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第九十四話 お姉ちゃん総選挙


 曇天の下、風が波を作る緑の丘陵を少年が見下ろす。

 歳の頃は十二、三。未だあどけなさが抜けぬその栗色髪の少年は、しかし貴族たる気風を浮かべた表情で領地を一瞥すると、口を開いた。


「……エルキウスよ。冷眼のエルキウスよ」

「は」

「首尾は? 冒険者とやら、あれからとんと来んが……首尾はどうなっておるのだ?」


 隣で応じるのは、三十代半ばから後半の黒髪の男。

 簡素ながら最低限の装飾を忘れぬ刺繍外套はその男が麾下(きか)たる騎士であることを示し、重く結ばれた口と引き締まった頬、そして何より怜悧(れいり)なその双眸(そうぼう)は静かに男の実力を指し示す。

 名を、エルキウス――――情け容赦のない執政を指し、“冷眼”のエルキウスと称された文武に優れた騎士であった。

 成人前の後見とはいえ、その少年の従者として伴われているのは……子供のお守りに(いか)めしい金庫を与えるような、いささかの違和感を伴っていたが、


「……さて。彼奴らは、怪物と言えば亜竜や坑竜と決めつけているのやもしれませんな。それか、魔物か。……自由自尊を謳いなから、森での狩りはよほど不慣れなのでしょう」

「ふむ、不慣れ。不慣れか……それで手こずっているのか……。領民は如何に過ごしておるかのう」

「……ご心配は不要かと。亡霊と戦うのは、貴なるものの務めにはありませぬ。穢れ、妬み、嫉み……あれなる現し世の迷い仔など、若君がその御身や御心を煩わせるべきではないのです」


 重き辞典をめくるが如く開かれるその口に、少年は左様かと頷いた。

 このエルキウス、顔に現れるが如く切れ者であった。

 出身は、農夫。だというのに幼少から文に篤く武に篤い男であり、領地の計測から始まり、税収官吏を務め、更には次期当主の懐刀。

 いささか重苦しいその文句に少年は辟易とするが、エルキウスという男に過ちや誤りという言葉は縁がない。

 如何なる()()()()()()()()をも平然とやり過ごし切れ味の鋭い言葉を放つ彼は、嫉妬を受けながらも常に一目置かれる男であり、つまり、良き臣下であり良き教師であったと言っていい。

 故に、少年がふと言葉を漏らしたとき、


「いっそ、かのミシリウスに頼めば――」

「それだけはなりませぬッ! ……いえ、その、失礼を致しました。……亡霊が堕ちたる身というならば、ミシリウスもまた同じ。あれなる不浄の者は、語るには値せぬのです」


 声を荒げたのは、あまりに慮外のことであった。

 意外そうに目を見開いた少年の前で、エルキウスは既に元の表情に戻っている。

 しかし、その心中、


(ミシリウスなどと……! あの男にこれ以上、狩りを命ずることなどあってはならぬ……! ならぬのだ……! あのように愚かな男に……!)


 渦巻くは、忸怩たる想い。

 眉間の皺を深め、努めて平静を装おうとするその瞳は――しかし、ミシリウスの住む森を追っていた。

 半死霊馬ヘルメイアー。

 其れなる魔物の討伐の任にミシリウスが命ぜられるなど、断じて看破できぬことであった。



 ◇ ◆ ◇



 寒さが骨身に染みるという言葉があるが、寒の戻りが来ている。

 いい加減初春も過ぎたというのに、冬の頃の名残は抜けないな……とシラノが店内から外を眺めたときだった。


「お姉ちゃん総選挙をします!」

「お姉ちゃん総選挙」


 テーブルの真反対側から告げられたのは、なんとも聞き慣れない言葉である。

 聞き間違い――などという生易しい考えが許される筈がなく、沈黙を肯定と受け取ったのだろう。仰け反るフローは勢いよく人差し指を突き出した。


「シラノくんはお姉ちゃんに対して冷たいと思います! ボクに対してあまりにも冷たいと思います! 息子が引き篭もりだから後見を務めて――って言われてわざわざ触手使いの里から出てきた師匠に対して冷たいんじゃないかな! 先輩にする態度じゃないんじゃないかな! お姉ちゃんの扱いがあんまりじゃないかな!」

