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第九十七話 酒蔵の地と虚無の炎


 生きて死ぬことに、意義などなかった。

 動くことか、動けなくなることか。

 違いはそれだけのこと。

 いや……動いていても、それはただ動くために動いているだけで、ただそれをし続けるだけということで、動けなくなったそのまま動くことがなくなるのとさして変わりがない。

 だから、本当の意味で自分は……生きてすらいなければ、死んですらいないものだった。


 深い森。緑の木々。握るは弓。掴むは矢。

 ――射かけ、放つ。

 それはそんな思考と同様に、ただ当たり前のことだ。そうなろうとしているものへ、指を離し、そこに置いてくるだけのことだ。

 故に動かなくなった狼を眺める自分にも、やはり、感慨はなかった。


『吼えやがって……大層ぶったところで、甲斐なんてねえ。アンタは――』

『ルキウスだ。……よろしく、小さな勇者くん。もしよかったら、君に礼をする栄誉をいただけないかい?』


 だから助けた男が人の好い笑顔をしたときも、特に、感慨はなかった。ない筈だった。

 ……だというのに。

 彼が向けたその柔らかな顔は――――今まで味わったことのないもので。

 その、勇者という響きには……多分きっと、それが、正しくて善いことなのだろうという想いを抱いた。

 勇者。

 正しくて、ただ善いもの。

 笑みを向けられるもの。

 意味のあるもの。

 だからきっと、多分、生きて死ぬことに意義がなくても――意味ができたとすれば、この日だったのだろう。



 ◇ ◆ ◇



 夜が明け、半日が過ぎ――シラノが得た収穫というのは、このリルケスタックという街についての知識が深まったという程度だった。

 山岳に程近い平野の庄、リルケスタック。

 曰く――かつては清浄の気を孕んだ水を用いて大麦を育て、そして大麦酒(エール)を作っていたということ。

 穢れに対して人が対抗手段を持たなかったそのときには、その〈神封酒(クスィー)〉が大層な公益となったこと。

 既に〈蜜と安楽と穀物の女神(シアリーリス)〉であったか〈発酵と実と陶酔の男神(ディウォニシオ)〉の神殿はこの地を離れているということ。

 農耕地としての歴史は古く、それ故、この地の農夫は原則として自助自立を謳っているということ――……。


「……」


 魔術砂版の手帳を懐に戻し、街並みを一瞥したシラノは吐息を漏らした。

 ついぞ明け方まで街を見回るも、あれ以降半死霊馬(ヘルメイアー)が現れることはなかった。

 その寝床は森林地帯であるのか、およそ一ヶ月前ほどから出現するというその怪馬に関しての情報は少ない。

 ……いや、正しくは、やはり、あまり語りたがらないと言ったところか。

 残すところは街の至るところにある石と木で作られた(つぼ)のような醸造所であるが――……おそらくあまり進展は望めないだろう。

 いずれにせよ、これまでの難行とは質が違うというのは既にシラノとて重々知るところであった。


(……手詰まり、か。あとはあのミシリウスって人ぐらいしか――……)


 マフラーを引き上げ、思わず嘆息した。

 そのミシリウスという男の情報こそが、最も手に入らないものだった。

 そして更に七八軒の酒蔵に聞き込みを行えども、やはり有力な手がかりは――――掴めない。

 エルキウスの元へ直接乗り込もうとて、軽々に踏み込むことも難しい問題であり、また、相手も多忙という。


 どうにもやるかたなく空を見上げた。

 本日は曇天。

 鬱蒼と灰色の天幕が下界を塞ぐように蓋を為しており、初夏特有の乾いた空気に湿り気を帯びさせるのでどうにも微妙に肌寒い。

 こうなってしまえば、いよいよ取れる手段というのも少なくなる――……そう憂鬱げにシラノが長息を漏らしたときであった。


「面倒なことをしているのね、シチ」

「……なんスか」


 あいも変わらず、特に助力することも妨害することもなく()()()()()()――という顔をして付き纏ってきているリープアルテが、平然と呟いた。

 視線を向けても軽く肩を竦めるだけ。

 軍服風ブレザーを支える肩紐の横で剥き出しにされた白い肩が、サラリと黒髪の間からまろび出た。


「面倒よ。そうでしょう? どうしてわざわざ聞きまわっているの? 誰に遠慮をして? そこまでする義理が――こんな街にあるのかしら?」

「……街のために魔物を倒しに来て、街のためにならねえことしてなんの意味があるんスか」

「そう、ええ、それよ。初めから意味がないの。街のために――魔物を倒す? それが……それ自体が面倒なことでしょう? 何故貴方がそんなことをしなければならないの? お金? 名誉? ……そのためにこんなことをするのも、面倒の内でしょう?」

