第十八話 穢れしもの(前)
ファンタジーらしくやっと魔法が登場です。キラキラします
改めて、本当に馬鹿馬鹿しい大きさであった。
その頭部は、シラノの胴よりも太い。人間など容易く一呑みにしてしまうほどの大顎。
かつて前世で観た大蛇の映画を思い出すほどに、あまりに破壊的なその姿――――これが魔物だ。魔物の〈成体〉だ。
大股での九歩の向こうで塔めいて起こされた大蛇の頭。振るえば自動車程度ならば簡単に大破させそうな膂力に満ちた胴と、幾本もの木々の根本を通りながらもまだその向こうまで続く体長。
蛇――――本能が恐怖を想起させる。これこそが、捕食者であった。
今になって膝に震えが来る。
画面の向こうで主人公たちが相対していた敵といざ己が身一つで見えると、これほどまでに恐ろしいのか。
両手に握った日本刀めいた触手の刃も頼りなく感じた。僅かまばたきの一間だけで、喰い呑まれてもおかしくない。
「ふぅー……」
だからこそ肺から息を絞り出し、シラノは腰を落とした。
巨躯だ。巨体だ。大物である。たかが剣の二振りで武装した人間など、巻藁よりも容易く引き裂かれても不思議ではない。魔剣に相対した際とはまた違った未知への恐怖が、シラノの内から湧いてくる。
だからこそ、だ。
だからこそ、こいつばかりは何としても斬り捨てる――――斬り伏せねばならんと眼差しに力を込めた。
敵の攻撃に対処するのではない。捌くのではない。襲いかかられるのではない。――そう、喰らいかかるのである。喰らうのだ。シラノが。シラノの方こそが。
喰らい殺す。恐怖に呑まれぬ為には、それしかない。
「イアーッ!」
冒涜的な発声と共に一斉に放たれた十本の触手が、しかしことごとくに土煙を上げた。
なんという巨体に似合わぬ軽快な機動力だろうか。蛇行するその巨体は、触手槍を全弾躱しのけ――うねりながらシラノへと突撃する。
氾濫する濁流めいた突進。次弾発射の余地はない。開かれた大顎には蒼い炎が灯り、シラノを一呑みにせんと急襲する。
横に飛ぶ。
どじゃあ、と身を捻ったシラノの背後の大木が叩き折れた。
巻き込まれれば鎧騎士さえも挽肉よりも無残な死体に変えられるだろう。驚愕を覚えるより先に頭部は引き戻され――そしてもう一撃。飛び退いた地面が爆ぜた。
飛来する土砂の散弾がシラノの腹を打ち据える中――更に一撃。
森の大地を平坦な更地に変える気なのだろうか。城塞を破壊する重機めいて、頭部が次々に打ち付けられては爆裂が上がる。礫が肌を裂く。
召喚発声の余地がない。回避に集中しなければシラノも無残な死体となろう。人間よりも滑らかに動く野生動物の肉体は、それこそが最大の武器であるのだ。
「イアーッ!」
だが、だからこそシラノは吠えた。触手三段突き――そして逆の触手三段突き。豪速で唸る――計、六段突き。
見よ、これが触手剣術の真価である。超高速で射出された左右六本の刃が、瞬く間に大蛇の頭部を粘土よりも容易く抉り飛ばしてのけた。
だが――止まらない。致死の傷を受けても行動を止めない。歯を喰い縛る暇すらない。強烈な風切り音を伴った半壊の巨体が、剣を繰り出したシラノへと破戒槌めいて叩きつけられた。
全身の骨が軋む。削ぎ落さねば即死しているほどの巨体が――振りかぶってもう一撃。
「ぐ、がぁ……ッ」
頭上で交差させた両手の骨が嫌な音を立てた。
手に布を巻き付けていなければ、剣を取り落としていただろう。
咄嗟に首を竦めたシラノの両肩にかかる圧力は凄まじく、耳元で骨が異音を鳴らす。両足に電撃めいた激痛が走る。
骨が折れるか。関節が砕けるか――再生を始めた頭部が振りかぶられるのを眺める――次こそ完全に頭蓋が砕けるか、それとも首が陥没して死ぬか。丸太を超えた完全な姿の巨躯が、叩きつけられる――その瞬間、
「イアーッ!」
最初に回避された触手の槍からの召喚。先端にのみ棘を満載にした触手の鞭が、銛めいて大蛇の身体を射抜いた。
いや、まだ、終わらない。