「扱いが……。扱い、スか……」


 そのような経緯で姉を名乗っていたのか、という僅かな驚きはあったが……紫色の目を輝かせるフロランスはやはりいつも通り概ね胡乱だ。

 暫し口を結んで考えてみたが、シラノには特に糾弾される謂れが思いつかなかった。


「……うす。その、具体的には?」

「ボクは昨日命を狙われたんだよ? 不安なんだよ? 怖かったんだよ? だったらこう――……一晩ボクの隣にいて慰めるとかすべきなんじゃないかな! すぐさま駆けつけるべきなんじゃないかな! 師匠を勇気づけるべきなんじゃないかな! 先輩に優しくすべきなんじゃないかな!」

「ああ……」


 言われてみれば確かに、という話だ。

 ぼり、と頭を掻く。フロランスの言うことは道理だ。だが、シラノにも言い分はあった。


「その……先輩が狙われたのは、俺も気にしてて……。セレーネならなんとかするとはいえ、一歩間違ったら危なかったんじゃないかとか、相手がそこまで文明的じゃないことを本当に町中で堂々とするのかとか……いや、その、重ね重ねすみません」

「う、うん……あっ、あの、でもこの通り無事だからあんまり気にしなくていいよ!? あ、あのね? 別にシラノくんのせいじゃないし、シラノくんに謝って欲しいわけじゃなくて――」

「なので、討ち入りしてきました」


 厳かに頷けば、フローは止まった。

 目をぱちくりとしばたたせて、


「……討ち入り?」

「間違えた。カチコミ、っスかね」

「カチコミ」

「……いや手打ちか? 打ち首じゃなくてすみません」

「打ち首」


 やはりどうにも現代人であった際の甘ったるさが抜けないな、と頭を掻く。

 ごろつきや刺客を使った暗殺――……まるでヤクザのやり口だが、忘れがちであるがここは人の命が現代よりもあまりに軽いファンタジー世界。

 現実の中世とは比べ物にならぬほどに公衆衛生や倫理意識が高くはあるが、未だ概ね封建制や絶対王政の狭間を行き来している世の中である……故に、相応の対応が求められた。


「官憲と一緒に殴り込んで……屋敷に飼ってた連中は全員潰しました。あと、裸で土下座させて……次に同じことを企んだのが判ったら、爪先から頭の先まで骨を念入りに砕いて皮を剥がしてからネズミの巣に蹴り込むって証文で手打ちを……」

「うぇぇぇぇぇぇぇ……」

「その……念の為、小指でも貰ってきた方がよかったっスか? ……切腹はともかく指詰めぐらいなら、まぁ」

「うぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……いらないよぉ……! なんだよそれぇぇぇ……指なんて貰ってどうするんだよぉぉぉぉ……」

「どうするんスかね。……いやどうするんスかね、本当。なんでそんな風習があるんだ……」

「知らないよぉぉぉぉぉ……。なんだよそれぇぇぇぇ……なんだよおぉぉぉぉ……どんな国で暮らしてたんだよぉぉぉぉ……なんなんだよぉぉぉ……どんな習慣だよぉぉぉぉ……」

「いや……俺もさっぱり……。ただ、俺の国で手打ちと言ったらこれらしいんで……」

「うぇぇぇぇぇぇぇ……うぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……」


 ぼり、と頭を掻いた。

 言うまでもなくシラノとて伝聞である。近頃はお金で手打ちにするとも聞いたが――……まぁ、やっぱり判らん。そういう世界は。この通り平和な現代人なので縁がない。

 ともあれ――結局あのあと、ボンドーをアンセラに預けて衛士の詰め所にユーゴを差し出し、即座にシラノは下手人の屋敷に殴り込んだ。

 井伊家や吉良家の二の轍は踏まない。

 お上の沙汰など待つにあらじ。考えるより先に即日殴り込めとは、かの有名な葉隠にも書かれているとおりだ。

 自助救済が現世の法。そう合衆国憲法にも書いてある。

 となればそのまま屋敷一つを潰すだけであり、存分に――物理的に――締め上げた。

 無論、社会的にだって締め上げられるだろう。依頼を受けたそのときに、ユーゴは報酬の約束手形に相手の家印を押させていたのだ。動かぬ証拠だ。寝返りと命乞いまで視野に入れたちゃっかりしてる青年だった。


