第九十一話 ワンス・アポン・ア・タイム・ホエン・ブレードランナーズ・ラン・ブレード その四
◆「ワンス・アポン・ア・タイム・ホエン・ブレードランナーズ・ラン・ブレード」その四◆
イィィ、と夜闇に剣が冴える。
やおら男の鞘から解き放たれし錆銀色の魔剣――――刀身が僅かな弧を描き、拳を守る無骨な護拳が誂えられし騎兵剣。
無数の目玉めいて刃に浮かぶ曲線の魔術紋様は、スヴェルアーク製の魔剣と察させるには十分であった。
伝承に違わず――まさしく、“黒死風”の携えし得物。
自然、セレーネのその瞳が爛々と輝かんとしたとき……突如として喧騒と共に集団が現れた。
「……あら」
フローとセレーネの行く手を阻むように路地へと殺到した七・八人の男たち。揃いの黒外套に身を包みながらも背格好が安定しない集団。
柳眉を上げる。
どれも見慣れぬ――……いや、違う。外套を目深に被ったその内一つの影の立ち振る舞いと体型に、セレーネは覚えがあった。
「……ふふ、仰々しい口上を述べられるから誤解してしまいましたわ。女を誑かすなど、悪いお方ですわね。……ええ、単に恥をかかされた雪辱というだけですか。それも当人を狙う意気地もなく……。……濡れた下着の感触は、そうも屈辱的でしたか?」
僅かな失望と共に、涼しげな流し目を送る。
魔剣使いの背後に控える影の内の一つが今にも激昂しようとしたが、その隣の男に諌められて黙る。あくまでも、闇討ちということらしい。
つまらぬ集団。殺す価値も、活かす価値もない集団。
故に、斬りて死なせるしかない集団。
しかし対して、魔剣を片手にした男から発せられる剣気に誤りは無い。
「――――……ふ、ふ」
飃と、風が吹く。
黒死風――……“黒き死を運ぶ風が吹くとき、魔剣の王は帰還する”――そんな逸話を銘にうった、まさに凶悪無慈悲な殺戮の剣士。
竜の大地の剣士ならば一度は耳にしたことがあるその二つ名。
不意に込み上がるような笑いを零すセレーネに、怪訝そうに外套の男――“黒死風”が唸った。
「……どうした? もしや、我を知らぬのか? それとも、狂ったか?」
「ええ、とうに私は剣に狂い果てていますわ。ふふ、“魔剣を求めて村一つを滅ぼした”……“神殿に押し入り神官兵と斬り結んだ”などと世の噂に語られる〈黒死風〉と死合えるならば、何とも存外の幸運――…………ですが、残念です」
「……ほう。残念とな?」
「ええ。当人に雪辱を果たすこともできず縁者を狙う……広場と寝台の違いも判らず、小水の止め方も知らぬ子供なぞの使い走りをされる方だとは…………ふふ、ここで斬り捨てることが情けでしょうか!」
男が応じるよりも先に、ひゅばと剣閃が舞った。
噴き出る血飛沫。上がる悲鳴。
三人が、倒れた。
斬撃を飛ばしたセレーネは冴えた蒼色の左目を細め、
「……ふむ」
吐息を一つ漏らし、己の口角から垂れた血を拭った。
舞った血飛沫は四つ。
視線の先に、“黒死風”はなく――
「せ、セレーネさん!? そ、その傷――――……は、早く治さないと!」
「……いけませんわ、フロー様。これは私が立ち会いで受けた傷……戦の最中に余人に治させるなど、剣士としての名折れです」
「で、でも……そんなこと言ってる場合じゃないんだよ! そのままだとセレーネさんが……!」
「良いのです。……それに治療をしようとすれば、貴女様にまで危険が及びますわ。……それだけは、どうかお許しを」
横に薙がれた己の腹に手をやり、セレーネは痛みを堪えつつ奥ゆかしく笑った。
躱された。――不可視の剣戟。不可知の移動。
その権能のからくりは掴めぬが――……認識するよりも先に、セレーネ・シェフィールドは斬られたのだ。敵に。黒死風に。
