第九十八話 不吉なる四つの死肢
何も為せなかったというのに……。
そして手の内から怒りさえも失われてしまうのが、ただ酷く恐ろしかった。
◇ ◆ ◇
商談に関して、今までの生まれ故に買いたたく或いは吹っ掛けるという経験のないアルケル・ア・ボンドーは得手ではない。
そんな彼でも満足するだけの売買が成立したというのは、ひとえに……これまでの旅で随分とその手の馴染みがない光景を見せられ続けたからであろう。
「いやあ、善かったでありますなあ。うむうむ」
そのありがたい教師役。
生まれもお育ちも不明だがかなりの老練――というか何をどうしたらそうなるのか、ぶっちゃけ人間性が最底辺に近いユーゴは濡れ羽色の黒髪を揺らしながら、頭の後ろで手を組んでしみじみと漏らした。
さきほどから、ずっとこの調子である。
「善きかな善きかな……しかしこう……あれでもう少し胸が薄いか、もうちょっと身長がありさえしてくれたらよかったのに……うーむ惜しい、でありますな」
「……いやキミ本当に最低だよホントさぁ」
「いやいや、当人の前で言わないのが肝心でありますよ。聞かれなければどう言っても構わねーもんであります。それにほら、女性ともなれば褒めるのが礼儀でありますからな」
「……いやそれで褒めてるつもりなのかい!? それで!?」
むしろ無礼でしかない。
これまでのアルケルの常識から鑑みると、まずもって――というか気のしれた男友達がいなかったがために――いわゆる“男の話”に縁がなく、まぁ、失礼としか思えない。
商談も無事に纏まったが、肝心の帰り道もさっきからこの状態。
息を吸うよう吐くように人間のクズと呼んでしかるべき話題を口にするユーゴに、アルケルは半ば辟易していた。
「いやあ、身目麗しい女二人連れの商人とは……アルケル殿もこれからやることがないのなら、一行に加えて貰うのも悪くなかったかもしれませんなぁ……両手に華でありますよ! 毎日交代で違う味わいであります!」
「いや最低だな!? いや本当最低だなキミ!? というか嫌だよそんなの!? もうできてる人間関係に入るなんて気まずいってモノじゃないだろう!?」
「なぁに、抱いちまえばなんとかなるでありますよ! 最初は二人ひとまとめで! 何度か経験もあるであります! 下半身の強さは伊達ではないであります!」
「もうほんっと最低だなキミって!? 最低だなホント!? いやどんな生き方をしたらそんな風になれるんだい!?」
「ハハハ、そりゃあ愛と勇気とありがたい神の御言葉と少しのお酒で――……」
ふと言いかけて、ユーゴが止まる。
そんな仕草に、アルケルもまた足を止めた。
ユーゴ・ア・ヴァルーはおおよそ人間として最低域だ。酒にだらしなく金にだらしなく食にだらしなく女にだらしない。ついでに働こうともしない。働いたら負けだと思ってる。
ハッキリ言って、どうしようもない駄目人間の俗物だ。
だが、ある一点だけではアルケルも彼を認めている。
「……また、何か来たのかい?」
「ううむ。魔剣があったなら強奪者と考えられるでありますが……これは金目当て? いや、どちらかというならシラノ殿の件の……」
残りの言葉を呑み込むようにユーゴは口を閉じ、そして、今度は打って変わったかのようにアルケルへと柔和な笑顔を向けてきた。
「……アルケル殿、今は剣も持ってないでありますな?」
「さっき売ったばかりだからそりゃね……。……ま、まさか僕にも戦えって言うのかい?」
「いやあ、当方一人で駄目ならアルケル殿は何の足しにもならないでありますよ。おまけに腕なんて怪我してればなおさら。……それより、ほらこれ」
「……?」
おもむろに懐から取り出した短剣をアルケルへと預け、ユーゴが顎で促す。
なんだか分からないまま、アルケルは革の鞘を外す。
左腕が折れているために難儀したが、なんとか曇天の下で白刃を剥き出しにする。
「さ、それをしっかり握って……うっかり手放すとヤベェでありますからな?」
「……? いや、いったいキミは何を――」
