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第九十六話 俗物、再来


 重機のようだ――と。

 夕暮れの燃える空を背負い、(さお)立ちでその威様を(あら)わにする黒馬を前に、シラノは他人事のようにそう思った。

 現実離れした光景に心が手綱を手放す。

 だが、身体は地を蹴る。

 生きるか、死ぬか――――否、ここが死地だと刃を握る腕が叫ぶ。


「イアーッ!」


 飛び上がるように抜刀。

 かつてかの生麦事件の際に、馬上の英吉利(イギリス)人を喰らい落としたという薬丸自顕流の“抜き”が――獅子が吼える。

 しかし、浅い。

 皮一枚――否、それすらも裂くこともできず脇差しが滑った。

 手首に残る巨体の感触。

 追撃に転じようとするも、黒靄の如き幽体に変化した巨馬は距離を取り、また実体へとその身を固めた。

 結集した煙のそこには、不機嫌そうに鼻息を荒げる黒馬。

 威嚇のように何度も前足を曲げ、シラノとの距離を量りつけていた。


「……立てますか?」


 蜻蛉を取り、低く背後へと声をかける。

 草食動物は――――馬はその眼球の構造上、視野が広い代わりに距離感を掴む立体視を得られる領域が狭い。

 生身で狙うとしたらその種族的欠点であるが……


「す、すまない……その、ぼ、僕は……」


 震える声で返されて、そんな勝機も諦めた。

 ……いや。立体視をできぬというならシラノとて同じだ。右眼は刀傷に塞がり、無事な左目一つで戦うにすぎない。

 条件は――五分。

 相手にはその巨躯と剛体が。シラノには刃物という鋼鉄の牙が。

 互いに打ち込めば致命を押し付けられるという緊張感が――その場に満ちる。


(……馬を狙うなら足。野太刀は、そのために生まれたって聞いてはいるが……)


 相手の足は丸太めいて――――そしてシラノが握るは野太刀ではなく小太刀。

 ……五分なものか。

 袈裟がけに人体を両断するために天嶺目掛けて突き立てるような剣位の蜻蛉とあってなお、この巨馬相手には分が悪いと言わざるを得なかった。

 肩甲骨が長く胸近くまで下がっている構造をする馬の、その盛り上がる筋肉と骨を相手に小太刀の斬撃で突破することは不可能。

 また鎖骨という障害を備えない馬体といえども、恵まれた首と肩の筋肉は堅牢かつ重厚に心臓や肺腑への刺突を防ぐ――――。


(滑り込むように前足を斬って横に抜ける……巻き込まれ踏み潰されないように。それを何度もやる。……それなのか? いや……)


 静かにシラノは吐息を絞った。野生の捕食獣と同じ、攻めの機運を、呼吸を読ませぬ姿勢。

 それが草食獣の本能を刺激したのか――はたまた金属の匂いを嫌うのか。

 赤と青の〈彼岸と此岸を見る瞳(オッドアイ)〉が、馬の瞳が、シラノへと矢のような視線を投げつける。

 睥睨(へいげい)

 黒馬は上体を起こし、地団駄を踏むように地を蹴りつけた。

 馬は音の反響で距離を測る。すなわち――来る。


(いいや――――)


 ()()()()()