そして、背後から――その先から、死霊めいた老人の掠れ声が響く。
「自ら生き永らえる機会を逃すとは、随分と狂った女であるな。……かか、死合を求めて三下に手を貸す我が言えた言葉でもないがの。しかし、誤りがあるぞ……麗しき若き女の魔剣使いよ」
「誤り?」
「危険ならば、我に限らずそこにあろうよ。……これよりすぐに貴様は我が手により死を齎され、そこなる三下たちがその女を害するであろう」
「……なるほど、道理ですね。ええ、道理とは……覆せるものではありません……そこは私も、認めますわ」
僅かな苦悶を浮かべて向き直るセレーネと、愉快そうに目を細めた老齢の男。
外套の刺客たちが、まさにそうだと声をあげようとする中――しかし、凍えるような冴えた笑みが一つ。
「ええ、道理と言うなら――――死人に生者は殺せませんわ」
セレーネの微笑に合わせて、集団が強烈な断末魔の絶叫をあげた。
再び飛び散った血飛沫と、無残にも路地に倒れ重なる外套の男たち――都合、七人。七人が絶命した。
月夜に光るは銀の刃。
セレーネのその手に下げられた〈水鏡の月刃〉が――初撃で与えた傷を引き寄せ弾いて、残る集団を一掃させたのだ。
「かかッ、ほう! ほう! これはなるほど……すでに行動を終えていたか! その歳にしてなんたる老練! なんたる悪辣! ……なるほどなるほど、あい判った! おうとも、それが貴様の魔剣の権能か。よく判ったわ!」
「……」
「くかか、それとも……むざむざと権能をあらわにするほどにその女が大事だということが判った――と言った方がいいか?」
「……いずれでも、ご随意に。元より貴方の言動は戯言の域を出ないものですので。ええ、貴方が私に死を齎すのではなく……私が貴方に死を齎すのです」
「ほう? なるほどなるほど……手傷を負い、なおも吠えるか。吠えかかるか! 野犬のように! ……良いだろう、若き狂犬よ。その笑みが朽ちるのを肴に、杯に汲んだ貴様の血で酔うことにしよう。さぞやこの老いぼれ犬の喉も潤うだろうよ!」
老齢の男が外套を脱ぎ捨てると同時、露わとなるは享楽に歪む獣の面。
僅かに白の入り交じる黒き体毛。地人族の喉笛など骨ごと噛み千切ろうと言わんばかりの大顎と、頬骨深くまで突き立った古傷。
黒き犬の獣人の剣士が、僅かにしなやかさを失った老齢の体躯を揺らして――その剣を斜めに構えた。
いざ、
「〈水鏡の月刃〉――――“月下狂刃”のセレーネ・シェフィールド」
「祖には〈白狼と流星の神〉、オトム庄の隻眼のニオールを父に、手には〈言矢の韋剣〉――――“黒死風”のラルカン・オ・ニオール」
蒼き月の見下ろす街角、二人の剣客が向かい合う。
揺れる銀髪。蒼銀の双剣をその手に携えた月の女神の美貌――セレーネ・シェフィールド。
靡く黒毛。錆銀の曲剣を握りし深き傷持つ地獄の老犬――ラルカン・オ・ニオール。
剣と剣、死と死、銀と黒とが嗤い合う。
「――――さあ、貴方を感じさせて下さい!」
「――――さても、血で潤すとするかのう!」
いざや剣閃。
凍りついたフローの前で始まるは、剣鬼と死鬼の血戦である――。
◇ ◆ ◇
君は満ちる月を見た。
僕は過ぎゆく星を見た。
君は静かな泉を見た。
僕は流れる小川を見た。
君は萌ゆる草原を見た。
僕は朽ちる大樹を見た。
僕は見た。
僕は、飛び去る一羽の燕を見た。
――――亡き人に捧げる冒険者の詩
◇ ◆ ◇
山腹を切り拓き、ひときわ荘厳な岩造り神殿が街を見下ろすガルドヴァレイ。
回路めいて縦横無尽に走る水路以外は輝くものがなき闇の街に、甲高い声が木霊した。
「なんてことしてるんだいキミたちは!? あ、あれじゃ今頃みんな……! 一体、なんでこんなことを……!」