するつもりなんだ、と言いかけた途端であった。
「た、助けて――――――――――っ! この人、刃物を持ってるわ!」
裏声。
すっごい女声。
まるでどこかの貞淑な深層の令嬢が身に溢れた清純さの中から精いっぱい命乞いの懇願を振り絞ったような悲鳴だった。
直後、
「な、なにィ!?」
「み、見ろ! あいつ女に刃物を突き付けて……!」
「なんだと!? まさかそんな!?」
がしゃがしゃと鎧を鳴らした男たちが、土煙を上げながら道の前後から現れる。
尾行されていたのか。狙われていたのか。
どこからどう見ても先ほどまで商談をしていた相手と同じ家中らしき騎士たち。
というか……
「…………………………………………え」
一体いつの間にか。
アルケルの手をとったユーゴがするっと腕の中に納まり、背後から首に刃物を突き付けられた少女の立ち位置に納まってる。
「ゆ、許してください……! 家には病弱な母が……! お願いします、命だけは……!」
そして続けられる裏声。涙声。
どっから出してるんだろう。
どうしてそんな声出るんだろう。
何が彼をそうさせるんだろう。それとも実は彼女なんだろうか。
ユーゴだって知らなければ可憐な女性だと思ってしまうような凄い女声だった。
「ふ、婦女子を盾にするなど……! なんて卑劣なやつなんだ……! クッ……見下げ果てた人間のクズめ……!」
「ああ、こいつは許せん……! たとえどの神が許そうとこのおれが許せねえぜ……!」
「なんて奴だ……斬るしかねえ……! こいつは悪人に違いない……! きっと酒にも金にも女にもだらしないぞ……!」
そして、がしゃがしゃと鎧を鳴らしていきり立つ騎士たち十数人。
一体全体いつの間にか、さっきまで健全な商売をしていた筈のアルケル・ア・ボンドーの評価は瞬く間に婦女子を盾にするという人間の最下層のクズとまで叩き落されていた。
というか押し付けられていた。風評を。それも本来ユーゴに向けられる類いのやつを。
(キミさあ!? ちょっとキミさあ!?)
(ふはははははは、これがユーゴ流状況打破術その三十二であります!)
(何も打破されてないよ!? 悪化してるよ!? というかこんな馬鹿馬鹿しいのが他に三十一もあるってのかい!? 正気!?)
思いっきりアルケルが耳打ちすれば、
「み、皆さんお願いします! 武器を捨ててください! さもなければこの場で私を裸に剥いて辱めるってこの人が……!」
ユーゴが翻訳した。
翻訳というか誤訳だった。誤訳というかもう完全にでっちあげであった。
そして、
「クッ……な、なんて卑劣な奴なんだ……! だが、いたいけなる少女の言葉に従わないわけには……!」
「見ろよあの女の子……胸が鉄板みたいだぜ……。ひん剥かれるなんて……み、惨めすぎる……!」
「馬鹿野郎それがいいんだよテメエ。あとで城の裏に来いよお前。明日の墓標載ったぞコラァ!」
騎士たちが次々と武装解除していく。
路上に投げ出される剣、剣、剣――――……。
「………………えぇ」
大変なことになった。
アルケルは思わず天を仰ぎたくなった。
なおユーゴが少女っぽい顔をしながら片目で合図を送っていた。やかましいわ。
◇ ◆ ◇
届かぬものが腐り落ちるのを、眺めている。
腐る――――淀んでいく。何もかも。しがらみに。くだらぬ論理に。救えぬ道理に。煤けていく。
そうして堕ちきった果実を眺めたときに……己が抱く感情というのは、きっと、枯れ井戸の果てに似ていた。
――――シュミター・ア・ローカス「失墜の希望」より。
◇ ◆ ◇
エルキウスという男は、農夫の出ということに相違ない。
否、正しくは一度農夫へと落とされ――――そこから這い上がった男であった。
質実剛健とも呼ぶべきそんな彼の部屋の内、四方の壁に面した本棚には厳しい装調の図鑑砂盤が敷き詰められている。
地面には簡素な絨毯。
かつての“土捨て人”――浄化の技術なきかつての世で戦闘後の土を処分した名誉ある任務者――の父祖が賜ったという名剣を腰に帯びたエルキウスは、重く口を開いた。