「イアーッ!」
上空へと射出し、そして失速し落下を始めた六本の触手刃からの召喚。
降り注ぐ落雷めいた触手の槍が大蛇の頭部を突き穿つ。
「イアーッ!」
そして、駄目押し――。
強度を無にし合一させ、即座に再形成した両手の二刀――改め、両手で握るは触手野太刀。
超大な剣身。肉厚の刀身。重厚なるその大物を両手で頭上に目一杯、まさに大上段へ振りかぶり、
「イィィィィアァァアァァァァ――――――――――ッ!」
猿叫と共に叩き落とされるその切っ先は大蛇の首を掻き斬り――肉に食い込むその先端が数多の刃として弾け飛んだ。
首を断たれて飛び散る雪めいた白き肉片と、そこを巡っていた筈の暗黒色の体液。爆発四散したその断片は、驟雨の如く大地へと降り注ぐ。
――白神一刀流改め、白神野太刀一刀流・零ノ太刀“唯能・颪”。
野太刀の長き刀身と肉厚の刃幅全てを活かし、無数に“襲”を放つ荒業である。
「大物首級だな……クソッタレ……」
そして、息を吐く間もない。
大物を討ち取られたところで、魔物は人間に非ず。疲弊したシラノ目掛けて、これ幸いと距離を詰める。
押し寄せる無数の黒き波。十重二十重の包囲網として揺らめく鬼火めいた爪と牙を前に、シラノもついに膝を折った。
明らかなる限界であった。脳髄が、精神が、魂が――これ以上の冒涜的な召喚には耐えられぬと限界を叫んでいた。
だからこそ刃を支えに、シラノはただ一言口を開く。
「――いあ」
そして地面から噴出する超高速の触手抜刀、触手抜刀、触手抜刀――――それは土に住まう化生の爪めいて、取り囲む魔物の肉体を散り散りに引き裂き飛ばした。
この戦い、一度とてシラノは刃を光に還していない。否、戦いを巻き戻して眺められる者がいるなら知るだろう。見ればいい。シラノは、使い捨てる触手を液状として地に落としていた。
これこそが仕掛け。土にしみこませた強度を無にした触手を陣に、触手抜刀を放つ。
百神一刀流・七ノ太刀“無方”、並びに二ノ太刀“刀糸”、重ねて九ノ太刀“陰矛”――――触手の強度を無にし潜め、触手を召喚陣として使い、そして死角から襲い掛かる一撃。
名付けるならば、白神一刀流・合ノ太刀“土蜘蛛”。シラノが編み出した技の合わせの太刀――一種の奥義であった。
限界に、更に限度を上乗せした一撃で完全に力を使い果たした。
ともあれ百人斬り。魔物の腕や足、首や臓物が零れる地獄絵図の中にシラノは倒れ込もうとし、
「シラノさん……!」
「エルマリカ……!?」
その地獄にあまりにも不釣り合いなほどに金髪を靡かせる少女を見た。
思わず飲み込まれそうになるほど深い群青色の瞳。僅かに癖をもって膨らんだ柔らかな砂金細工の金髪。陶磁器を磨き上げたかの如き淡い乳白色の肌と、藍色のドレスと白いケープに包まれた華奢な体。
童話の中から現れたような少女が、斬撃の生み出した阿鼻叫喚地獄の中――シラノを眺め、立ち尽くしていた。
「なんで、こんなところに……? いや、待て……下手に動くな……!」
気の抜けそうな体に活を入れて立ち上がる。もしも息ある魔物がいると思えば、この死体を更に念入りに殺し切らねばなるまいと――半ばから刀身を失った野太刀を構え直そうとしたその時である。
「はいはい、大人しくしてくんなさいね。魔物から傷負ってやがりますから、まずは浄化しねーと」
「あなたは……?」
「メアリです。まー、よしなに。……はい失礼さんですー。開けやがれです。はいあーん」
肩にかかるほどの橙色の髪の少女に、唐突に口に金属板を突き入れられた。
もが、と呻く。舌にひやりとしたものが当たった。これは、宝石だろうか。
何をと眺めれば頭から水筒の水を浴びせられた。その水筒にも、静謐に輝く蒼い宝石。
「お姫ぃ様との感動の再開の前にわりーですけど、先にちゃっちゃと何があったか話して貰えねーですかね?」
気だるげな若草色の半眼で見下ろしながら、ぶっきらぼうな口調で少女が呟いた。