 来させてはならない。走り出させ勢いに乗せてしまえば勝つことは至難。止めることは困難。

 ならばこそ――ここが死地だ。斬れる、斬れないは関係ない。斬るのだ――その意思で己の恐怖を押し込める。

 恐れは見抜かれる。野生ではそれは必敗。ならば、兎にも角にも知恵を捨てて斬り込むことのみ考えるべし。

 触手で治療されている足に――補強されている足に力を込め、跳ね跳んだ。


「イィィィィィィィィィィアァァ――――――――――――――――ッ!」


 走り出したシラノに、巨馬が動じた。

 その巨体故に圧倒的な強者であった馬は、矮小なる生命の単身での突撃に瞠目したのだ。

 土がはね飛ぶ。矢のように景色が過ぎていく。迫りくる巨大な岩の如き身体目掛け、シラノはただ一直線に吶喊する。

 恐ろしい。生きた心地がしない。きっと死ぬ――――そんな恐怖を一歩ごとに振り落とす。心臓の鼓動と、高まる体温と激しい吐息に忘れる。否、無理矢理忘れさせた。

 迫るは岩。黒岩。戦車の正面装甲の如き胸板。


「――――」


 赤き腕に力が籠もる。

 斬るのだと――――斬れるのだと。それが疑うべくもない事実と思い込み、可能性を希釈し、広げ、熱し、それのみで脳を湯立たせた。

 いざ、意地の張り合い。命懸けの脅し合い。

 退くか、攻めるか。馬は退くか。はや攻めるか。

 シラノは退かぬ。攻めるのみ。

 果たして、結果は――


「――悪いねお兄さん。そいつは、おれの獲物って奴に――なるのかな」


 鷹揚な声と共に、空を裂く風切り音。(ぴょう)と鳴る鏑矢の音。

 身を踊らせた怪馬とシラノを阻む結界の如く、矢が大地へと突き立った。

 何かと目を向けた先には、


「よう、悪いね。いや、アンタが見目麗しいご婦人だってんなら――そいつはまた嬉しいもんだったんだろうがね。あ、いや、それはお互い様か?」

「あなたは……」

「ああ、おれは“遠手”の――」


 屋根の上、黒き大弓を片手に朗らかに笑う褐色肌に入れ墨の男。

 馬の尾のようにうなじで括った金髪を靡かせて、橙色の瞳を爛々と輝かせる男が番えた次弾を引き絞る。

 そして放つ――――まさにその瞬間、


「――――ミシリウスッ!」


 黒髪を振り乱した鎧姿のエルキウスが大声で叫んだ。

 ガチャガチャと木霊する金属音。

 彼に続いて殺到する形で押しかけた騎士団を前に、幽炎を漂わせる黒馬は宙を駆け上がって退いていく。

 助けられたのか――と緊張を解く間もない。エルキウスが、敵愾心にあふれる瞳を屋根へと向けた。


「何故貴様がここにいる……!」

「何故って――ああ、お前さんがアイツに困ってるんだろ? おれも随分と話だけは聞かせて貰ったが……やはり、こうなっちまったら……」

「不要だ! 貴様の手などいらぬわッ! 早々に森に戻れ! 立ち去れ、忌まわしき罪人め!」

「はは、なんだ。気にするなよ。確かに罪人と言えば罪人で――……ま、おれも否定はしないが……。ほら、なんだ? それよりも大事なことってのはあるだろう?」

「法に勝るものはないッ! 貴様の手など不要だ! 去れ、“遠手”のミシリウス!」


 鎧姿のエルキウスと弓兵ミシリウスの間に剣呑とした雰囲気が満ちる。

 否、一方的に敵意を燃やしているのはエルキウスの方であろうか。その燃えるような排他心は配下の兵に伝わり、彼らは武器を抜き放たずとも大挙してミシリウスへの壁をなしていた。

 ……いや、困惑が半分に包まれ、もう半分は命令ゆえに従っているという様子だ。

 様子が見えない。獅子丸を片手に、シラノは二人のやり取りを見守った。


「なぁエルキウス、おれの立場からではそう偉そうなことは言えんがね……その大層な法のために怪物を暴れ回らせるのがお前さんの趣味か? その返事の如何によっちゃ、不味いことにもなるぜ?」

「……」

()()()をつけるなら、おれが適任――ってもんじゃないか? 打つ手もないんだろう?」


 『どうだ?』と快活な笑みを浮かべ三角屋根から鎧の集団を見下ろすミシリウスへ、


「……黙って手をこまねいていたわけではない。もう冒険者の手配は終えている。――そこの男だ」

「ほう?」

「東方の城塞都市での邪教徒の蜂起を、城壁を崩してでも留めた男だ。単身で〈群雲竜(ハラ)〉や〈毒蛇竜(ゲリュゲイオン)〉を討つという凄腕の冒険者だ。……重ね重ね、貴様の出番などないのだ。去れ、ミシリウス」

「ふむ、ま――確かにそうあっちゃ文句は言えねえな。……お前さんともあろう男がいつまで怪物に好きにさせてると思ったが、そういう事情なら仕方ねえ話だ。判ったよ、じゃあな」