「……私は、牢に連れて行けと言わなかったか」
視線の先には、両手を縄で縛られたシラノ。
首に巻いた赤いマフラーは健在なれど、獅子丸は取り上げられている。咎められるような目線を向けられた騎士たちは顔を見合わせ、困惑気味に呟いた。
「は……それがその、ミシリウスから怪馬についての情報を得たとか……執行騎士から……黒天宮衆壊滅の情報を得ているとか……」
「……何?」
「ですので、その、エルキウス様の判断をお伺いしたく……この者も大人しく武器を差し出したものでありますから……」
じろ、と冷徹な瞳がシラノを睥睨する。
非武装状態であるというのに、シラノへの警戒を怠っていない。やはりこちらの背景――無手でも無刀たり得ない触手剣豪――を調べているというのは間違いなかった。
むしろ、何故やすやすと連れてきたと不機嫌そうな気配を醸し出しつつも、
「……ふむ。如何ばかりであるか、と問いたいが……」
「……」
「いいだろう。……貴様らは席を外せ。かの難行に挑む勇者は、虜囚に身を窶してまで陳情があるらしい」
騎士たちへと、そう告げた。
ひとまずここまではシラノの目論見通りに運べたようだった。
その後、騎士たちとエルキウスの間にひと悶着あったものの……シラノに武装は返還され、縄も解かれた。少なくともこの場で敵対する意図はないのだとシラノも捉えることにした。
一区切りがつくと同時に、エルキウスは盛大に溜息をついた。
「……全く、兵たちに余計なことを広めてくれたものだ。これではなんのために怪馬と貴様ら冒険者を隠れ蓑にしていたのか、判らぬではないか」
「つまり、あなたは……」
「貴様の言うとおりだ、シラノ・ア・ロー。……黒天宮衆の神殿はすでに壊滅している。そういう意味では、民が奴らに怯える必要はない。民が知り得て良い範囲で、此度の騒動に恐れるものはなにもない」
「……」
「だが……奴らはこの庄に現れているのだよ。『過去の盟約に従って』『住処を寄越せ』……とな」
「盟約……?」
既に種明かしの済んでしまった手品にこだわりは見せぬ、というエルキウスの態度。
物憂げな吐息を漏らし、彼もまた香料で水出しした香草茶を啜った。
「かつての折に……我が父ルキウスと、そしてあのミシリウスが奴らに交わした盟約だそうだ。取り引き、と言っていい」
「……」
「何を取り引きした……と言いたげだな、シラノ・ア・ローよ。はは、貴様のその目は節穴か? それとも私が貴様を買い被っていただけか? 貴様とてこの庄で目にしたはずだ――――とうに朽ち果てし酒精神の神殿を」
まさか、とシラノは息を飲んだ。
この庄では未だに大麦酒が生産されている。このとき発酵させた大麦はそのままでは飲めたものではなく、味を整えるための香料が必要である。
そして、香料の提供を行っていたのは――酒精神の神殿。
それが、朽ちているということは……。この地から既に手を引いているということは……。
「得たのだよ。我が父ルキウスが……ミシリウスが。よりにもよって、幾代にも幾十代にも渡って争ってきたあの黒犬共から――――我が庄の誇りともいうべき大麦酒のその根幹、香料をな」
「……」
「判るか? あの怪馬は……今回の騒動は……全ては我が父が、前の領主が、あのミシリウスが、奴らが齎した騒動にすぎん。父祖から連綿と続きたる伝統を投げ捨てた、その上の汚点なのだ」
厳然とエルキウスが断言した。
その瞳に籠められた感情は、とても、シラノを口で言いくるめようとしているようなものではなかった。
◇ ◆ ◇
道の舗装もままならないというのは、経済状況を物語っているのだろうか。
土煙を立てながら走り去っていく騎士の一団を見送り、路地裏のリープアルテは半眼を作った。
「……で、どうして貴方たちが無事なの?」
「はっはっは、それは勿論我がユーゴ流状況打破術その三十二から六のおかげでありますな!」
「……そういうこと言いたいわけじゃないんだけど」
胡散臭い張り付いたような笑みを浮かべるユーゴへ、辟易した吐息を漏らす。