血相を変えたボンドーは、先ほどまで己が居た――そして崩落させられたばかりの洞窟を指差して叫んだ。
谷に面したガルドヴァレイの街。
そこへの唯一の入り口は、象徴たる岩の魔神像をも倒し飲み込んで潰れている。
「一体なんで、だと……? あの剣は……〈血湖の兵剣〉は村の宝だろう! それを勝手に売り払おうとしやがって……! ふざけるなよ、クソ間抜けのガキが!」
「なっ、いや、僕は……」
「しらばっくれるんじゃねえ! お前が買い手探しをしまくってたってのは聞いてるんだよ! 随分と色々と巡って……とっくのとうに噂になってるんだ!」
怒気溢れる男が、亜麻色の髪を揺らしてボンドーの胸ぐらを掴みあげた。
普段は肉体労働者としてその日の糧を稼ぐ彼の肉体とは比べ物にならない華奢なボンドーのその爪先が、虚しく空を切る。
「そうよ! あんたの馬鹿な誘いに乗ったせいで村のみんなを失っても生きながらえて……もう畑もない! 道具もない! 住む場所も帰る場所もないわたしたちにとって、あれがどれだけ支えか判らないの!?」
「ち、違う……! 僕は……!」
「何が違うのよ! ふざけたことを言うならこの場であんたの息の根を止めてもいいのよ!?」
そこに、怒れる女も続いた。激情の眼差し。今や彼らにとって、ボンドーは親の仇にも等しい――いやそれ以上に憤怒の念を滾らせる敵だった。
それを横目に、獣人の男は外套の下で鼻を鳴らす。
くだらぬ言い争いなど、彼には関わりがない。興味もなく、耳障りでしかない。大切なのは一つだけだ。
だがしかし、怒れる村人に気圧されながらも……ボンドーは負けじと叫んでいた。
「ぼ、僕は……! だ、だから……だからこそ……村の中に置いておくぐらいなら……! それなら売って、皆の糧にした方がいいと思ったんだよ……!」
「……え」
「なっ!?」
「だってそうだろう!? いくら村の誇りなんて言ったって――もう誰も入れない! 誰に伝えることも受け継ぐこともできない! いずれ誰か冒険者に奪われるぐらいなら、せめて僕らの明日にした方がいいと思わないのか!?」
甲高い声が、闇夜に響き渡る。
狼狽したのは男たちであった。
「そんなこと考えてたんなら……なんで、もっと先に……おれたちだって、それなら……」
「言っても反対するやつはいるし、賛成しても『どうせなら自分たちの手で』と言い出しただろう!? もう村はなくても、キミたちは村人だ! そして僕は村長の跡継ぎだ! なら、危険になんて晒せない!」
「な……」
「僕が義姉さんに比べて頼りないってのはわかるさ……でも今は僕しかいなくて、僕らは生き残ったんだ! 僕らは生き残ってしまったんだ! なら、なにをすべきなんて決まってるんじゃないのか!?」
「そ、それは……」
どちらも同じ非力な人間なれど、役者が違うのか。
何度も咳き込みながら首元を抑えつつも碧き瞳で真っ直ぐに相手を見抜くボンドーと、揺れる男たちの亜麻色の瞳。
くだらぬ。
くだらぬ筈だが――己の内からこみ上げるものを、獣人の男は自覚した。
自覚し、言った。
「臭えな……臭え臭え。嘘の臭いがするなぁ」
よく響く低音の唸り笑いに一団の手が止まる。
その注目が集まるのを感じながら――零れそうになる薄ら笑いを堪えて、男は毛並みを揺らして腰を上げた。
「なぁ、誇り高いオレたち獣人族の鼻を欺けると思ってるのか? おめーからは、嘘の臭いがするんだよなァ……隠し事の臭いだ……」
「ぼ、僕は嘘なんて……」
「ついてねえってか? ……苦しい言い訳だなぁ、おめー。だったらなんで手のひらに汗を掻いてるんだ?」
弾かれたようにボンドーが手を動かしたのを見て――にぃ、と笑みが溢れた。
事実か否かは関係ないし、興味もない。