「……何が言いたいんスか」


 問いかけながら、シラノ自身判っていた。

 リープアルテはシラノの腰を、腰に差した刀を見やっている。何が言いたいかは明白だった。

 故に答えず、踵を返しそうとしたとき、


「……まぁ、そうね、だから……協力してあげるわ。貴方ってこういうの――得意ではなさそうだし。いい機会でしょう? 貴方を仕上げるのには……丁度いい」

「……」

「ふふ、そんな目をしないで貰えるかしら? 別に何も企んでいないわ。純粋に好意――というだけよ」


 好意というその言葉に、自然、柄へと手が伸びる。


「……何をするつもりなんスか」


 剣呑とした女に自分を仕上げると言われて、見過ごせるほど愚かではない。

 答え次第ではここで決着をつけなければならないかと……静かにシラノが呼吸を絞るその前で、


「ふふ、貴方ほど物騒ではないわ。ええ、前に……剣は単なる手段だと言ったでしょう? いいえ、この世の全てはただの手段が形を変えたものでしかないわ。だから――――」


 耳打ちされる、こそばゆさ。

 それを呑み込んで聞き受けた提案にシラノが僅かに目を見開けば、彼女は長い黒髪を揺らしながら満足そうに首肯して……さらに余計に満足げに笑みを零した。


「ふふ……それにしても、好いわねシチ。こんなにずっと私に殺気を向け続けて……本当、貴方、容赦というものがないもの。精神(こころ)そのものが刃みたい……素晴らしい男よ」

「……俺は平和主義だ」

「私第一主義にしてあげるから安心して」


 やっぱりこのクソセクハラクソド変態クソ女はここで縛って放置した方がいいのではないか。

 眉間に皺を寄せながら、ともあれシラノは頭を掻いて決意の頷きを零した。



 ◇ ◆ ◇



 絨毯すらもない石造りの冷たい部屋。

 応接室と呼ぶには、そこは、簡素なものであった。

 剣を握る戦神を描いたフレスコ画と床の天球図のみが装飾としてある薄暗い室内で、年若き金髪の騎士――ステファノスはシラノへと問い返した。


「――任を降りる?」

「うす。……申し訳ないですけど、相手がどこにいるのか判らなければ戦いようもないんで」

「……そうか」


 眉を僅かに動かすようなステファノスの了承には、軽蔑の念が含まれている。

 失望と呼ぶにはそもそも期待すらしていなかったのか――――そんな視線を受けながら、シラノは慎重に切り出した。


「重ね重ね申し訳ありませんが……そちらでも、怪馬の所在地に把握はされていないんですね?」

「繰り返すことになるが……昨日渡した情報がすべてだ。……それ以上のものはない」

「心当たりも……」

「くどいぞ、冒険者。それが判っているなら、貴様らなどに任せずに我々で討伐を果たすとは思わないのか?」

「……うす、失礼しました。でしたら……やはり、難しいですね」


 応じるシラノの言葉に、ステファノスは鼻白むような表情を浮かべた。若き彼が舌打ちを零さなかったのは、ひとえにただ偶然でしかないだろう。

 冒険者そのものへの、悪感情。

 頼りにならない戦闘者への、身分や重責・責任感を持たぬ部外者への嫌悪感。

 己へ向けられるそんな感情を認識しつつ、呼吸を一つ。やおら、シラノは口を開いた。


「ただ、その代わりと言うには些末で恐縮ですが……これまでの依頼金については、全額返金できるように冒険者協会には掛け合ってみるつもりです」

「返金……?」

「うす。……もう冒険者が派遣されることもないでしょうから。全額の返金ができるように自分からも口添えします」


 なるたけ平静に努めて言った言葉であったが……受けたステファノスの態度は違った。


「冒険者が派遣されないとは――――どういうことだ!?」

「どういうことだ、とは……ミシリウスという方はあなたがたの家中の方ではないんですか?」

「ミシリウス……?」


 訝しむように眉が寄る。

 若く力があり気負いもある彼は、感情の切り替えが上手く働かぬらしい。

 ステファノスのそんな様子を観察しつつ、余語を語らせまいとシラノは二の句を紡いだ。

 努めて冷静に。努めて、恥じ入るように。


「末席とは言え〈銀の竪琴級〉の自分が語るのも恥ずかしい話ではありますが、ミシリウスという弓使いの方が……随分と自分はあの馬に長じていると、お申し出くださったんで……」