「とにかく……心配をかけてすみません。精進します。……先輩が無事でよかった」

「う、うん。……でね、シラノくん」

「うす」

「お姉ちゃん総選挙をします」

「お姉ちゃん総選挙」


 まだ言うのか。誤魔化しきれてなかったらしい。

 いい加減、フローも慣れてしまったのか。それともシラノが慣れてしまったのか。とにかく三つ編みをブンっと振って、彼女は指を突きつけてきた。


「シラノくんはね、頼りになるお姉ちゃんが誰か思い出すべきだと思うんだ。大切な先輩が誰か思い出すべきだと思うんだ。大事な師匠が誰か思い出すべきだと思うんだ。シラノくんもそう思うよね? 思わないかい?」

「はぁ」

「というわけで――……お姉ちゃん総選挙です!」


 なるほどな、とシラノは頷いた。

 頷き、そして辺りを見回してから首を捻った。


「……その、他の候補者は?」

「うん? いないよ?」

「いない」

「ま、まさかシラノくん――――ボ、ボク以外に誰かお姉ちゃんを作ったっていうのかい!? ボク以外に師匠を!? 先輩を!? ボクに黙って!? ナイショで!?」

「いえ……」

「なんだよぉー……! 人が悪いなぁー、もぉー! いやぁ、ならほら、やっぱり候補者はボクしかいないんじゃないかな! これは『お姉ちゃん』総選挙だからね!」


 紫の瞳を輝かせて、ドヤッとした笑顔を向けられる。

 なにが選挙か。独裁政権もびっくりの出来レースだった。


「……で、具体的には何をするんスか?」

「何しようか……んーっと、握手会とか? ほらほら、どうだいシラノくん? お姉ちゃんの手を握ってみない? どうかなどうかな? すべすべだし、あったかいぞぉ?」

「いらねーっス。……悪いんで」


 「何が悪いの!? なんで!?」と騒がれたが……随分と豆が増えて皮も厚くなった己の手のひらを握り、引っ込めた。

 ともあれ、と息を漏らす。話はそれきり終わりだ。雑穀の粥や豆のスープが並べられる食卓は完全に閑散としている。

 セレーネが負傷で寝込み、エルマリカとメアリが内偵に出ている以上は仕方なかった。


「……とりあえず、セレーネに食事持ってきましょうか。メアリさんもエルマリカも、後で合流するって言ってたんで」

「うん! あ、こんなこともあろうかとちゃんと林檎を買っておいたんだよ! ふふ、どうだい? どうかなどうかな?」

「……流石は先輩だと思います。本当に」

「えっと……うん、ありがとう! あの……でもボク、その、今聞いたのはこの林檎のことだったんだけど……」

「………………………………」

「うぇぇぇぇぇぇぇ、なんで早足になるの!? なんで!?」


 大股で歩きながらマフラーを引き上げる。

 ちょこちょこと追いかけてくるフローを適宜待ちつつ、個室へと向かった。



 ◇ ◆ ◇



 風がそよぐ。木の幹をそのまま使ったいびつな柱に支えられた格子状の天井には弦が何重にも巻き付き、さながら葡萄(ぶどう)畑のように天然のひさしを作っている。

 近くには馬継場もあった。てかてかと光る大きな尻の後ろで退屈そうに尻尾を振る馬と、痩せ気味の馬童は冒険者宿の奉公人だろうか。

 シラノは一人吐息を漏らす。

 如何に剣鬼とはいえ、セレーネは女だ。種々、身支度や世話があるのだと看護するフローに言われてしまえばすごすごと部屋を後にするしかない。

 そんなふうに追い出される形で冒険宿の裏手の共同水場に来ていた。


「……」


 横長の石桶の排水口にできた渦をふと眺め、シラノは片手の剣に向き直る。

 白刃を剥き出しにした獅子丸。目の前には、触手製の砥石。

 とはいえ見様見真似の作業である。近くには、シラノ同様に武具の手入れをする男たちがいる。皆が示したように無言で、己の武器と砥石に向かい合っていた。


(……)