だが、この場でそのボンドーの反応が意味することは……一つ。
「てめえ……! やっぱり……!」
「ち、ちがう……これは……! 違うんだ、話を聞いてくれ……!」
「うるせえ! ふざけやがって! この簒奪者め……! 妾腹の分際で……! アルスメリア様には似ても似つかないクズめ! 思い知れ!」
彼ほど屈強ではないが、筋肉を浮かび上がらせたその腕が――唸る拳がボンドーの頬に刺さった。
収まらない。更に拳打を浴びせ、倒れたボンドーへと爪先が襲いかかる。
鈍い打撃音と、くぐもった悲鳴。そして罵声。それが、しばらく続く。幾度と続く。
眺めて、獣人は嗤った。
最早、金髪を泥にまみれさせたボンドーの瞳に先程のような意志の欠片はない。その碧い瞳は恐怖と苦痛に怯えている。
そのようなものを前にすると、背筋を這い上がるような嘲り笑いが出てくるのだ。安い嘲笑と共にそんな様をしばらく眺めていた。
そして不意に――……熱が引くように、興味が失せた。
「オイ。おめーらクソどものくだらねえ格付け争いはどうでもいいんだよ。オレを煩わせるな……さっさと連れてけ。その……魔剣の王の魔剣……〈血湖の兵剣〉のところに」
「なっ……!? キミたち……まさか、その男に……渡す……のか……?」
「ああ、それで何が悪い! どこぞの誰かも知れない奴に奪われるよりは、“黒死風”に使われた方がいいに決まってるだろう!」
「黒……死、風……!?」
顔を痣だらけにしたボンドーの顔が、更に青褪める。
それを前に黒き獣人――“黒死風”は獣笑いを零した。剣士ではない非力の民とて、魔剣の王の村の者なら知れるか。
「“黒き死を運ぶ風が吹くとき、魔剣の王は帰還する”……かの王の偉業を再現しようとしてる者に渡るなら、魔剣にとってもこんな誉れなんて他にない!」
「そうよ……村を壊されても、蔑まれても、例え他の街でどんな目に遭っても……わたしたちにはまだ誇りがある……! 来たるべきときに王に剣を返せと、そう申し遣ってるとおりに!」
「そんな、誇りなんて……古いだけの言い伝えなんて……!」
「まだ言うか! クソの間抜けが!」
「他に、わたしたちのせいで死んだみんなに何を手向けにしろって言うのよ!」
また、肉を打つ音がする。
くだらぬ茶番だ。獣の男は、不機嫌に唸り――……急に笑みを零した。
鞘で、激昂する男を抑える。拳を振り上げた男も、ボンドーも、女でさえも虚を突かれたように目を大きくした。
埃を払って立ち上がらせてやれば、金髪のボンドーは余計に戸惑いを露わにしていた。
「なんでかって、顔をしてるな? ……聞けよ坊主。オレには二つ嫌いなモンがあってな。一つは何もできねー癖に、口だけは一人前の奴だ」
「え……?」
「もう一つは、自分がそうだって……そのことが自分自身で判ってねえ奴だ。……なあ、言いたいことが判るか? ……判らねーかな。ま、判ろうがわかるまいがどうでもいい」
「何を……」
「いや、お前……そこまでやられても、やり返そうとはしてねえな? そう思ってよ……いや、恨み言の一つも吐かねえのは珍しいヤツだよなぁ。大したヤツだ。オレは、そー思う」
内から湧き上がる虚ろな笑いを堪えて、ボンドーの耳に獣の顎先を寄せる。
「なあ……味方してやろうか、おめーに」
意外な申し出への戸惑いにボンドーの目が大きくなり、
「ぎ、」
そのまま――――強烈な痛みに見開かれた。
生木を折るような密度の詰まった断裂音。振りかぶられた鞘が、ボンドーの左腕を折り砕いたのだ。
ボンドー自身聞いたことのないような声。喉から漏れる苦悶と絶叫。
血の気を失い脂汗を浮かべて喘ぐボンドーの金髪を、しゃがみこんだ獣人が強引に掴み上げた。