 憮然と告げるエルキウスと、片手を上げて立ち去るミシリウス。

 自分のことをそこまで調べていたのか――という僅かな戸惑いを視線に滲ませたシラノへ、しかし、肩越しに向けられるエルキウスからの目線は冷ややかなものだった。

 そこに籠められた感情には、やはり何の変わりもなく――おそらくは手を引けと告げている。

 その怪訝さに眉根を上げる中、やがて被害状況を確認を済ませた兵たちがまた整然と列を作り去っていく。


『どうして今になってこんな……ルキウスの呪いなんじゃ……』

『何故こうも続くんだ……一体いつまで……そんなに恐ろしい強さなのか……?』

『やっぱり、父親の復讐のつもりで……』


 腫れ物を扱うかのように集まった群衆たちが囁き合うが、シラノが目を向ければ誰もがすぐに口を閉ざした。

 明らかに、単なる魔物退治では片付け難い事態。

 やはりもう少し事情を鑑みねば……と思案するそこに、


「あら、殺さなかったのね……シチ。ふぅん? 竜をも殺す剣士なのに?」


 遅れて路地裏から厄介な女が顔を見せ、更に、


「あっ――ま、まさかキミは!? け、剣士クンかい!? どうしてここに!?」


 たった先程まで巨馬の威圧に腰砕けになっていた金髪碧眼の少年があまりにも見慣れた人物であり、


「いやー、スっちまったスっちまったであります。ははは、なんとも仕方ない! やはり博奕(バクチ)は時の運! 流れる竜の背のようなもの! これは今日も野宿しかありませんなあ、アルケル殿! ところでここは地酒が有名で――――……おや?」


 酒を詰めた瓶を抱えて現れるすっとぼけた声の主に、シラノは顔を抑えた。

 厄介なことになった。……それも、とても厄介なことに。



 ◇ ◆ ◇



 甘ったるい酒類の香りと、香ばしい肉の匂いが漂う。

 どこの街にも酒場はあるもので、襲撃の混乱から立ち直った一同は卓を囲んでいた。

 湯気を立てる人面赤カブの煮物(スープ)――具はへたりとしたキャベツと煮崩れたカブと小さなベーコン。

 岩塩を振ったヤギ肉のロースト――ワンポイントとして青い茎まで付いた強烈な匂いの痩せニンニク。

 例のピザもどき――そば粉とライ麦作りなのかやたらと色が黒ずんでいる生地。

 そして地酒である銅色の大麦酒(エール)――こちらでは成人済だが前世の習慣からシラノの前にはない。

 卓上に広く並べられた料理は洗練とは程遠いものであったが、それでも空腹を満たせるなら望むべくもないものであった。 


「……魔剣の売買に? そのためにこの街に?」


 そして木製スプーンを止めたシラノがそう問いかければ、音を立てずに食器を扱っていたアルケルが首肯する。

 魔剣の売買は、基本的には商人を介さない。

 必要となるのは仲介人――あくまでもその立ち会いの元で売買契約を履行するのみだ。

 たとえ商人といえども、魔剣というのが今まで築き上げた商人としての信頼を損なってでも持ち逃げする価値のある代物と言われてしまえば、シラノとて頷かざるを得なかった。


「でも……じゃあ結局、売ることにしたんスね……」

「まぁ、いくら形見みたいなものと言っても……ね。僕が持ってても役に立たないから……やっぱり最初の予定通り、残った村の者たちのためのお金にするよ」

「んー、当方は『勿体無いから使って冒険者として稼げ』――と言ったんでありますがな。折角何度か怪物退治でも、と紹介したのに……アルケル殿は腰を抜かしちまったもんでありまして……」

「なっ、こ、腰を――――って、そもそも紹介したとか恩着せがましく言わないでくれないかい!? あれはキミが無銭飲食で宿屋に捕まったせいで押し付けられたことだろう!?」

「ハハハ、過ぎたことを口うるさく言うから金玉ちっちゃくて腰を抜かすんであります」

「キミに下半身の話をされたくないなあ!? キミだけにはされたくないなあ!? どこかの街に寄るたびに娼館を探すキミにはさあ!?」


 ぎゃあと詰め寄るアルケルと、笑顔のまま軽く手で払うユーゴ。

 あの旅の頃から人間関係というか力関係はあまり変わってないらしい。

 素性不明かつ暗殺未遂の流浪人。

 本来なら自白のそのまま牢に押し込まれて刑を受けるはずであった彼は、その身元の保証人となったというアルケルに対して……いやこう、相変わらずに遠慮がないのは、なんというか……。

 それだというのに爽やかな関係に見えるのは……まあ、ある種の人徳なのだろう。中身は紛れもなく俗物だが。


「……ふぅん」


 そんな二人へと、リープアルテは退屈そうな目を向けていた。

 結局あのまま、なし崩し的に同行を許してしまっていたが……幸いと言うべきか、特にその腰の剣を抜き払う仕草は見せてはいない。

 口数少なく、冷ややかな眼差しで杯を傾けているだけだった。……少なくとも今のところは。


(……)