それはどこか非人間的な少女であった。愛嬌のない着せ替え人形――そう思うほどに端正に整った顔の中心に胡坐をかく無感動気味に気怠げな半眼と、左右の肩口で束ねられた髪と、やけに几帳面に結われた左の三つ編み。
エルマリカよりも身長はやや低く、その手足は若木のようになお細い。黒いロングスカートの上から掛けられた純白のエプロンは、やはり鉄火場に不釣り合すぎる装いである。
一言で言うなら、案山子めいて無愛想な人形女給。なお、その胸は非常に平坦であった。
◇ ◆ ◇
噎せ返るほど、煤の香りがする。煤と、澱んだ鉄錆の臭いだ。
斬り捨てた百体超の魔物の残骸から離れて、三人は丸く固まっていた。シラノは汗だらけの背を木に預けて、未だに弾んで収まらぬ息で身体を揺らす。
「……ふむ。大量発生、ですか」
「うす。……近頃増えてるとは聞いてましたけど、こんな規模は俺も初めてです」
「ふむふむ。……そーいや近場の山道に村があるんで、やっぱそ~ゆーことですかねぇ。浄化の宝石がイカれやがりましたか」
半眼のまま、面倒臭そうに首を捻る。メアリと名乗ったその女性は、聞くに専門家というものであった。
発動に関わる四つの分類――――即ちは共律魔術・自律魔術・代律魔術・類律魔術。またの名を相似魔術・刻印魔術・形意魔術・感応魔術と呼ばれる四つの発動方法の、その全てを収めた凄腕の魔術士。
そんな彼女は、要請を受けてこの場に来ていた。
野山や大地にも染み込むと言われる穢れを、人々は魔剣を解析して編み出した魔術の力によって克服した。
街道などに出没する魔物が、街の中で突発的に湧き出しやしない理由は一つ。
市街地の中心部に建てられた宝石塔。無垢なる宝石と周囲の大気や水流を相似させて――同じく清らかなものであると看做して穢れを浄化し、周囲を清浄に保ちつづける宝石を用いた共律魔術によるものだ。
村や水源、或いは穀倉地帯や森林地帯に設置された〈浄化の塔〉。
魔物の増加とは、それらの何らかの不具合が関連しているのではないか――そう知見を求められてのことらしい。
「メアリさんは、王国から依頼されてる……って言ってましたよね」
「ええ。まー、そのスジってヤツからですね。そのためにこんな野山まで面倒くせー足を運んでるワケでして」
「……」
僅かに考え込んだシラノへと、見透かすようなメアリの瞳が向けられた。
「ああ、国が見捨ててると思ってやがりました? かなり適当で、やる気も何もあったもんじゃねーって思ってやがったんです? いっぱいいっぱいでやがるって?」
「……はい」
「ええ。まー、公式にやるにはどうしても手が足んねーもんですからね。こーして国家の裏方の日陰者を使って、ちょちょいと調査をしてるワケです。まー、これでも腕は確かなんで」
不敵な半眼のまま、メアリは今にも火を吹き出さんとしている竜の絵が描いてある札を晒した。
意味を持つ文字や似姿、絵画や版画を用いて『それが本物である』と看做して発動する魔術の方式――――形意魔術である。
つまり、彼女がその気になれば瞬く間にこの札から炎が吹き出すということだ。
それさえあれば、先程のシラノのように無限に斬り結ぶ必要はない。なるほど、魔術というのは実に効率的な代物らしい。
「……ま、剣士さんの話を聞くなら――どっかしらの宝石が、何かの理由で穢れちまったって考えるべきですかねぇ」
「宝石が穢れる、スか? 穢れを防ぐ為にあるのに? ……あ。あと俺は剣豪です」
「ええ、剣士さん? ……ま、穢れを祓う為の宝石なんですから簡単に穢れやがらねーですけどね。それでも仮に、周囲の空気や水を共感させて……擬似的に“同一”としてる宝石そのものが穢れたらどうなると思います?」
「……まさか」
揺れるシラノの目線を受けて、メアリは無表情のまま両手を広げた。
「ええ。ま、ご破算って申ーしましょーか? そうしたら反転して、辺り一面が汚染尽くされやがっちまうんですよ」
「辺り……一面が……?」