「な……」

「冒険者ギルドの方にも自分から話は通しておきます。……一時的な任命制度というのは、ご存知ですか?」

「い、いや……」

「そうですか……元より難行という類を見ないものですので、あまり語られることもありませんが……。とにかく、ミシリウスという方をこの件の専任とできるよう――自分からも一筆を添えさせていただく、ということです」


 聞き覚えのない情報と、聞き逃せない情報。

 そんな混乱に巻き込まれたステファノスの心中を察するには、もはや顔色を伺う必要すらないものであった。


「いや……待て、今のは、いや……ぐ、とにかく……!」

「……申し訳ありません。自分はこれよりミシリウス殿の元に向かい仔細の打ち合わせ済ませ、その後早急にノリコネリアに向かいます」

「ぐ、う……待て、そうだ……! 貴様、いくらなんでもそんな無責任な――――!」

「……ですので、一刻も早く手続きを済ませます。それが今の自分に果たせる精一杯の責任です」


 ご理解いただけますね、と目をやれば、


「と、とにかく――……ここで待て……! いいな、ここで待て!」


 ステファノスはそう言い放ち、あわただしく部屋を後にする。

 その足音が遠ざかるのを確かめながら、シラノは、マフラーを引き上げつつ長い息を漏らした。

 壁絵の戦神が、雄々しい姿とは裏腹に無感情な目線を向けて来ていた。



 発火の魔術刻印が刻まれた芯壁と、それを覆うモルタルづくりの制御の魔術刻印。

 回路めいた模様が浮かんだ被破壊時に発動されるだけという廉価な魔術製防壁――盛り土された居城一帯を覆う幕壁のその一片が、釣り上げ式の木製の杭扉が、上がった。

 そして手綱を急かし振り付ける三騎の騎馬が、土埃と共に駆け出していく。

 呆然と、住人がそれを見送っていた。或いは何人かは剣呑とした雰囲気を知ってか、事情を知ってか、顔を見合わせながら騎兵たちへの勘繰りを漏らす。

 そんな様子を眺めて、


「……ほら、言ったとおりでしょう? ね、シチ?」


 建物の影、隣のリープアルテが妖しい流し目を送ってくる。

 どうやら彼女の提案どおり――――策に、揺さぶりに、相手は乗ったらしい。

 状況が膠着しているなら動かせとは、まさに先人の軍略家の言葉通りであった。


「……すげえというか、いやらしいというか」

「あら、寝所ならもっと激しいわよ? 蕩けさせてあげる――……って、ふふ、だからそんな目をしないで。食べたくなってしまうから。……これでも貴方の望み通り、平和な手段をとったんだけど?」

「……」

「ええ――まぁ、単純なのよ。人間って。……呪い? ――いいえ。……怪異? ――いいえ。民草はそんな形のならないものより、もっと判りやすいものを怖がるわ」

箝口令(かんこうれい)……ってことっスか? ここまでなんの情報も手に入らないってのは」

「さあ。……でもいつだって同じよ。受け止めきれないものが現れたときどうするか……そして治める立場の者が何をするのか。簡単な方程式しかないの……寝所で男女が語る睦み言よりも単純な、ね」

「……」


 肩を竦めた彼女が一体どんなものを見てきたのか――それに深く踏み込む権利はシラノにはない。

 ともあれリープアルテは、シラノ・ア・ローに持ち得ぬ手段を持てる女であり、


「さあ……行きましょう、シチ? ここから追うのには、頼りにしてもいいんでしょう?」

「……うす。多少は」


 場を整えられてしまえば、あとは、シラノの仕事という事であった。

 ……それにしても頭脳担当が現地人で、実働担当が元・現代人のシラノというのは何か間違っているという気もするが……まぁ、冷静に考えるなら慣習に詳しいのは現地人だ。なので極めて自然な帰結であろう。