 しゃっ、しゃっと砥石をなぞりながらセレーネの言葉を思い返す。

 穢れそのものである魔物を斬れば、穢れが溜まる。そして刀剣に穢れが溜まりすぎれば、そこから魔物が産まれることもある。

 戦備えとして武具を放り込んでいた倉庫より魔物が現れ壊滅した騎士団もあると聞けば、周囲の男たちの真剣さも判った。


「よ! なぁ、その一本だけなら聖油の残りを貰ってもいいか? 見ての通り、装備が多くてさ。支給分じゃ足りないんだよな」


 故に隣から胴鎧を着込んだ明るい青年に声をかけられたとき、シラノは軽く頷いて瓶を差し出した。

 今、使える刀は一つだけ。かつて幾度となくシラノの命を助けた豪剣は、邪竜と化した少女との戦いに半ばから砕け、そしてその強度故に打ち直すこともできてはいない。

 〈幻髪の血剣(ミスティルテイン)〉も使えない。一度権能を使おうとしたが、手足の血管が裂けそうになった。


「あんた、武器はその一本だけかい? 相手はなんだ? 野盗狩りか? それとも誰かの護衛? はは、まさか冒険者界隈でもご禁制の暗殺者とか言わないよな?」

「いや……難行を、少し」


 シラノが応じれば、快活そうな茶髪の青年は大きく目を見開いた。


「……難行!? まさか、いや……あれって要するにどう考えても無理だからその分反省させる――ってやつじゃないのか? いやいや、難行? いや……あんた本気で?」

「うす。……次で五つ目っス」

「マジかよ!? 五つ目!? あんた、あの剣の一族の祖でも目指してるっていうのか!? 本気で……本気で難行をしてんのか?」

「……」


 そのまま盛り上がった青年は、色々と語り出した。

 曰く、難行というのはかの〈剣と水面の神(バトラズ)〉を討った剣の一族の祖が辿った七つの試練に類するもの。

 曰く、その七つを超えしものこそは神に認められるに足る勇士。

 曰く、実はその大祖は難行を終えるより前に〈剣と水面の神(バトラズ)〉と相まみえた。

 曰く、彼に惚れ込んだ〈死と戦と門の女神(ネーメイン)〉は死の口づけを齎そうと鴉に姿を変えてその褥に忍び込んだ――。

 黙するシラノへひとしきり話したのち、やれやれと男は肩を竦めた。


「にしても最近、難行とはいわねーけど忙しくて困るよな。こんな支給の油だけじゃ足りないぜ。……ああ、あんたも知ってるかもしれないが難行ってのは――」

「今ある依頼の中で、採算が合わなくなったものが回される……スか?」

「あ、なんだ知ってたのか。……そうなんだよな。まぁ、数合わせで適当なものを当て嵌めることもあるとも聞くけどな。でも……どうなんだ? こう、あんたのはどうだった? 簡単なのもあったか?」

「……」


 青年の言葉に黙考したが、答えは出なかった。

 やれと言われたら、する。やらねばならぬので、退かぬ。

 基本的に求めたところで助けが得られぬ以上は、そのこと自体にかかり悩むのもあまり有意義でない。

 前世からそこが変わらぬ――弟妹の面倒を肩代わりされることはなかった――以上、そして死したことでなお体感した以上、シラノはあまり頓着していなかった。


「……ま、そう言われても難しいか。おれとしちゃ、あんたにいくつか簡単なものがあった――って言って欲しいけどな。……難行が本当に難行だらけってことは、ヤバイ依頼だらけってことだしなあ」

「……」

「近頃、見知った冒険者も帰ってこないことも増えたし……時期的に“卑”が強くなるっても、なんかきな臭いね。ったく、これで本当に〈炎獄の覇剣(ディルンウィーン)〉を握った〈剣と水面の神(バトラズ)〉が復活する……なんてならなきゃいいけどな」


 青年はそう顔を顰めて肩を崩した。

 それから二三言交わして、彼はその場を後にする。

 その無事と幸運を祈りながら、マフラーを引き上げたシラノの胸中ではなんとも言えぬ想いが渦巻いていたが、


「おやおや、精がでやがりますねぇ。……ふふ、別のものを出すのと、かよわいおねーさんの頼みを聞いてくれるのと……どっちがいーですか?」


 声に上げた視線の先には、ヘッドドレスの下の橙色の髪を風に抑えて妖しく流し目を送るメアリ。

 にぃ、と。

 二本の指で頬を押し上げる彼女は、何某かの企みごとの気配を漂わせていた。



 ◇ ◆ ◇



 死神は我々を眺めている。

 窓の外から、眺めている。我々を。


 窓の外に。死神が。いる。


                         ――小人族の冒険者の末期の言葉


 ◇ ◆ ◇



 王国の定める法はあれど、沙汰は領主に任されている。

 帝国の崩壊と魔剣の王の台頭に、かつて法を司った神官たち――〈不滅の極剣(エゼルフィング)〉の担い手たる〈勝利と秩序の女神(メンスルーウァ)〉のその神官たち――は散り散りに去った。