「ハハッ、ほらな? 今、おめーは判ってなかった。判っちゃいねえんだよ、オレの言ってることが……。判ってりゃ、まず思うだろう? おめーが、オレに味方されるような人間じゃねえって……味方されないような奴だ、って……。おめー、判ってねえんだよ。だから喜んだんだろう? 匂いでお見通しなんだよ」
嬲るような愉悦の笑いが、不意に冷める。
「……ガキが。人様を舐めやがって。そういうところが、二重に腹が立つよなあ? 判るか? まだ、聞こえるか? 返事ぐらいしろよ、その口ぁ飾りか? なあオイ」
ぴたぴたと頬に鞘を当てられ、ボンドーは震えた。
暴力がただ怖いのではない。
目の前の獣人が、“黒死風”と称された獣人の変わりざまがより恐ろしいのだ。
唐突に吹き荒ぶ谷風の如く、読めない。何が理由になるのか掴めない。
喉が凍った。
目いっぱいに映された獣人の黄色の瞳が冷たく移り変わる。
そう。これには――どう受け答えようとも、ボンドーの言葉が届くことはない。機嫌を取ることすら叶わない。命乞いも許されない。
それは、自己完結する獰猛な狂気だった。
尖るその瞳のまま、男は鞘から剣を抜き払い……その切っ先をボンドーの目玉へとゆっくりと突きつけ、
「イアーッ!」
強烈な炸裂音と共に、崩落した洞窟が分かたれる。
たなびく、赤いマフラー。
額から血を流したシラノが、粉塵の中を歩み出る。内から瓦礫を支える無数の触手柱――……突発的な襲撃を、なんとか切り抜けたのだ。
「ボンドーさんを離せ」
「あ? 誰に指図してんだ、おめー」
「離せ。二度目はねえ。……デカい耳はただの飾りか?」
瞬間――男が沸騰した。シラノへと向けられる切っ先。
照準されし目玉めいた魔術紋様が刻まれた白銀の騎兵剣は、刀身に魔の力を持つと言われしスヴェルアーク製の魔剣――〈無音の凱剣〉。
いざや起こされんとする権能に、しかし、割り入るように白煙が上がった。
ボンドーたちの真横の水路が音を立て、瞬く間に辺りが白く染まる。突如として蒸気が闇を塗り潰す。
そのことを認識した瞬間、ボンドーの身体は宙を舞っていた。
「な――――、ぐぇっ!?」
不意に重力を思い出させる着地の衝撃に、ボンドーはくぐもった悲鳴を漏らした。
胴に回された手と、広がる赤き炎髪。見上げた先には、焦りつつも不敵さを持った笑みを浮かべるアンセラ。
シラノを囮にしての救出劇――洞窟の内の水路から辿り、水の中を回り込んだのであった。
炎髪の熱気により、濡れそぼったアンセラから蒸気が迸る。
「シラノ! 退くわよ!」
「あァ。……俺はここで全員叩き斬る」
「アンタまた……!」
ボンドーを横抱きにしたアンセラが顔を顰めた瞬間だった。
無数に闇に浮かぶ赤き瞳。地を埋め尽くす血色の連星。地獄めいて辺りを覆う数多の宝石――――機会を伺っていた〈黒妖魔犬〉の群体である。
複数の舌打ちが同時に響く。
直後、跳躍。浮遊するボンドーは横抱えされたまま、水路に叩き込まれて派手な水しぶきを上げた。
◇ ◆ ◇
ぴたん、と水滴の落下音が響く。
ごく稀に空を裂き、天球から地上へと落ちる鉱物の塊があった。
特殊な金属を含有した鋼鉄と高濃度の“貴”の結晶――――人はそれを彼方を駆ける〈白狼と流星の神〉の尾の一つと呼び、そしてそんな隕石を元に作られた魔剣は類稀なる力を持つと言われている。
村に今も眠る〈血湖の兵剣〉もまた、その内の一振り。
このガルドヴァレイにも、かつて〈白狼と流星の神〉の尾が落ちたと伝えられていた。
そんな隕石の作った地下空洞の中、
「……この中なら、大丈夫そうね」
壁から滴る水を眺めて、アンセラは頷いた。
炎髪を光源として作り出される影はすべて流れる水に触れる。魔剣の権能を――豊富な“貴”の力を込められたこの流水の中ならば、〈黒妖魔犬〉は発現すると同時にたちどころに溶けて消滅しよう。