 そう、現地人の提言をないがしろにしてはいけない。

 それを怠ってしまった歩兵第五連隊は冬の八甲田山で遭難し参加者二一〇名の中で二〇五名もの死者を出したし、提言に従ったペルシア帝国は半ば難攻不落と化していたテルモピュライの山道で勝利を収めた。

 つまり、得難きはそこで暮らした人々の声。

 専門家ですらないどこにでもいる一般的な現代人であったシラノに訳知り顔で言えることは何もなく、畢竟(ひっきょう)、ただ斬るのみであろう。


「ねぇシチ」

「なんスか?」

「そろそろアルテって呼んでもいいと思わない? 愛をこめて……熱い声で」


 ……繰り返すが、ただ、斬るのみであろう。

 そう、斬るのみであろう。……斬るのみである。べきだと思う。


「呼んで?」

「……その、善処します」

「呼んでくれないかしら?」

「……前向きに対応します」

「そろそろ呼んでいいと思うんだけど?」

「……社に持ち帰って検討します」


 マフラーを引き上げ、リープアルテから身体を離す。

 何とか向けられる目線を宥めながら、ともあれシラノはただ進むのみであった。



 ◇ ◆ ◇



 山道すらない獣道といって差し障りない小路。

 茂みを掻き分けそこに足を踏み入れたその時、正に三騎の兵士と弓兵が小屋の前で言い争う場面であった。

 そして、鷹揚な笑みを浮かべ男たちへと応対していた刺青姿の弓兵が俄かに振り向く。釣られるように、騎士たちもシラノを見た。


「お前は……」

「ああ、なんだいお兄さん……なるほどねえ。人が悪いもんだね、アンタ」

「どういうことだ……? いや、貴様たち……やはり通じて――」

「いいや、案内したのはアンタらさ。分かりやすく言うなら――ハメられたんだよ、アンタら。そこのお兄さんにまんまとな」


 くわばらくわばらとでも口にするように肩を崩すミシリウスの呑気を前に、激昂したのは男たちだった。

 二人。

 腰に下げた剣の柄へと手をかけ、シラノたちへと歩み来る。表情は、怒りに染まっている。

 言葉で収められるか、それよりもリープアルテがどう動くかと――……懸念した正にそのときであった。


「やめときなって。この場所を血で汚されても困るし――相手が悪いぜ。そのお兄さん、少なく見積もっても古竜級だ」

「黙れ! 貴様のような禁を犯した落人と話をしているのでは――――」


 ひゅばと、抜き打たれた一閃――――否、一矢。

 男の剣の柄に跳ね、擦ったそのまま茂みの向こうの野兎が射貫かれる。身を強張らせる隙すらない早業。

 シラノも含め誰もが呆気にとられるように目を見開く中、ミシリウスという褐色の弓兵は両手を上げて笑みを零した。

 それで、ただ、仕舞いだった。



 壁際には巻物にされた熊の皮が積み上げられ、或いは干した鹿の腱らしきものが紐の如く垂れる。

 木彫りの細工や、削り上げられる矢の数々。

 仕事用具が些か多いが、僅かに獣の匂いが漂うそこは典型的な狩人の家と呼んで差し支えないものだった。


「見ての通り、おれが“遠手”(ハルムヴロゥグ)のミシリウスだ。さて――それでおれになんの用だい、冒険者の旦那?」


 その“遠手”(ハルムヴロゥグ)――害なる一矢を意味するオークの言葉。

 冒険者の箔の一環ではなく純粋に人の中から自然と名付けられた二つ名と言えば、その実力は知れよう。

 かつて見たメアリの速射。あれと遜色がないというより……曲射を含めてしまえば、冷静で低燃費なメアリのそれとは趣が異なっていると言えようか。

 見たところ金髪の下の褐色肌に刺青を刻んでいること以外、ただの人間。

 そんな男はシラノから経緯を聞いて、苦笑を一つ。


「ふむ。……まあ、面白くもない話なんだが――あの馬は前におれが見逃した怪物でな? アンタは半死霊馬(ヘルメイアー)がどう生まれるかは――知ってるか?」

「うす。……多少なら」

「そうかい。……あれの母馬は、領主からある騎士へと下賜された馬だった。下賜って言っても、そんなに上等なもんじゃねえ。……そのままだと育ち切らねえってされた駄馬で、育てば今度は気性の荒い馬になった。それを、ルキウスって男が世話をしてたのさ……心を籠めてな」