 ナイフで肉を切り分けながら、己の内心が穏やかとは言えないことを自覚する。

 元より弁舌は得意とは言えない分だけ、余計に気を払いながら会話をすることになっている。……リープアルテに己の素性を突き止める材料を与えないように。

 剣を単なる手段と言い放ち、我欲の為に用いることを尊び、血と闘争を是とするその姿勢は……決して相容れまい。

 この案件自体の不透明さも相俟(あいま)って、肉を解体するナイフの切っ先に余計に力が籠もる。

 そんなこちらの事情を察してか、飄々としたユーゴはさり気なく頷いてから肩を崩した。


「ははは、麗しいお方……熱の籠もった瞳のお気持ちはありがたいものでありますが……当方は高身長で平たい胸の未亡人が好みでありましてな! ああ、勿論お尻は安産型が一番でありますが――」

「ちょっと!? なんでキミは息をするように恥を晒すんだい!? 一緒にいる僕の身になってくれないかなぁ!?」

「……」


 ……いや察してるのか。

 単なる俗物かもしれない。わかんない。いや俗物という点は紛れもなかった。リープアルテが逆セクハラならユーゴは順当にセクハラである。

 つまりセクハラ俗物だった。


 なおセクハラ俗物は頼りになるセクハラ俗物だった。

 彼主導で話題を徐々に逸らされることしばらく、カタンと酒杯を空けるユーゴが小首を傾げた。


「……ふぅむ、確かに聞けば不思議でありますな。その御仁の行動……ううむ、シラ――……シチ殿にそんなことを言いつけたかと思えば、その弓使いにはそう言うなどと」

「うす。……あとで確認に行くつもりではありますけど、どうにも不可解で」


 思わず、眉間に皺がよる。

 かのミシリウスという男と、エルキウスという男の因縁……あの口ぶりでは半死霊馬にも何らかの関わりがあると見ていいだろうが……そこに如何にして冒険者の放逐が関わってくるのか。

 依頼金を中抜きして懐にいれるつもりとも考えたが、それなら言動に矛盾が出てしまうものだ。

 興味なさげに杯を傾けるリープアルテはともあれ、ユーゴと二人で顔を突き合わせていれば、


「んー、そうだなぁ剣士クン……例えば二人ともに手出しされたくないってのはどうだい? キミにはそのミシリウスって人への言い訳の役目しか期待してないとか」


 癖のある金髪を揺らしながら、アルケルがそう呟いた。

 思わず、なるほどと頷いていた。

 エルキウスには別に目論見がある。そしてミシリウスの介入を嫌い、シラノたち冒険者を防波堤に使っている――言われてみれば確かに腑に落ちる考え方であった。

 なお、


「……どうしたんでありますか、そんな冴えた答えを。……なんか変なもんでも食ったでありますか?」

「いつも通りだよ!? というか変なもの食べることになってる原因はキミだからな!? 九割というか十割がたキミの責任だからな!? キミが金を使い込んで野宿することになるからだからな!?」

「ははあ、雇っておいて手出しをされたくなかったもの同士感じ入ることでもあったでありますか? 虫の道は虫と小人に聞け的なアレで」

「いや話を聞けよ!? いやそういうキミは僕の話を聞けよ!? 最低だなキミって本当に! なんで息を吸うぐらい気軽に最低な言葉を出せるんだい!? もう一種の才能だよそれは!?」

「ははは、アルケル殿……その、残念でありますが……息を吸いながら言葉を出すことはできないでありますよ……?」

「知ってるよ!? なんでそんな憐れむ目で諭すように言うんだよ!? 僕のことをなんだと思ってるんだいキミはさあ!?」


 また例によって賑やかな言い争いに発展した。

 ……ある種のいいコンビなのだろうか、これも。

 首を掴みに行ったボンドーが容易くあしらわれて涙目になるのを眺めつつ、なんとなくそう思った。


「ま、こっちはこっちで探ってみるであります。幸い魔剣の買い手もここの領主の家中の者らしいでありますからな。……知らぬ仲でもないのでシチ殿の頼みならお任せあれ、であります」