洞窟の崩落に合わせて見付けた地下空洞への退避は、結果的には事態の好転に繋がっていた。
一方、
「……骨が折れててもおかしくないでありますな」
ボンドーの怪我を確かめるユーゴとシラノは顔を顰めた。
私刑の暴力の結果は、芳しくなかった。
「帰りましょう……酷い怪我だ。機会はまだある……上の奴の始末はあとでつけますから」
「駄目だ! 今、ここで帰るなんてできない! ぐっ、ぅ、僕は逃げる気なんてない……魔剣で、倒さなくちゃいけないんだよ……義姉さんを……!」
「……? それは、どういう――……」
眉を上げるシラノの前で、
「義姉さんが、〈妖犬の郎君〉なんだ……! 冒険者から話は聞いてる……! だから、止めるためにここに来たんだ……!」
脂汗を垂らしたボンドーは、息を荒げながらもそう答えた。
思わず、一同は顔を見合わせた。それにも構わず、ボンドーは続ける。
「義姉さんに村人を殺させる訳にはいかない……! これ以上罪を背負わせられない……! あんな血塗られた奴にだって魔剣は渡せない……! 村の犠牲者なんて、もう僕は出したくないんだ……! これ以上は誰も……!」
「ボンドーさん……」
「義姉さんは僕が止めに行く……! 必ず僕が止める……! 止めなきゃいけないんだ……! だから、だから……僕一人ででも……!」
「……待ってください。何があったんスか、この村に」
シラノは、静かに彼へと問いかけた。
ここまで腑に落ちなかったボンドーの行動。あの村人たちの異様な様子もまた同じだ。
視線が交錯する。
やがて、何度か洞窟の天井を仰ぎながら、俯いたボンドーが口を開いた。
「あの日、僕たちは村を抜け出して別の村の祭りに行ったんだ……魔剣を引き抜いて水路を駄目にして騒ぎを起こして……。いつまでもこんな暗い村の習慣に囚われてて、ウジウジ閉じ籠ってるのは……閉じ込められてるのは馬鹿らしいって……」
「……」
「でも、それを言い出したのは義姉さんの方で――……計画にも一番乗り気だったのは義姉さんで……でも、祭りには来なくて……。逃げられなかったのか逃げなかったのか、義姉さんは一人残って……」
「……」
「僕たちがのうのうと祭りを見てるその時……村は穢れに襲われてて……。きっと、水路に何かしてしまったから……だから……。だからそれで皆、あんなに気に病んで追い詰められてて……」
村人たちのヒステリックな態度は、罪悪感の裏返しか。
手負いの獣の如く、重い罪悪感に苛まれるストレスが彼らを攻撃的に……捌け口を求めた過激な言動に走らせていたのだ。
「判ってる……村が滅んだのは僕たちの責任だ……だから、僕はこうされても仕方ないんだ……。そのことに文句はないさ……取り戻せるとも思ってない……。でも……だけど……!」
「……だけど?」
伺うシラノの前で、何度もボンドーは息を荒く肩を上下させた。
そして――金髪を掻き毟りながら、内から湧き上がる痛みを堪えて彼は漏らした。
「……魔物になってしまった人間は、その中でも恨みや苦しみを抱えるって……どこまでも終わることなく、魂は囚われて苦しみ続けるって……」
「……」
「義姉さんも……父上も……村の誰もがそうだ……。だから、だから僕は……」
「それで……この旅に同行を……」
「……そうだよ。生き残った僕にはどうにかする責任がある……ユキシムもマルエガリアのことも……! みんなのことも……! なんとかしなきゃいけないんだよ、この僕が! 僕しかやるべき人間はいない! そうだろう!?」
「……」
