れるほどに火照った頬を感じながら、しまったと顔を覆った。

 なんだ、これは。なんなのだ、これは。

 こういう反応をされると、こちらまで酷く恥ずかしくなってくる。

 髪の毛を掻きむしりながら大声で触手を召喚したくなった。いっそここが死地である。うるさいわ。


「ふふ……」


 だが、隣で頬を赤らめて笑っているエルマリカを見ていれば――――間違いとは思えなかった。

 そうだ。

 生まれを理由にごく普通の幸せを諦めさせる。いびつと押さえつけ、当たり前に得られるものを奪い取る。異常であることは、不幸や不運になって当然のことだとする。

 そんな呪いを斬るために、この手に刃を握ったのだ。

 触手剣豪は、呪いを斬らねばならぬのだ。

 故に、これは間違いじゃない。――――そう頷き、目を閉じた。


(……ああ。俺は、触手剣豪だ)


 この刃がどこまで届くかは判らない。

 いつまで立ち向かえるかは判らない。

 どれだけ立っていられるかは判らない。

 だからこそ、一度たりとも退いてはならないのだ。



 ◇ ◆ ◇



 そしてシラノを森の出口まで送り届けて――二人は()()にいた。

 民家から無数に立ち上った黒煙が地獄の亡者の如く空に伸び、煌々と燃え上がった火の手が魔界の篝火めいて揺れる村。

 それは死だ。死骸だった。

 死んでいた。その村そのものが、死んでいた。何かを砕く音、啜る音、引き裂く音――叫び声に唸り声、笑い声に嘆き声……傍目にも溢れ出す死が満ちていた。


「……メアリさん」

「なんです? どーかしやがりましたか?」


 やれやれ、とメアリは目を細めた。

 見慣れたものだ。いや――見ても慣れはしない。だが、何も感じなくなった。その長い半生の間に、メアリはいくつそれを目にしただろう。

 だからメアリ自身はいい。ただ、隣にいる少女は――歳が十五にも満たないその少女はどうだろうか。

 そう、内心で鬱屈した溜め息と共に金髪の少女に横目をやり、


「ど、どうしよう……!? あんなに近くで話してしまったわ!? か、顔と顔がこんなに近くて……口づけするぐらい近かったの!」

「前に逃げるとき、かなり密着して抱えられたんではねーですかね?」

「そ、それにわたしの手を握って下さったの! 私の手をよ!? 手を繋ぐなんて赤ちゃんができてしまうかもしれないわ!? しかも、ずっと心配してくれてたのよ!?」

「……」

「あんなに困った顔をして……ああ、いけない……駄目だわ……! うう、あっ……なんて顔を……」


 露骨な半眼を作って、今まさにメアリも心配していた。

 具体的には将来とか。その嗜好とか。脳みそとか。しかもかなり本気で。

 燃え盛る村の目の前で、くねくねと身を捩らせる恋する乙女。なんというかかなりアレだ。

 というか、その嗜好を口に出せたのだろうか。出せないまでも何か進展があったのだろうか。

 せっかく二人きりにしたのに、「尊すぎて話せない……どうしよう……」とか「公式が供給過多……」とか「生シラノさんムリ……しんどい……」とか言われたらメアリがどうしていいか分からなくなる。

 一人で魔物の群れを掻い潜って村まで近付き、そして頑張って引き返したのだ。そこまでお膳立てして何もなかったとか言われたら、流石のメアリもぶっ飛ばしたくなるだろう。

 まぁ、


「……で、任務のちょっとしたご褒美はできました?」

「……」

「人を襲うどうしようもない魔剣使いに、こんなザマの魔物の鎮圧――――執行騎士の役割ってのは、まぁお世辞にも楽しいとは言えねーですからねぇ」

 