 それから穢れを避けて暮らしていた人々は、点々と出来上がった封土は、如何に王国として纏められても細かな慣習法までを捨てることができない。

 故に、王政なれど領主は未だに地方の司法を担い――――つまり、


「……」


 ゴクリと、領主麾下(きか)の騎士は喉を鳴らした。

 麾下といえど、大した家柄ではない。ただこのノリコネリアで、司法や行政の一端を担っているにすぎない。

 今のこれは、彼の許容量を外れていた。

 先導する彼に合わせて、コツコツと計三人分の足音が冷たい石の廊下に木霊する。

 看守長の男は、恐る恐る声を上げた。


「……あの、その、この先の牢に繋いでいます。ですが、あの、執行騎士の方がわざわざ……その……ええと、あの……」

「えーえー、安心してくだせーな。余計なことはしませんとも。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……()()()()()()()()、ってね」


 あまり歓迎的でない視線を送られたメアリはひらひらと手を振る。

 彼女とて、もう随分と慣れたものなのだろう。エプロンドレスを外套で覆い隠した姿で、覗う看守長に人払いを言伝した。

 連れられるまま来たシラノが向かい合った先には、錆びた鉄格子と薄汚れた石づくりの牢獄。

 魔術封じの石牢――という都合のいいものはこの世界にはない。

 自傷による流血を封じた厚手の手袋と木の手枷。身体刻印封じの焼き印がされていないのは、ひとえに彼が魔剣使いであるからだろう。

 冷たい牢獄の内で、毛皮を揺らして()()()と身体を起こした黒犬の獣人。

 シラノの不在を狙った魔剣使いの刺客――ラルカンであった。


「……かか、これはこれは。なんとも珍しいものもあったものだなぁ。国家の忠犬どのと、嫌われ者の触手使いとは……かか、はてさて如何なる御用命か……それとも嫌われ者同士仲良くしている、ということかな?」

「そういうあんたさんは、その口の悪さで嫌われて牢に入れられたってとこですかねぇー? 駄目ですよ、お友達は選ばねーと……ちょっとした軽口のせいで簡単に背中から刺されちまうってもんで?」

「かはは、こう見えても向こう傷しか受けたことはないのでな。その心配は御無用、と言わせていただこうかなあ。……いや、今まさに我の問いへから逃げた者には耳が痛いか?」


 若草色と、金色――お互いを測り合うような二人の不敵な視線。

 しかしそれを遮るように、シラノは一歩を踏み出した。


「あなたが、先輩とセレーネを狙った。……間違いはねえスか」

「ふむ? はて、はて、いいや、狙ったとは……。いやはや、まずはそういう貴様は――」

「白神一刀流のシラノ・ア・ロー。先輩の弟子だ」


 恍けるように眉根を上げるラルカンの前で、シラノは獅子丸の鯉口を切った。

 親指に鍔が押され、チキ、と音が鳴る。

 メアリが目を見開き頬を強張らせる……それを手で制し、シラノは続けた。


「事情を洗いざらい話して下さい。全て。何もかもを」

「……かか、血気盛んよなぁ。だとして、話さねばどうする? 報復か? 殺しの匂いのしないその手で――……斬るか、我を。哀れに牢に繋がれた我の血を持って、剣士として名乗りを告げる気か? かか、なんと大した剣の道よなぁ……」

「いいや。先輩が助けた相手を……無抵抗の相手を、俺が斬るわけにいかない」

「ほう、ふむ、さても奇なる……。いいや、いやはや、ならば何故……そのように剣に手をかける?」


 虚勢なのか、嘲弄なのか。

 片頬を上げるラルカンヘ、シラノは軽く首肯して返した。


「俺自身への、戒めに。真剣を握ってることを忘れれば、あなたを叩き斬ってもおかしくない」

「は、は……何たる矛盾! 何たる蒙昧! 人を斬らぬためにこそ剣を握るなどと、この老骨の僅かな人生でも聞いたことのない哲学よのう! かかか、小僧、怒りに狂ったか――」