「だけど、それ以上に義姉さんは……! あの人は、あの人がこれ以上村に縛り付けられるなんてことがあっちゃいけないんだ……! 義姉さんじゃなくて――本当に継ぐはずだった僕が、なんとかしなきゃいけないんだ……!」
彼らがどんな関係であったのか、彼らの内にどんな事情があったのか――。
部外者であるシラノには、知れない。踏み込めるものではない。
終わった話だ。もう既に滅んだ村の、終わってしまった失敗の、取り返しもつかない過ちの――シラノには介入できない話だ。
故に、
「……うす。それが、あなたの希望なんですね。……ここが、あなたの死地なんスね」
そう呟けば、ボンドーが揺れる視線で応じる。
睫毛の長い碧眼。普段は臆病で、高慢で、自慢したがりで、迂闊な彼の瞳は……今も恐怖に震えながら、それでもその奥に何かを抱えていた。
既に終わってしまった話を。
失敗を、悲劇を、家族を。
取り返しのつかないことを、本当の意味で終わらせるために。
家族を、苦しみの底から救うために。
ならば――……瞼を一つ。シラノに言えることは、唯一つしかない。
「判りました。決着をつけてください。……他のことは、俺がなんとかします」
「なっ!? い、いいのかい……? だって……相手は、あの黒死風だって……」
「……ああ。あなたの死地は、俺が守る」
頷き、そして不安を懐きながらも決意を抱き締めるボンドーの瞳を真っ直ぐに射抜く。
そうだ。
彼がそこに命を懸けるというならば。
それが――親しい人を苦しみから解き放ちたいという、静かに眠らせたいという当たり前の願いが彼の懐きしものだというのならば。
「二言はねえ。俺は、触手剣豪だ」
触手野太刀の金打音が鳴る。
他に言葉は、いらなかった。
◇ ◆ ◇
そして、二人の村人の救助の為に連れ立ったアンセラの炎髪が照らす闇の街角。
並んだ朽ち果てし石造りの家々。
漂うは、死臭。
鉄錆の匂いが、主を失った街で充満する。
「……あぁ、クソキンキンうるせえ。うるせえんだよ、クソ共が」
不機嫌そうに見下ろすは獣人。
宝石を投げ出し血溜まりに倒れた人々。最早息はなく、その顔を恐怖に見開いて絶命していた。
後ろでアンセラが凍る。
……考える、までもない。獣の噛み傷ではない。鋭い一撃で、胴を二つに薙がれていた。
「……お前、どんな了見だ」
「あ?」
「どういうつもりだ。裏があるなら話せ。……いや、いらねえ。とにかく武器を捨てろ。今なら殺しはしねえ」
左眼を細め、睨み付ける。
血塗られた刃を手にした獣人は――明らかなる下手人は、それを笑い飛ばした。
「かは、かははははは! 笑わせるなクソの小僧が!」
「……」
「殺しはしねえ? 殺せねえの間違いだろう? おめーの手からは死臭はしねえ! 人を殺せずに剣士を名乗って、オレを脅そうなんて千年早えんだよクソガキが!」
陰鬱そうな気配から打って変わった嘲り笑い。
その哄笑のまま、毛を踊らせた獣人は鼻を鳴らして下劣な笑みを飛ばした。
「ん――――ああ、それとくっせえくっせえこの匂いは触手使いかオメー? 呪われた触手使い風情が剣を持とうなんてそれこそどんな了見だ? オメーらは尻振って斬り殺されるだけのクソ溜めじゃねえか! コイツらみてえに悲鳴だけしか能がねえカスだ! もう五人はブッ殺したぞ! どいつもこいつも泣き喚きやがって!」
「――」
「触手使いが剣? かははははは! ははあ、さてはオレを笑い殺させる気か? そうでなきゃどうしようもねえもんなぁ! ゴミ溜め仲間の敵討ちか? 泣かせるねえ! こいつらも呪われたゴミ溜め仲間の一員か? それともあのゴミみてえな金髪のガキに頼まれたか!?」
死体を足蹴に血溜まりでゲタゲタと笑う獣人を前に、シラノは静かに一歩を踏み出した。
血のような月が天に横たわる。
こつりと、廃村に靴音が響く。