元よりリープアルテは己でも人物の好悪が激しいとも自認しているが、このユーゴという青年に対しては猶更だった。
二人きりならすぐさまに騎士の元へと蹴り出しているかもしれないと思いつつ、もう一人――警戒の必要もない小動物のような金髪碧眼のアルケルが口を開いた。
「その……ミルドさんは、大丈夫だったのかい? あと、その、剣士クンは……?」
「捕まったわよ、代わりに。……相手を一人も斬らないからああいうことになるのよ」
見ればわかるだろうと肩を竦めれば、少年は委縮したように謝罪を口にした。どうでもいい。
斬るか、斬られるか。世を支配している常だ。
意を通すなら斬る。意を通せぬなら斬られる――そんな単純明快な真理から片足を外せば人はああなる。
そう溜め息を吐けば、ユーゴが朗らかに笑い飛ばした。
「なるほど、ハハハ! いやあ、あの御仁はそういうところがありますからな! ならばせめて見目麗しいご令嬢の無事を喜ぶべきであります! 手柄だと! その方が討ち死にされたシチ殿も喜ぶでしょう!」
「……わかったわ。ええ、そんなに乞われたことがないから理解しきれなかったけど――――死にたいのね。もっと早く言えばいいのに」
「もうキミ口開くのをやめなよホントさぁ!? 超えちゃいけないとこ超えてるよ!? 僕も庇いきれなくなるよ!?」
「ハハハ、この程度の軽口を受け流さないとは! ……それほどまでにシチ殿に感じ入る何かでもありましたかな?」
「だからさあ! いい加減にしなってホント!」
ぎゃあ、と喧騒が上がってすぐに消えた。金髪がユーゴの口を抑えたのだ。
それに免じて、抜きかけた刃を戻す。
心がささくれ立っているのはアルテ自身判っていた。
考えがあるからと任せてみれば、人一人斬ることなく捕縛されたなど――……なんと言っていいのやら、こうして苛立ちを深めるのに一役買ったに過ぎない。
いや、或いは――……。
「それで……貴方たちの方は何か分かったの?」
「どうやら今回の魔剣売買――――仲介人のあのご麗人たちから売り込んだらしいですな。あ、交際相手がいるのか婚姻しているのかに関しては秘密だそうであります! ちなみに自分も今恋人募集中であります!」
「……何も判ってないってことじゃない。あと聞いてないわよ。サカるなら火山に落ちて死になさい」
脳が湧いている馬鹿に付き合わされた――と侮蔑的な目線を送れば、それでもユーゴは笑みを深めるだけだった。
「なによ。焼くわよ貴方」
「いえいえ、ですが不思議ではありませんか? この庄はこれまで幾度と攻められながら一度も魔剣を購入したことがないというのに――ここにきて、とは」
張り付いた笑みは変わらない。出会ってからずっと同じの、吐き気のしそうな笑顔だった。
髪を掻き上げて、代わりにアルテは吐息を漏らした。
「……売ってなかっただけじゃないの、そのとき。魔剣は早々、売りには出されないでしょう?」
「ま、それは確かにそうかもしれませんな。……しかし、気になりますなァ。よほどあの御婦人がたはお酒が好きなのでありましょうか? だとしたら夜、酒席にお誘いすべきでありましたかな――とかとか。ひょっとしてお誘い待ちだったんでありますかなァ」
「……馬鹿話をしたいなら便器に顔でも突っ込みなさい」
「いや、よほど酒が好きなのでしょうなぁという話でありますよ。あの御婦人方にちょっくらお近づきがてらに聞けば、どうにも他の貴族がたとも取引があるというのに……滅多に売りに出されない魔剣を、言っちゃ悪いですが、こんな寂れた場所にわざわざ売りに来るとは不思議極まりない」
「……何が言いたいのよ」
ふざけた話を混じえるな――……。
そう双眸を尖らせたアルテの前で、よりにもよってこの男は、
「提案は単純――――さっさとこの庄を抜けちまいませんか? このままだとやべーでありますよ」
そんな世迷いごとを、悪びれもせずに言い放った。
◇ ◆ ◇
リルケスタックというこの山間の街は、古く――魔剣の王の起こした厄災により帝国時代の居住可能な地域の大半が汚染された後に開拓された場所だ。