「……いや、売るのも交渉するのも僕なんだけどね。キミはお荷物というかお邪魔虫ぐらいなんだけどね」

「ああ、シチ殿……他に何かこっちで当たっておいた方がいいことはありますかな?」


 ガンスルーとはなんと無体な。

 と思いつつ、まぁ、己の関するところではないと考え、


「うす、あとは……もし可能だったら黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)についても何かわかれば……」

「――――」

「……ユーゴさん?」


 告げたシラノは、些かの違和感を覚えた。

 あの飄々としたユーゴが僅かに目を見開いている――――しかしそんな衝撃は、次いだ驚きに掻き消された。


『………………………………』


 酒場から喧騒が消えた。

 杯を傾ける村人たちが、酷く奇矯な、或いは有り体に厄介な異物が紛れ込んでしまった――とでも言いたげな目線を送ってくる。

 互いに顔を見合わせる者も、或いは会計を済ませてそそくさと立ち去る者もいる。……なんとも異様な光景であった。


「……ま。それじゃあ、この分は貸しということで。いずれ返していただけると信じてるでありますよ」


 その雰囲気をシラノが訝しむその間に、ユーゴはまた柔和な笑みを残して去っていく。

 相応に飲んだというのに、その足取りに(かげ)りは見られない。

 驚異的な肝機能とアルコール耐性、まさに驚異的な俗物だろう。……店を出てすぐいきなり左右を間違えてさえいなければ。

 いずれにせよ思わぬ知己の登場により、多少なりとも事態の進展が望めたというのは有り難いものだった。

 しかしそれにしても……と、店を後にする客たちの背に怪訝な目線を投げる中、ふと気付いた。


「……あ。お代」


 あまりにも当然のように立ち去られたので、シラノも追求しそびれていた。

 借りを返すの、あまりにも早くないか。早かった。

 というか、これで返済になるのか判らない。ユーゴはあまりにも奢られ慣れていそうである。ヒモの才能があるのかは判らないが、ともかくすごい究極俗物生命体だった。

 そしてなんとなく隣に目をやれば、


「ないわよ?」


 当然のようにリープアルテが微笑で返してくる。ヒモ女(セクハラ痴女)の誕生だ。

 碌に稼ぎにならない難行のこの中でのこれは、心底頭の痛いものであった。



 ◇ ◆ ◇



 暗夜の山林に紛れるような毛並みが、黒き風として木々の合間を駆け抜ける。

 金目に黒毛の獣人。

 しなやかなその毛皮は、猛々しきその肉体は、生まれながらの狩猟者として自然深きその空間でなお覇を唱える。

 縄めいて大腿へと筋肉が浮かび――跳ぶ。飛び石の如く足跡が刻まれる。

 彼は、疾走していた。生来の捕食者の如く疾走していた。

 ……しかし、それには誤りがあるだろう。事実として誤りがある。

 つまり音もなく闇を駆ける彼は、狩猟者の如く追う立場ではなく――逃げる立場だ、ということであった。


 ざわと、草木が揺れる。毛が逆立つ。

 乱立する樹木の先、音もなく眼前に現れたのは女――いやそう呼ぶのも相応しくない小柄な黒髪の少女が、片刃の剣を片手にそこにいた。

 僅かに、睨み合う。

 睨み合い、直後、獣人はさらなる疾走を開始した。

 相手の得物は魔剣ではない。相手は魔物ではない。武の鍛錬も感じさせぬ匂いの小柄な少女――対する己は追われる身。一つとして、逡巡の余地はなかった。

 覆いかぶさるように女へと飛びかかり――――彼は瞠目した。

 女が消えた。消えたと――彼は動じた。それが彼の最後の思考となった。


「……物理処分、です」


 トン、と。

 抱擁するほど、程近く。

 沈めた身を立ち上がらせた女と、踊りかかった彼の肉体の齎す力学が、そんな軽い音と共に死としてその身に降り掛かっていた。

 絶叫も許されない。遺言も許されない。慚愧の声も、末期の断末魔も許されない。

 闇に濡れる白刃。

 鳩尾(みぞおち)から胸骨を潜った刃が心臓に突き立ち、ただの一撃で彼は絶命していた。

 