「……」
視線の先の死体は、何も言わない。何も語らない。ただ血溜まりの中で苦悶と未練だけを残して、横たわっている。
決して好きになれそうな相手ではなかった。
だが、シラノは彼らを知らない。何も、知らない。
その裏にどんな怒りがあったのか。どんな苦しみがあったのか。どんな悲しみがあったのか。
彼らが何を思っていたのか。
それを聞くことはできない。もう何も語ることはできない。……死んだら終わりだ。終わってしまう。
ボンドーとのわだかまりを取り戻す機会すらも――彼らにはもうないのだ。
最期の顔からは苦しみが伝わってくる。
戸惑いと、悲しみが伝わってくる。
終わらせられることへの、無念が伝わってくる。
「……」
きっと、この男は今までそうしてきた。
これからもそうするだろう。これからも、そうし続けるだろう。
疫病の如く、死を運ぶ風は吹き荒れるであろう。
ならば――
「……」
奥歯を噛み締め、いざ――掴むは鞘。握るは柄。
触手野太刀を、掴み取る。
五指が柄に添えられ――直後、開くは右目。ぎろりと、赤く憤怒の光が灯る。視神経に火花が走り、宵闇を赫光が断つ。
一時的に取り戻された右の視界。手にした刃に、右の瞳が煌々と燃え上がった。
ここが死地かと、左目が問うた。
右目が答えた。――――ああ、死地だろう。死地であろう。
「……俺には、二つ決めたことがある。一つは、負けねえこと……白神一刀流に敗北の二字はねえ。そしてもう一つは……」
ゆらり、幽鬼めいて踏み出す一歩。
死地にいるのは死人か、それとも亡霊か。
そうとも。既にシラノは死人となった。凍れる怒りに、脳の髄まで死人となった。鋼鉄の死人となった。
ならば、残るは。
残るは、一つ。
刃の理、ただ一つ。
「手前ぇのような外道を……! そして触手使いを……他人を“呪われた”と呼ぶ奴を……! 誰かの当たり前の願いを踏みにじって嘲笑う奴を……! 俺のこの剣で斬り伏せることだ……!」
死地に残るは、意思のみがただ一つ。
いざ――睨むは怨敵。射抜くは外道。天下万道にはばかる悪鬼を誅滅せよ。
すでに、死体は二つ。
奪われた命が、願いが二つ。未来が、二つ。
ああ、此処はまさしく死地である。此処こそまさに死地である。――思考が劔に置き替わる。
「はっ、情けないねえ……いちいち話せねえと戦えねえのか? おめぇは……」
浮かべた獣人の嘲笑へ、
「いいや、最後に聞かせてやってるんだ。……これから手前ぇが聞けるのは、腹を見せるお前自身の無様な命乞いだけだ」
いざ返されるは痛烈な罵倒。
獣笑いが止まる。不機嫌そうに片眉をつり上げて、黒犬が唸った。
「ほざいたな、小便臭い小僧が。誇り高い我が一族に」
「……誇りに似合いの薄汚い毛皮だな。便所の雑巾によく似た惨めな死に装束だ」
「テメェ……!」
「だがこれから手前ぇは、その天下の雑巾一族の誰より見るに耐えない最期を遂げる。……お前自身の涙と小便にまみれてな」
発された挑発に、獣の黄色い瞳孔が細まった。
しかし――シラノの右目は、とうに覚悟を済ませている。
「……呪われた触手使い風情が、言葉でオレに勝ったつもりか?」
「いいや……剣『でも』勝つ」
「よほど、叩き殺されてえか」
「――――やってみろ」
言い放ち、握るは鞘。激発を待ち侘びるは、斬魔の太刀。
そして、黒き体毛と赤いマフラー。
黄色と赫の視線が交錯し、いざ、交わすは一言。
「――喰い千切られて、死ねッ!」
「――魔剣、断つべし!」
妖犬の蔓延る降魔の地、血戦の火蓋が落とされた。
此処こそまさに――――死地である。
◆「ワンス・アポン・ア・タイム・ホエン・ブレードランナーズ・ラン・ブレード」その五へ続く◆