「ええ、吸う息も飲む水も、何もかもが穢れちまいやがるんですよ。口を開けば肺が爛れて、冷たさを求めて水を被れば皮膚が崩れる。当然そんな中にしばらく居たらどうなるかなんて……ねえ?」
「……」
「触手使いはその手のことにべらぼうに耐性があるっても、その怪我で専用の装備も持たねーで行ったら自殺行為ですね。ま、死にたいならお勧めしときますけど。きっと何呼吸も保たずに楽しく穢れにやられちまうでしょーからね」
シラノは知らず、喉を鳴らしていた。
メアリの告げた恐るべき想像図についてではない。メアリがそれを、まるで見てきたように語ったからだ。
彼女はきっと、その地獄を知っている――実在するのだ。そんな地獄が。
「……ま、驚かすのはこんぐらいにしといて、あたしらはあたしらの仕事をしましょーか。お上に雇われてるってのも、面倒でやがりますけど……仕方ねーですね」
「仕事って、まさか……」
「村、ありますよねぇ……?」
この流れでメアリが口にしたそれが何を意味するかなど、あまりにも判りきっていた。
そして、シラノが察したことをメアリもまた察したのだろう。にぃ、と何かを告げるように二本の指で口角を押し上げた。
無愛想な彼女に似つかわしくない笑顔。瑞々しい頬は盛り上がり、蕩けるように目尻は下がる。だが――それでもどうしようもなく、その瞳はあまりに暗く……そして深い。それはさながら、伽藍洞めいて光を失った笑みであった。
万人がその虚無を前に身を竦ませ、背筋を震わせるだろう。それほどまでに凄惨な双眸である。
だが、
「待って下さい。……今から行くんスか? なら、自分も同行します」
シラノは腰を上げ、決断的に一歩を踏み出した。
細かい理屈は判らぬ。生憎とシラノはこの世界の魔術に明るくなく、本格的に動き始めてからも日が浅い。未だに慣れぬことの方が多いと言っていい。
しかし、善悪や幸不幸の区別はつく筈だ。
少なくともメアリの口のしたその事実は、万人にとっての害としかならない。見過ごしていい理由などどこにもなかった。
何か力になれればと一歩を踏み出し――人差し指が突き付けられる。
「ダーメです。あんたさんは触手使いだから耐性あるかもですけど、その傷じゃあいくら何でもむぼーってもんです。専門の装備がないなら、黙って専門家に任せときなさい」
「……」
「気持ちは認めてやりますけどね、下手な助成は足手まといなんです。なんもできねーどころか、あっという間に魔物の仲間入りでご破算ってヤツですよ? そんでもって、あたしに襲い掛かる」
正義感は認めるが、そんな風に足を引っ張りたいのか――。
そう問われて頷けるほど、シラノには傲慢さが足りなかった。
「……うす。判りました」
「うむ、素直でよろしい。おねーさん、素直な子はちょいとばかり好きですよー? …………お姫ぃ様、違います。そういう意味じゃねーです。ちげーます。落ち着いて」
どうどう、と手を伸ばしたメアリの横でエルマリカは満面の笑みだった。満面の笑みだ。金髪碧眼のその風貌と相まって、天使の笑みと呼ぶべきなのだろう。
……何故か仮面のように張り付いていて、やたらと背筋が寒くなることを除くならだが。
ともあれ、
「何かあったら呼んでください。すぐに駆け付けますから」
「ええ。手に負えなかったら逃げてくるんで、そんときゃ一緒に逃げましょーか。……んじゃお姫ぃ様、ついててやっててくだせー」
「え?」
「怪我人放置するワケにもいかねーでしょう? ほら、一緒に居てやって。ほら」
ぽんぽん、と肩を叩いてエルマリカを座らせるメアリ。そのまま何事もなかったかのように、彼女は一直線に歩き去っていく。
疲労困憊し、満身創痍のシラノ。そして唖然としたように目をしばたたかせるエルマリカ。
あまりにも対照的な二人は、暗い森の中に取り残された。
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