 目を細めているが、不思議とミシリウスは風のように感慨を感じさせない。

 鷹揚な笑みのまま彼は続けた。

 領主に仕えた騎士ルキウス。彼と、その手に渡った馬――美しい馬。美しく健やかに育った馬。

 美しく育ってしまったからこそ問題だったのだと、ミシリウスは肩を竦めた。


「酷い話さ。使えないからって配下に駄賃代わりに押し付けたってのに、育てば育ったで今度はそいつを寄越せと言いやがったんだからな。……ま、よくある話かもしれんがね」

「……」

「ただ……聞いてもいるだろう? 元々ここらの民は自立心が高い連中の集まりで、ハイそうですかとナメられたら話にならねえ。たとえ領主相手にしても、だ。――――だから、だったんだろうかね」


 吐息を漏らす彼の前で、シラノは静かに呼吸を保つ。

 今の話だけでは腑に落ちないところが多い。


「よりにもよって組んだ相手が悪かった。……あの黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)だ。山伝いに、奴らに合流しようとした……昔からこの庄と揉めてた相手にな」

「――――!」

「……かどうかは、本当のところか判らねえんだ。ひょっとしたら、まぁ、単に山にでも放そうとしたのかもしれない。ただ、場所が悪く……おまけに時期が悪かった。……アンタ、大麦酒(エール)がどうやって作られるか知ってるかい?」

「いえ……」

「そうかい。酒精の二大神様に奉って発酵させた大麦の汁に、香料(グルート)を加えて作るんだ。これでようやく飲める味になるってもんだが……この香料(グルート)ってのが、神殿の秘跡でな? おいそれとその中身(レシピ)を明かすことはない」

「……」


 怪訝そうに眉を顰めたシラノの内心を読んだように手で制し、宥めるようにミシリウスは続けた。


「折悪く、神殿の連中とも揉めてたのさ。その先代の領主がな。アンタもあの神殿の跡地を見ただろう? 連中が香料(グルート)を売るの売らないのと、そういう話になってた。曲がりなりにもうちの名産――って謳ってんだから、そりゃあ死活問題だ」

「……」

「そんで、例の黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)ってのは薬草に通じててな。……だからその男が逃げ出したときに、神殿の誰かが言ったのさ。『領主からも求められるほどの名馬を引き換えに』『新たな香料(グルート)の調合を手に入れようとしている』って」

「それは……」

「ああ。……揉めてはいたとはいえ、実際お互いにまだ落としどころを探っていた段階だった。だから、その男の真意がどうあれ――両方にとっての厄介者になったのさ。そんなつもりじゃねえとしても、山の方に逃げるってのはな」


 そんな香料(グルート)の一種なのだろうか。

 薬草を包んだ布袋に水を注いで、ミシリウスは杯を差し出してきた。

 袋には色とりどりの花が詰まっていたからか、やけに鮮やかな黄色をしている。口に含めばミントの清涼な後味が強い。


「……本当のところ、神殿との揉め事も含めて先代ってのは色々とアレな領主だった。だから、まぁ、そこに一石投じたかったのかもしれねえが……全部裏目に出たんだよ。全部、な」

「……」

「使い方と人によっちゃ、他にも商売相手はいると神殿相手への交渉にも使えたんだろうが――……ああ、まぁ、なんだ。思い通りにならねえってのは、世にままあることさなぁ」


 杯を傾ける彼は、気付け代わりに使っているのか。

 喉が別の生き物のように動く。その爽やかな香りに乗せて、内にある何かを飲み下そうとしているような、そんな仕草であった。

 領主の配下の騎士による内通疑惑――そんな因縁が人々の口を閉ざさせているのか。そちらに関しては、シラノにできることはなさそうだった。


「……その、見逃したというのは」

「ああ。……おれがその男の追跡を行った。その先で――の話だ。母親を失ったばかりの仔馬だと、仕留めなかったのがこの結果だ。母親を射殺されてなお世に出てきた仔馬までは殺せなかった」