無論、怪物も蔓延っていた。深い森だった。そんな場所を、魔術も持たぬ当時の人間は開拓した。
いや、言うなら苦労はその後――――というべきか。
人の死は、つまりは戦の争いは穢れを生む。居住可能区域を求めながらも争いを起こすことは、魔物や怨霊を生み出し、まさに奪わんとしていたその地域を居住不能にするのだ。
その過程で騎士の中に、“土捨て人”などという流血に穢れた土を捨てる役割が生まれることや、或いは“言の葉人”という弁舌に優れる者も生まれることがあった。
当時の戦争とは、思った以上の紳士協定が罷り通っていたのだ。戦で人を殺すよりも捕虜にし、その引き換えに相手の居住区や資産を得る――――などという。
「だが……この庄に限れば別の話よ。この庄は、“卑”たる穢れを寄せ付けぬ聖なる流れの下にある。……つまりは逆に言うならば、いくら戦で殺そうとてここに魔物は湧かぬということ」
「……」
「判るか? あの魔剣の王の災禍から安息を求めて望んだ地は、安息地であるが故にどうしようもない災禍に見舞われるのだと。……それを逃れるために我らが父祖が見出したのが大麦酒なのだよ。かつては香料も独自のものであったと聞く」
「……換えのきかない立ち位置と需要を作ることで、『襲うよりも味方にした方が得だ』……そうさせたと言うことスか?」
「端的に言えば、そうだ。貴様は理解が早くて助かる」
コトンと杯を置いたエルキウスが、シラノにも別の杯を差し出してきた。
傾ければ、爽やかな香りの液体が口に含まれて――……ミシリウスの家で味わったものと、同じだった。
「とはいえ……時代が下るに連れて、魔剣の王の勢力であったものたちの力も落ちる。やがて生き延びていた神殿の残党などがこの竜の大地にも復興されるようになり……我々の父祖も、彼らから香料を得ることになった」
「……」
「そうした繋がりで成り立っていることも確かにあったのだ……いくら剣を磨こうとも、魔剣には勝てぬ。いくら自助自立を歌おうとも……数多の魔剣を持つ黒天宮衆から庄を守り抜くことは、できやしなかっただろう」
様々な想いを飲み下すように、エルキウスもまた杯を傾ける。その動作もどこかミシリウスと重なった。
「それを、よりにもよって前の領主は……神殿と手を切ると決めたのだ。代わりに黒天宮衆と手を結ぶとな。……確かに神殿の者たちは些か増長していた。不満はあったろう。だが、軽率だった」
「……」
「誇りとは、過去だ。明日をも保証されぬ民草たちには、せめて昨日を誇らせねば今日を生き抜けない。……それを奪ったのだよ、我が父と前の領主はな」
「……だから、取り戻すのですか?」
「そうだ。魔剣の王がかつて使いし剣で――――奴ら黒天宮衆を討つ。流れ者のミシリウスではなく、この領民たちの手で。……そのために泳がせていたのだ、怪馬は」
どこか含めるような表情はあったものの、嘘はないのだろう。
真摯に語りかけてくるエルキウスは、一拍を置いて真っ直ぐにシラノへ瞳を向けてきた。
「あの馬の被害は、今のところ人には及んでいない。……貴様がどう出るにしろ、黒天宮衆を討った後にしてもらいたい。……傲慢な物言いだが、約せるか?」
「……それがあなたの死地と言うなら。俺は、邪魔建てしません」
「感謝する。……貴殿はまさに噺に謳われる英傑だろうよ、シラノ・ア・ロー」
「……それは、俺でなく触手使いという全てに――――俺の業や在り方に善きところがあるとすれば、あの人たちの善なる心のおかげです」
「承ろう。……また貴殿の武勇や苛烈さが触手使いへの不可侵を呼ぶことも、祈ろうとも」
そこまで見抜かれぬのかと――シラノは何とも言えなくなり頭を掻いた。
剣一本で全ての差別が拭えるとは思えない。いずれ淫魔を討ち正しく彼らの功績が世に出ることがあるとしても――――その道半ばで、シラノは果てるかもしれない。
少なくとも抑止力になればいいと、思っていた。
杯を傾け、中身を飲み干す。