 普段とは違う乾いた笑みを浮かべて、メアリは自嘲気味に笑う。

 王の仕事とは、統治の意味とは、そして国家の役割とは――――即ちは刃である。

 あらゆる国民に代わる刃。あらゆる権力を超える刃。あらゆる害と敵を討ち滅ぼす刃――即ち国とは暴力の統括機構であり、王とはその集積頭脳に他ならない。

 襲い掛かる夷敵から領土を守り、平穏を望む万民の為に秩序を維持し、そして湧き出る魔物や怪物を討伐する。そんな究極の暴力が、国家である。

 そして国家は人でない以上、代わりとなる手足が必要だ。その治安の維持の為に市井(しせい)の情報を集め、天下の和を崩し乱を生まんとする俗悪を討ち、王権の執行を助ける刃が必要だ。

 それが執行騎士――国家の内で飼われる、門外不出の究極の暴力である。


 しかるに――。

 もしもそこに、究極なる七振りの一――伝説の魔剣が存在するとしたらどうなるか。

 そんな剣に、妾腹から生まれてしまった正嫡ではない少女が選ばれたらどうなるか。

 家を継がせるわけにもいかず、しかし放り出す訳にもいかない少女が居たらどうなるか。

 それが答えである。たった今メアリの隣にいる者の、答えである。


「……ええ。打ち明けてよかったわ。わたしのこと、あんなふうに思ってくれる方は初めて。本当に……本当に……打ち明けられてよかった」


 自分自身に語り掛けるように、半ば夢心地のように、或いはただ一人地獄を歩く聖者のように――エルマリカは呟きながら、一歩一歩その足を進める。


「ああ……だから、シラノさんの特別な顔が見たいわ。絶望と戸惑いが混じった、そんな特別な顔が……わたしだけの特別が、欲しいわ」


 その金髪を、瘴気を孕んだ風が揺らす。

 しかし構わず、彼女は誰かに語り掛けるように続けた。いや――それとも、誰にも語り掛けていないのか。


「あなたは怒るかしら……? 悲しむかしら……? でも、あなたが助けにくるのは……実は悪い竜なのよ? ふふ、それでも助けるって……そう言ってくれるの? ふふ、ふふふ……かわいい人……」


 その相貌は、あまりにも年齢と不釣り合いなほど妖艶に染まる。

 嗜虐的な笑みを浮かべながら、エルマリカはくすくすと近付いていく。その群青色の瞳に、村を焼く焔が反射した。


「ええ……助けなんて、そんなのはいらないわ。わたしには必要ないの……わたしにはいらないのよ? なのにあなたは助けに来てくれる。わたしを助けに、塔の上までやってくる……ふふ、あはは……!」


 心底耐えられないと、エルマリカはその身を抱きしめた。

 全霊を懸け助けに向かった筈なのにまるで意味はなく、挙句その相手に斬り捨てられる――――そんな無常が許されていいのだろうか。そんな非道が存在していいのだろうか。

 それはあまりにも冒涜的だ。あまりにも救いがない。そんな残酷な終わりが存在してはならない。

 誰だってそう思う。万人が否定する。そんなものは、悪辣な終幕だ――と。そんな凄惨な最期がある筈がないのだ、と。


「あなたを……斬りたいわ。手を伸ばしてくれたあなたを、そんなあなたの手を……切り刻んでしまいたい」


 惨たらしい結末だ。

 だからこそ――()()()()。だってそれは、エルマリカの正気の証明にしかならないのだから。

 存在するのだ。この世には存在するのだ。どうしようない不幸が、どうしようもない苦痛が存在するのだ。

 ああ、だから見たい。見せて欲しい。一番大事なものを、一番好ましいと思うものを、一番素晴らしいと思うものを完全に破壊したときに訪れる胸の痛みは――きっとこの世が本当に存在するという確かな証だ。