 やれやれと肩を竦めてミシリウスが杯を置く。

 トンと、静かな小屋に音が立った。


「……復讐なのかねえ、その時の。なんで今更って話だが」

「……」

「悪いな、つまんねえ話を聞かせて。……ただまぁ、アンタならなんとかしてくれるんだろ? そういう目の男だ……どうあっても誰を相手にも最期まで優しさを失わない、そういう男の目をしてる」

「……うす」


 期待に応えられるか分からないが、と固辞することも非礼となろうか。

 ともあれ頷き返せば、彼は満足したように皮造りの手帳を差し出してきた。そう多くもない頁を流し見れば、半死霊馬(ヘルメイアー)に関する情報が記されているようだった。


「なあ、ところでエルキウスは、おれのことを何か言ってたかい?」

「いえ……」


 逡巡し、マフラーを掴み上げる。

 エルキウスへの配慮ではない。ただ、目の前の朗らかな笑顔に対して憚られただけだ。

 そんな仕草でも十分だったのか、


「ま、あんまりあいつのことを嫌わないでやってくれ。あいつも、苦労してるのさ。……色々とな」


 彼は苦笑と共に白い歯を見せた。どうやら、昔なじみのようだった。



 シラノとリープアルテの立ち去った小屋の中で、一人、ミシリウスは机の引き出しを戻した。

 しまい込んだ狩猟道具。

 あの日以来、誰かと狩りは行っていない。

 喰らう為、生きる為に最低限度の――……などという内心での言い訳に、己のおこがましさを感じて自嘲した。

 生きる為。

 食う為。

 この自分がそう考えてそう過ごすなど、随分と様変わりしたようだという笑いと、本質では何も変わっていないのだという去愁。


「勇者、勇者、勇者か……結局おれは、そんなものにはなれなかったよ。そう呼んでくれたもの、アンタだけだしな」


 輝かしいもの。

 美しいもの。

 それに届かないからこそ――“遠手”(ハルムヴロゥグ)のミシリウスというのだ。掴むために手を伸ばすのではなく、遠くから手を放して損なうからしかないからこそ、射手なのだ。

 だが、


「……親父さんを殺したおれが言えた義理じゃあないが、やっぱりおまえにだけはやらせるものじゃねえよな。なぁ――」


 呟き、見やった壁には黒塗りの大弓と矢。

 あの日以来使われることのなくなった害なる黒手が、そこに鎮座していた。



 ◇ ◆ ◇



 状況の進展と言うなら、大きな意味があったのだろう。

 夕日が差すこともなく黒ずんでいく曇天の下、街の近くへと差し掛かる頃には既におおよそを読み解けていた。

 シラノの手の内で、手帳がパラと捲れる。

 (ページ)はそう多くない。だが、砂版のように主流でもない――そして羊の皮のように柔らかくもないそこに刻まれていたのは、いつかこの時に備えてか、ミシリウスの執念とも言えるものだった。

 確かにこれがあれば、半死霊馬(ヘルメイアー)を追い詰めることも難しくはなさそうだ。


「よかったじゃない、これで。貴方の仕事も終わりでしょう?」

「いや……まだ、答えが出てない。なんでエルキウスさんがあんな風に妨害をしてきたのか……それともうひとつ……」

「ふぅん? 大方、投げ出させるだけ投げ出させてから自分たちの手柄にしたいんじゃないの? ……どんな冒険者でも討てなかった怪物を討った、と言えば箔はつくでしょう?」

「……」


 それが答えなのか。

 興味の欠片もなさそうに呟くリープアルテの言葉にも、妥当と思えるものはあった。


(……ただ)


 もう一つ。

 半死霊馬(ヘルメイアー)が何故今になって出現したのか。

 偶然と言われればそれまでだが、それでも、十余年の歳月は長すぎる。半死霊馬(ヘルメイアー)は寿命の取り方が通常のものの半分ほどと言われても、なお、繁殖可能年齢――人間でいう成人――が三歳と考えてしまうと、やはり長い。

 半死霊馬(ヘルメイアー)が拠点としているのは人の手が入らぬ山。“貴”の輝石がある鉱山床だと――この街へと流れる川の源流だと考えると、些か、不穏なものを感じずにはいられない。