「依頼人はもう吐いた」

「……なに?」

「あなたに依頼した奴は、洗いざらいすべて吐いた。……いや、吐くのは時間の問題だとしても、もう言い逃れできない場所にいる。庇っても無駄だ」


 ただの直球。

 尋問や交渉の余地もない、その文脈もない言葉に面食らったラルカンの笑いが止まる。

 橙色の髪を揺らして、半眼のメアリが補うように切り出した。


「言っときますけど……そこの人、衛士の静止を振り切ってとっくに殴り込んでやがるんで。物理的に屋敷まるごと潰して、全員お縄ですよ」

「……そういうことです。大人しく、罪を認めて下さい。今なら悪いようにはしねえ」


 指し示すメアリの親指に、左の指で鍔を押したまま頷いた。

 ……訂正するなら、証文付きのユーゴの証言で衛士へと話の筋を通した上で殴り込んだのだが、まぁ、いい。

 そして、呆けたように目を見開いていたラルカンは――……突然大声で笑いだした。


「かはは、師弟揃って人も殺せぬ、剣士の矜持を損なう延命を図る愚か者かと思えば……いいや、いいや、大うつけ者よなぁ! こうも奇怪な武辺者とは! ははあ、判る……判るぞ。貴様の本質もまさしく刃! それをただ己の意志一つで裏返しているにすぎぬ剣鬼! どうしようもなく野蛮な殺人刀となぁ!」

「……」

「いいぞ! いい! 貴様は剣一本で己の意思を通さんとする剣鬼! 剣の先に己はなく、剣の後ろに己なし! その師と同じくくだらぬ不殺の理屈にかぶれているかと思えば――なんと! ははぁ、面白い剣の鬼よな!」

「……」

「よい、よい……剣の道を進む者ならば存分に語ってやろうぞ! 同じ剣士のよしみ、牢に繋がれた敗残者からのせめてもの(はなむけ)よ!」


 何が面白いのか。

 身体を震えさせたラルカンが目を輝かせるのに、シラノはただ腕を組んで口を結んだ。

剣鬼――セレーネやリウドルフと、目の前の老い狼は同じ類の存在。

 優しい警官と怖い警官……そんなメアリの要望とはいささか違う形になってしまったが、どうやら、シラノが連れてこられた意味は果たせそうだった。



 冷たい石の牢獄に、弾むような老いた声が響く。

 肩を揺らして語り始めた彼の言葉には、シラノとて表情を保つのも難しいことがあったが、


「……つまり、まぁ、初めからつまらぬ仕事であったというわけよ。そのつまらぬ仕事で思わぬ出会いがあり、巡り合わせがあり、こうして牢に入れられることになったのだがな」


 全て終わったと笑うまで、ただひたすらに黙した。

 そしてその代わり、ひとしきり話し終え鷹揚に頷くラルカンの前で、聞き手を務めていたメアリがわずかに眉間の皺を深めた。


「……ふむ。つまり、ここまでの話をまとめやがるとしたら……あんたさんは本当に――……魔剣を使って、ただ死合をしただけだと?」

「応とも。なに、うちの神殿は――――ついこないだ跳ねっ返りが神殿を丸ごと壊し、神体たる〈天魔の麗剣(オーマ・ケノーケン)〉を奪って逃げてな? 神官たる我らも手持ち無沙汰となった、というわけよ」

「神殿を……? そいつは、どんな格好をしてやがったんでやがりますか?」

「さてな。……見習い神官の内、としか聞いておらんわ。匂いも顔も、まるで判らん」

「……」


 半眼を細めたメアリは、思案する。

 竜の大地(ドラカガルド)の山脈に根ざした武闘派神官組織……黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)

 山岳に暮らすが故、その本拠地は今まで執行騎士であるメアリたちでさえ突き止められなかった。

 時折、冒険者や傭兵へと黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)崩れが現れる程度……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()といえばその隠匿性も伺えようか。

 かつてのメアリの所属、伏撃猟兵(ヒドゥンレイダー)とも浅からぬ縁があったような暗殺教団である。

 いや……


「世に散らばる百八の魔剣の内、約三十を収める組織がそー簡単に潰れやがるなんて……信じられませんねぇ?」


 目を細め、メアリはラルカンを見下ろした。

 ティグルマルク王国の主要貴族が有する魔剣が十三――王廷護剣十三会議(サルティーナ)の名の通り、王国に連なる諸侯ですらも十三本の魔剣。

 その他には角笛の島の海皇の国(ヘルムベルト)と、翼の半島の墓守の国(ウァウスリウト)……剣の一族(ガルボルク)や野に散逸し冒険者の所持品となっているものを含めてなお、強力な勢力だと言わざるを得ない。