「……ご苦労だったな」


 そして血振りと共に刃を納める彼女の元へ、金属鎧を鳴らしながら近付いたのは黒髪のエルキウスであった。

 ……もう一人。

 その隣には、商人風の緑髪の女を伴っている。


「エルキウス様……そうもお褒めに預かるなど恐悦至極……。貴方様ほどの御慧眼にそうも申されれば、あまり顔にも出ないその娘とて存外の光栄を感じているでしょう」

「……見え透いた世辞を言うな。貴様らは契約通りのことをしていればよいのだ」


 切って捨てるようなエルキウスの言葉に、鋭い視線を向けられた緑髪の女は人好きのする笑みで返す。

 ある種それは、男を蕩かす微笑であった。聡明さの中に、少女のような快活さが含まれている。


「ええ、それはそれはもう。私も存じておりますとも。契約というのは重きもの……たとえ神が信じられず、人が信じられぬ修羅の巷とあっても契約は何よりも尊重されねばならない……。……でしょう?」

「……フン」

「ですが、よろしいので? この街は山脈と平野との要地――……魔剣使いを飼う黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)と取引するなら、貴方がたにも理はあるのではなくて?」

「……」

「失敬、言葉が過ぎましたわ。どうかご容赦を……。そんな目をしないでくださいな。私、キャミィさんと違って……この通りか弱い商人ですので」


 怖い怖いと肩を竦める女の仕草へ鼻を鳴らし、眼差しを強めたエルキウスは独りごちる。


「……二度と、立ち入らせん。死肉漁りの黒犬どもやその郎党などにはな」


 重厚な男から漏らされたその呟きは、森の闇に吸い込まれていった。




 只人ならば障りとなる宵闇であろうとも、夜の一族である淫魔には何の障りにもならない。

 雲隠れになった月に難儀するように立ち去ったエルキウスの背を見送り、ふと、黒髪の少女――カムダンプがぼんやりと口を開く。


「……そういえば、例の触手使いがいます……です」

「ああ。触手剣豪――でした? 触手使いなどでは例の難行など突破できないかと思っていましたが……いえ、そもそも話によれば城壁を崩せるとは……いや、奴らの上級召喚を思えば……でも……」

「物理処分……です、か?」


 ほとんど無表情に程近くも、僅かに口角を上げて首を傾げたカムダンプ。

 その白い指が刀の柄を玩ぶのを眺めつつ、商人風の女――トンネルパトロールは緑髪を揺らして首を振った。


「……いえ、顔は変えればいいとはいえ、ここで今行うのは控えて貰いたいものですね。私も黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)をもっと整えたいですし……まだ手札が足りていないのは、カムダンプさんもそうでしょう?」

「……」

「……そうですね。ええと、例の――『巴比崙の四力士(フォー・フォースメン)』は?」


 前世の習慣から鼻に眼鏡を乗せ直したトンネルパトロールは、直後、僅かに顔を歪めた。

 異臭――……否、死臭と表現するしかない香りが闇から漂い出したのだ。

 控えめな童女の如く緩やかにカムダンプが指差す木々――その間に、影はいた。


「“四肢(プレイヤー)”」


 ひとつ、


「“背骨(アンガー)”」


 またひとつ、


「“臓腑(ハンガー)”」


 指差す先に、


「“皮膚(クリーパー)”」


 臭気が広がっていく――――都合四つ。

 現れたる外套姿のそれら四つの人影に、しかし、その主たるカムダンプは既に興味を失ったらしい。

 再び刀を弄り始め、彼らのことを気にも止めていないようであった。

 無敵にして特異な淫能と己のそれを認めるトンネルパトロールとて、より特異であり何よりも風変わりなカムダンプには関心する気持ちになる。

 

「では、この『巴比崙の四力士(フォー・フォースメン)』をお借りしますわ」

「どうぞ……です……。でも、名前、『これ』……でいいと、思います……」

「いいえ、名前というのは重要ですもの。……そうでしょう?」


 性行為の暗示である名を持つ己たちのように――……と目を細めたトンネルパトロールにも、カムダンプは特に表情を崩さない。

 あくまでも、刀。

 先程の狂言で人体ならぬ半獣体に差し込んだその感触のみを、確認しているようであった。

 故に、


「そうですね、カムダンプさん……もし彼らで対処しきれないと言うなら……。そのときは、例の黒鎧……〈淫魔殺し(サキュバススレイヤー)〉のように――貴女が処分してください」

「がってん承知の助……」


 トンネルパトロールが呟けば、ふふと、カムダンプは相貌(そうぼう)を崩す。


「物理処分、です」


 かつて切り捌いた黒鎧の重騎士を思い返すように柄を抑え、彼女はうっとりと微笑んでいた。


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