 それでようやくエルマリカは幽霊でなくなる。そうして初めて、エルマリカと世界は同じ線に結ばれる。


「ええ、見せて……? わたしだけに特別に……見せて欲しいわ……! あなたのすべてを……! あなたの一番を……! あなたの絶望を……ただ、わたしだけに……!」


 だからそれは、自分に向けられなくてはならない。そうでないと、道理が通らないのだから――。

 エルマリカは己を抱きしめる指の、その爪に力を込めた。

 痛い。だからまだ生きている、痛いと思ううちは死んでない。自分は正気だ。そう確認する為の、祈りの動作。

 そうやって身を震わせるエルマリカに、無感動でぶっきらぼうな声がかかる。


「お姫ぃ様、大物が来やがりましたけど……大丈夫ですか?」


 メアリの若草色の目線の先には――鱗と鱗の境を蒼く燃え上がらせた白き大蛇が五体。そして、あまりにも異常極まりないほどに肥大化した八本の高足で立つ虎柄の大蜘蛛が四体。

 問われたエルマリカは頷いた。

 見えてはいる。ただ、視る必要がなかっただけだ。


「ええ、問題ないわ? ……誰もわたしを傷付けられない。わたしは絶対に傷つかない。そうよ、わたしは――無敵なんだから」


 呟くエルマリカは、嗤う。

 一歩を踏み出す度に、何かが砕ける音がした。何かが砕け、強引に押し開く音がした。

 否――――謳う。謳う。世界が謳う。

 歓喜を叫ぶ。光栄を謳う。栄誉の雄叫びを上げ、万雷の喝采を言祝(ことほ)いだ。

 そうとも、これは祝福である。世界は歓びの涙を流すのだ。この世に再び、その剣が放たれることに。

 それは世界を定めたる七の内の一つ。この世の基盤である七振りの中の一柱。地の底から現世を支えていた究極の一。

 その名を――〈竜魔の邪剣(ノートゥング)〉と云った。


「……ええ。わたしは、無敵なの。誰にだってわたしは傷付けられない」


 独りごちるエルマリカの皮膚を食い破り、黒鋼色の鱗が発現する。

 否――それは鱗ではない。全てが切っ先。全てが刃。次々に身体から突き出たそれは、無数に尖ったその全てが魔剣の刀身である。

 その影は、最早人間などに収まらない。組み合わされた刃は鎧を為し、殊更に額から大きく突き出た二本の剣先――禍々しく湾曲を描いたその(つるぎ)は、伝承に名高き邪竜の二本角であった。

 等身大の竜。人間大の魔剣。劔刃装甲――人のその身を覆いつくす、数多の()()()()()。それこそが〈竜魔の邪剣(ノートゥング)〉の戦闘態である。


 大蛇が、大蜘蛛が疾走する。

 崖を転がる落盤よりも強烈に、滝へと流れる濁流よりも激甚に、その巨体のすべてで大地を揺らして迫りかかる。

 対するは、一人の少女。如何な魔剣と言えども大きくその身は変わらず。光沢のない黒鋼色の剣鎧に覆われてなお、力強さというには欠けて余りある。

 余人が巻き込まれれば、瞬く間に端切れの如く引き千切られて一生を終えよう――――そんな計九体の暴威を前に鋭角的な黒鎧はただ立ち尽くす。

 何もできぬというのか。真っ先に飛び掛かる蒼い鬼火を零す蛇の大顎が、蒼白の焔を灯した蜘蛛の毒爪が、エルマリカ目掛けて突き刺さり――


「……」


 ――そして、粉々に弾け飛んだ。

 邪竜の鎧騎士が腰を落とす。そう見えた瞬間、黒い猛風が駆け抜けた。一直線に迫りくる群れを断つ超音速の疾駆であった。

 地で巻き起こる体液と肉片の雨。横殴りの瀑布――すれ違いにエルマリカに触れられた魔物たちは、その全てが爆発四散した。

 これが魔剣。これが剣刃。これこそが〈竜魔の邪剣(ノートゥング)〉。黒よりもなおも苛烈な黒鋼色のその劔刃装甲は、穢れすらも寄せ付けない。


「……ええ、そうよ。わたしは、無敵なの」


 そして街を覆った死は、より巨大な死に飲み込まれて沈黙した。

恋する女の子は無敵(物理)


キラキラは勝てなかったよ……

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