「そうは言うても、天地創世の魔剣には及ばぬ剣の集まりよ。……カカ、かつてかの御方が手にした〈天魔の麗剣(オーマ・ケノーケン)〉ですら序列十三位。いくら天の月を喰らったといえども、とても、王国の二本の魔剣には敵わぬわ」

「……」

「まぁ、つまり、我もその他も……皆、野犬となったということよな。如何に偉ぶろうが滅ぶは一瞬となれば――はてさて、侘しいものではないかと、せめて惜しんでくれぬかのう?」


 本気か冗談か……そう締めたラルカンの笑いへ、メアリは吐息で返した。

 視線を送られたシラノは、僅かに頷きで返し目を開ける。ラルカンの言葉に嘘はない。

 外骨格を纏わぬ以上は確実とは言えぬし、何より敵に魅了という手札があるために完全に信頼はできぬが……それも承知なのだろう。メアリは、後ろ手で小さなピースサインを返した。


「んじゃ、あんた以外の残りの奴が立て直しを図ろうとしやがることも……そのために奴隷を集めることも……十分にあり得る話ってことですね?」

「かか、さてな。我は知らぬよ。そこまでは、知らぬわ」

「……そーですか。なら、いいです。あとはここの領主の沙汰でも待つんですね」


 ぱっぱっとその外套の裾を払い、牢獄へと背を向けたメアリ。シラノはほとんど口を挟めなかったが……この会話で有益なものは得られたのか。

 そんな踵を返した彼女が、止まる。

 振り向き直し、そしてラルカン目掛けて冷たい声で言い放った。


「“黒死風”と――……あんたさんは名乗りましたね」

「かか、それが如何した? 魔剣を握り、死の風を吹かせるならばそれは――」

「ええ、ええ、由来は構いませんよ。知ってやがるんで。……ただ、おかしーですねぇ。例の大戦犯の忠犬たるあんたさんがただけは、そう名乗ることがないはずなのに」

「……なに?」

「早々に尻尾振って帰順した犬コロの集まりでしょう? なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ってのに――」

「な、」

「……ま、余談ですよ。せいぜい世を乱した罪の重さに向き合うことですね。……そのあんまりに虚ろな自分自身とやらで」


 それきり、彼女は歩き出した。

 治安を乱す犯罪者への侮蔑にも近い冷徹さ――……執行騎士としてのメアリの氷が、ラルカンヘと突きつけられていた。

 シラノは、呆然と足を止める。

 紛れもない剣鬼だと思われていた男が単なる洗脳の一被害者かもしれないという事実に――――驚きと共に、


「なん、かか、何を馬鹿な……! 何を、馬鹿な……! いや……何故我が……何故、我が……黒死風など……何故……」

「……」

「……我に、なんぞ用か小僧。小僧と語る口は持たぬわ。……消えろ。疾く消えるがよい」


 その灰色混じりの黒の体毛から艶を失わせて、狼狽するラルカンを前に黙した。

 黙し、しばし考え――……特に何か慰めになるようなことも思いつかず、しかし(にわか)に戸惑いを怒りへ換えて身体から滲ませるラルカンに促されるように、ゆっくりと口を開く。


「……その、上手くは言えねえっすけど。さっきあなたが……人を殺さぬことが愚かと、延命を図ることが愚かと言いましたけど……。少なくともそれが今のあなたの本心として……」

「……なんだ? それが、どうした?」

「きっと、こういうこともある。……()()()()()()()だ。終わらせないことには、きっと意味があるんです。……きっと。取り返しがつかねえから」

「……」

「だから……その、今のあなたにとって分からねえことばかりだとしても……こういうこともきっとあるんだって……そのことは分かってください。斬らねえに、越したことはないんだと」