「……――チ、シチ。ねえ、聞いてる? シチ?」

「うす。……すみません、考え事を」

「ふぅん? まあ、いいけれど。それで……どうするの? 今日、このまま倒しに行くの?」

「いえ、ボンドーさんたちとの待ち合わせもあるんで。……何もなければ、二人から情報を貰って明日にでも取り掛かります」


 家中の者が魔剣を売買すると聞いていたが、状況から考えて、まず領主の可能性が高い。

 つまり、その件に麾下(きか)たるエルキウスが関わってくる算段は高かった。……まるでないと言い切れないのは、この庄の人間の自立意識を鑑みてだ。


「そう? ……それにしても、本当に手間ね。貴方、いつもこんなことをしてるの? こんな面倒な? 捨て置けば簡単に崩れて消えそうなものの為に」

「……」

「まあ、いいわ。『我が知(Om' lil)性と炎 (lucysgh,)のみが(dollis)世の(nose)闇なるものを(ingtellyge)焼き尽くす(um flogma.)』――優れた炎でもない限り、闇は恐ろしいものでしょう? だから――ええ、まぁ、明日と言うならそうしましょう」


 ふぅと吐息を漏らして、何事もないようにまたアルテが歩き出す。

 その背を見て、ふと、シラノは頭を下げていた。


「……助かりました」


 少なくともこの情報を得られたのは、彼女のおかげといえるのだ。


「あら?」

「俺一人では難しかったです。……その、だから、助かりました。ありがとうございます」

「ふぅん? てっきり貴方、私のことを嫌っているかと思ってたけど……」

「や、そこはその通りなんで胸を張ってください」


 安心してほしいが、見損なうぐらいの痴女という点では何ら評価に変わりはない。


「それでも……あなたがいてくれてよかった。俺一人じゃあ、ここまで上手くはことを運べてませんでした。一緒に居てくれて、助かりました。……あなたのおかげです」

「――」

「……アルテさん?」


 俯き加減になった彼女を覗き込んだ瞬間だった。

 軽い衝撃とともに天地が逆転する。地面が迫り――気付けば、曇天を目一杯に見上げていた。

 払い倒された。

 そう理解するときには、見下ろすアルテが視界の大半を覆っている。


「いけないわ、シチ。……それは駄目よ。ええ、それは、よくないわ」

「……ッ」

「だってほら――……貴方にお礼を言われるなんて、まるで私がそんな人間で、まるで貴方がそんな人間のようじゃない。……それは駄目よ。それは、駄目なの……判らないかしら?」

「何を、言って……」


 立ち上がろうとする両肩を押し付けられる。

 黒髪が頬に擦れた。ふわりと、薔薇の香りが漂ってくる。

 見開かれた紅色の瞳の瞳孔が、その漆黒が、奈落の虚無めいて膨らんだ。


「ええ……言ったでしょう? 私は、自分が真に何者なのか知りたい――って。……お礼を言われる? それは違うわ。それだけは、絶対に違う。……それに貴方がお礼を言う? ふふ、そんなの――いくら私が仕上げればいいと言っても、見過ごせないわ」

「何を……」

「何も、変わらないわ。私……貴方に会った時から、言っていることは変わっていないの。聞いてなかった? ……ねぇ、シチ。私の言葉、聞いてくれていなかったの?」


 細まっていく瞳は、尖っていく声は、裏腹に攻撃性を欠いていた。

 気付かれぬように握り締めた土を離す。

 腕を動かそうとすれば、より強く抑えつけられた。シラノを逃さぬというよりは、縋り付くような力であった。


「私はね、シチ。空っぽなのよ。ただ、何もなくて空っぽなの……だから見極めてるのよ、貴方を。私という女に呑み込まれなさそうな貴方を……世の何もかもと切り結べる貴方を」


 僅かな距離をあけた視界のあちらで、赤い舌が動いた。舐めずられ、そして、口づけをするように寄ってくる。

 シラノの右目に――塞がった右眼に。

 そんなとき、であった。

 土を跳ねる騎馬の蹄鉄。にわかに地を揺らして、五騎の騎士がその場に現れていた。


「お前が冒険者だな」


 そして身を起こしたシラノとリープアルテの人相を確認した隊長格の男が、配下の騎士に目配せをした。

 頷き、仰々しく口を開く若騎兵。

 彼から齎された情報に、今一度シラノは驚愕した。


黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)との内通の疑いがかけられている――大人しく出頭してもらおう!」


 何を、と応じる暇もない。

 四方から鉄槍を突きつけられ、シラノとアルテは行動を封じられていた。





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