エルキウスの目的は、この庄を脅した黒天宮衆を討つことだ。その準備に時間を稼ぐために、怪馬一つの対処に手をこまねいていると油断させようと冒険者をこうも使いもした。
(初めから、文字通りの当て馬か……)
それが判れば、従うことも否ではなかった。
いや、ここに住まう人々の生活を曲げてまでも己が進むべきことではない。……淫魔の件や魔剣の王に関わる調査もできる。
一礼し、退出しようと踵を返した。そんなときだった。
「シラノ・ア・ローよ。貴様には、生きていくための指標はあるか? いや、あるはずだ。そうでなくては説明が付かぬ動きが多い……貴様は武力ではなく、己の在り方ひとつにて世界と戦える男なのだ」
「……」
「貴様という男が難行に来ると聞いて調べたのだ。その経歴を。……故に機会があれば問いたいと思っていた。何を以て、剣を執るのかとな」
「……は」
「私は、それが少し羨ましい。……私にはないのだ。そのような情熱が。輝かしいものが。あるとしたら……怒りがひとつだけだ」
先程までの鋼鉄のような声色を持たぬ男の言葉。
私的な話を打ち明けられているのだと――理解にはそう時間がかからなかった。
「怒り、スか……?」
「……これは余人には語る気などない。私が持つ、私の唯一のものだ。それよりも……問わせてくれ。貴殿は何故、世にも刃を向けることができる?」
真剣な瞳に、これがただの興味本意の雑談ではないと知れた。
ボリ、と頭を掻く。
軽率に己の内を明かすというのは、男子として憚られるべし――前時代的な価値観であるがシラノはそう思っている。
故に、これまで口にしなかった心内というのもまたある。
(……………)
エルキウスは、何らか、その鋼鉄めいた態度を崩してまで問いたいことがあった。
ならばその望みを無碍に扱うのもまた無粋か。
これまで――本当の意味で誰にも話したことのない心の内。フロー相手にも告げることを憚られる、シラノ・ア・ローとしてではなく――――白野孝介としての言葉。
隻眼を瞑り、静かに零した。
「……怒りと言ったあなたにだけ、話します。俺は――――ずっと怒っている。きっと、どこかで怒っている」
「我が故は話さぬ。……貴殿だけに問うのは、傲慢か?」
「いや、俺ァ大層なもんじゃねえっス。……家族がいました。俺にも。多分、一般的なものより多く――苦労したんでしょう。子供心にもそう思った……俺が長子としての働きをしなければならないと思うほどに」
「……」
「でも、ある日――――その人たちの幸せは奪われた。俺の不注意が奪ったとも言っていいです。……従うべきでもないものに従って己を曲げて、その果てに、家族から『当たり前』の幸せを奪った。……俺のせいで悔やませてしまうことになった」
「……そのことを、悔いているのか」
自分が死んだことへの無念もある。怒りもある。悲しみもある。
だが、自業自得ではある。妥当ではないと己が判断した相手の言葉に、何が何でも従わないというのを選べなかった責は確かにあるのだ。
しかし――。
それよりも母に、父に、弟妹に――――彼らに対し『家族を失うことが相応しいのだ』と定めた何かが、シラノには心底許せなかった。
苦労の果てに長子を事故で失い嘆き悲しむことが、彼らの当たり前なのか。そう定めた何かが、この世にはあるのか。
そう思えば、遮二無二に拳を振りかざしたくもなった。
「悔いました。その上で、もう一つ間違いを積んだ。……俺があれほどまでに一緒にいた人たちから『当たり前』を奪ったなら、新しい……降って湧いたような人にそれを与えられないと。筋が通らねえと。それが身勝手だと頭で理解しても、心のどこかで納得できなかった」
「……」
「……結局その人も、亡くなりました。大きな苦労をした人だったのに、俺はまた『当たり前』を渡せなかった。渡さなかった。……俺なんかがいなければ、あの人は死ぬときまで自分の息子と居られただろうに」
“淫法・異世界転生”――その邪術を聞いてからシラノの頭にはあった。本来シラノ・ア・ローとなるべきだった者から、立ち位置を奪ったのではないかと。