 打ちひしがれた気配が拭えぬラルカンが、若干の怒りを滲ませる瞳を送ってくる。消えろと、言われている気がした。

 一度息を吸い、シラノは軽く頷いた。


「……また、来ます。あなたの昔のことが判ったら、伝えに……ここに」

「……去れ。小僧」

「うす。……それでは、これで」

「去れ! 疾く去れ! 去れ小僧ッ! 貴様など要らぬわ! 説法なぞ要らぬわッ! 去れ!」


 癇癪のように声を上げるラルカンの言葉を背に、シラノは静かに拳を握る。

 淫魔。

 人の心を弄び、人の命を踏みにじる異形異類。悪辣さが五体を得たかの如き怪物。

 戦わねばならぬのだ。やはり、戦わねばならぬのだ。

 シラノが触手使いだからではない。触手剣豪だからではない。

 失う痛みを知る者は、奪う者と戦わねばならない――――そうだ。心にただ、そう刻んで牢獄を後にした。



 ◇ ◆ ◇



 オロロンゲボーロ、オロロンゲボーロとグランギョルヌールが空を往く。

 一夜明け、支度は万全に整えた。強心作用のある草、輸液可能な生理食塩水(自作)、鎮痛作用のある丸薬――……戦に必要と思えるものは一通り買い込んだ。

 それらを腰に巻き、シラノは首肯する。

 メアリからあの後に受けた報告によるなら、今この地域で起きている異変は三つ。


(穢れの濃度が増して魔物が強くなっている異変、街から人が消えていないのにこの地方から奴隷の出荷が行われている異変、潰れた筈の組織が動いているという異変……)


 几帳面な商人がつけていた裏帳簿と名簿にあった取引相手――黒天宮衆(オ・ヌーサ・マーフ)

 ラルカンの属していたそれが既に潰されていたというなら、何故取引相手として残るのか。

 いや、ラルカンのあの様子から十中八九淫魔の手が絡む。

 またしても邪教徒と同じく、支持母体としているのか。下部組織としているのか。

 魔剣の王。淫魔――……どちらも触手使いとは因縁のある相手が故に、シラノはどこかきな臭いものを感じていた。


(ちょうど、どれも調べられるかもしれねえ……次の難行の場所なら)


 次の目的地は山岳にほど近く、ノリコネリアから外れた場所にあるため監視の目が届きにくい。

 故に、何らかの手がかりを得られるかもしれないと意気込むものがあった。

 仕上げに腰へ獅子丸を差し、シラノは然りと頷く。早朝の出立となるが意気爽健である。

 なお、


「うぇぇぇぇぇぇ……まだ眠いよぉぉぉぉ……こんなに早く起きなきゃ駄目なのかよぉぉぉぉぉ……」

「いや……別に無理して起きなくても」

「見送りぐらいしなきゃだろぉぉぉぉ……! 冷たいこと言うなよぉぉぉぉぉぉ……!」


 フローは相変わらずだった。

 そう言われても紫色の目を擦りながらに半ばゾンビめいた動きをされると、どうにもシラノも気が咎めてならない。

 彼女は無論、留守居である。


「先輩、俺がいなくても夜ふかししちゃ駄目ですよ」

「元からしてないってばぁぁぁ……寝る子は育つって言うだろぉぉぉぉ……? ボクだってまだまだ育つって思ってるんだからなぁぁぁぁ……?」

「……うす」


 悲しいけどその歳だともう身長が伸びることはないと思う……そんな言葉は飲み込んだ。触手剣豪としての、いや剣豪としての情けである。

 低血圧なのかロングスリーパーなのか、フラフラ揺れながらなんとか口を開こうとする彼女のことは……心配がないと言えば嘘になる。また襲撃の危険があるかもしれないと思えば、冒険者などという肩書など投げ捨てたいほどに。

 だが、セレーネが動けぬ代りにエルマリカとメアリが護衛につく。その代わりの調査も兼ねなければと思えば、己の仕事を全うせよと心は呼びかけてくるのだ。


(……)


 淫魔。

 魔剣。

 魔物。

 この世界にはあまりにも危険が多く、嘆きの種は尽きない。だからこそ、


「先輩」

「うん? どうしたんだい?」

「……行ってきます」

「――――うんっ!」


 己は触手剣豪なのだ――と強く心に刻み、シラノは歩み出した。

 朝焼けの空が輝き、その行く手には、僅かな雲と開け切らぬ闇が広がる。

 だが、退いてはならぬのだと、マフラーを引き締め強く頷いていた。







 なお、


「あら……奇遇ね、シチ」


 すぐに帰りたくなった。

 食虫植物のように毒々しい、扇情的な気配を漂わせる黒髪の女――。

 リープアルテが、そこにいた。久方ぶりの遭遇だった。

 


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