マフラーを引き上げる。いくら剣を握ろうとも、どこかで消しきれぬ内なる迷いだった。
「その贖罪のつもりか? ……貴殿が今行っていることは」
「わかりません。……ただ、全く別に純粋に思うんです。その人には笑っていてほしいと――きっとこの世の誰よりも。この世界のどんな誰よりも、幸せになってほしいと……俺がまたこの世からいなくなる前に、できるだけのことをしようと」
「……」
「俺がどこかで死んじまっても……その人が笑って生きられる下地を作られたらそれでいいんです。……きっといつか、その人はちゃんと心から笑えるようになる。たとえ俺が死んだことを悲しもうとも、それ以上に笑えるようなことが増える筈だ」
一度、家族を置き去りにした。
ならば二度目がないとは思えない。剣に生きるからのみならず、どこかでシラノ・ア・ローはまた不意に果てぬとは限らない。
ならせめて、作るべきだ。己が死ぬまでに、幸運にも生きている限り、橋をかけるべきなのだ。残された人たちがせめて幸福に辿り着けるだけの、確かな橋を。
「……いい加減報われていいはずなんスよ。これまで得られなかった分、これから得られねえと帳尻が合わねえ。そんなことが……そんなふざけたことが、許されていい訳がないんだ」
無論、死ぬつもりなどは――殺されてやるつもりなどは微塵もないとしてもだ。
「……それが貴殿の拠り所か」
「茶化されると嫌なんで、あんまり言いたくはねえんスけど。……怒りと言ったあなたになら、少しは」
「存外の光栄と受け取ろう。貴殿が道半ばで果てるなら、語り継ごうとも」
「そうならねえことを、祈りますよ」
握手を交わし、部屋を出る。
他にすべきことは、ミシリウスへの裏取りか。あと、リープアルテたちとの合流もしなければならない。
そう石畳の廊下に歩を進める。ようやくこの難題にて、己のあるべき道を定められそうであった。
――――――故に、
◇ ◆ ◇
黒黒と葉の生い茂る深き森に、男たちの悲鳴が木霊する。
否、それは最早悲鳴とは言えない。
恐怖への絶叫という――何も行えなくなった人間に最後に許された行動をも封じられ、くぐもった嗚咽一つで死んでいく。
声にならぬ声。
音にならぬ音。
いくつもの鎧姿の騎士たちの肉体が、ただの死体として森に転がっていく。
半死霊馬の帰還先の調査を命じられた若き騎士は今まさに、その命の灯火を消さんとしていた。
「……準備、整いました、ですか? トンネル・パトロールさん……?」
「ええ。このこ汚い田舎が滅ぶには十分……でしょうか。私達も回りくどいことをした甲斐があったものです」
「…………もっと、斬りたくもあった……です。残念」
帯刀をする小柄な黒髪の少女――カムダンプは、その無表情のまま辺りを見回した。
騎士たちの死体。見る人間が見れば、ショックで気を失ったかもしれない。だが、カムダンプには何の感慨もない。
爪が剥がれるまで喉を掻き毟り死したもの。
ガリガリに痩せ細り、己の腕の肉を喰らいながら死せるもの。
アスファルトに踏みつけられたミミズのように、上半身からぺしゃんこの腸をはみ出させたもの。
そして仲間に噛みつきかかり、お互いの喉笛を食い破って死せるもの。
いずれも――――彼女が手を下したのではない。彼女の“四力士”が行ったのだ。故に、手応えなどはなかった。
「さて。……ではせっかくなのでこの方たちにも、役立って貰いましょうか」
「リサイクルは、大事……です……」
ゆったりとした商人風の衣装に身を包んだ緑髪の女――トンネル・パトロールが眼鏡をかけ直す。
それと同時に現れた黒外套姿の男たちが呪文を唱え、そして、
「では、お喜びを――――故郷に還して差し上げますわ?」
先程まで騎士であった男たちは、黒い炎の如き瘴気を身に纏い立ち上がる。
そこにはもう、誇り高き騎士や家庭を愛する父や子はいない。
――――――魔物。
“穢れ”により汚染された人間の果てなる姿だけが、木々の合間で燃え上がってた。
大変長らくお待たせしました




