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QK -1213-  作者: 黄黒真直
最終章 冬から春
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第94話 ー16

 乱暴に閉められたその扉を、慧の母の良子(りょうこ)は呆然と見つめていた。

『なんで女になんて産んだのよ』

 慧のその言葉が、頭の中で繰り返される。

 それは、良子の苦い思い出を掘り起こす言葉だった。


 十六年ほど前、慧を妊娠したばかりのことだ。

 当時はまだ、良子の母、つまり慧の祖母が生きていた。孫が産まれると知り、最初は彼女も喜んでいたのだ。

 しかし、胎児の性別が判明すると、態度が変わった。

『え、女の子? ダメよそんなの。最初は男の子じゃないと』

 一緒にいた兄は苦笑していた。母に逆らうことなどできなかった自分は、

『ごめんなさい、お母さん』

 と謝ることしかできなかった。

 やがて予定日を迎え、無事子供が産まれた。病院にまで駆けつけた母は、赤ん坊を見るなり言った。

『もしかしたら本当は男の子かもと思ってたのに。《《どうして女の子なんて産んだの》》?』

 その言葉にもやはり、反論することなどできなかった。

『ごめんなさい』

 そう呟くように言うのが精一杯だった。

 せめて名前だけでも男の子らしいものにしようと決めた。アキラ、ユウキ、マサミ……男でも女でも通用する名前は、いくらでもある。

 その中で、苗字と合わせて一番響きの良かった「ケイ」を選んだ。そして漢字も、男でも女でも通用する「慧」を選んだ。

 意外にも、母は命名には口を挟まなかった。しかし、名付けた後に口を出した。

『どうせ女の子なんだし、もっと女らしい名前にすればよかったのに』

『そう……ですね』

 あなたが余計なことを言わなければそうしたのに、などとは言えなかった。いや、そんなことは思いもしなかった。ただただ反省することしか考えていなかった。


 いったいいつから、自分と母はそんな関係になってしまったのか。

 考えれば考えるほど、最初からそうだった、としか言えなかった。

 自分がやるべきことは、すべて母が決めていた。勉強も、遊びも、なにもかも。興味を持ってよいものが決められていて、その枠組みから外れることは許されなかった。

 そしていつしか、それが当たり前のことだと思うようになっていた。

 女だから勉強はそこそこできればよく、それより家事を完璧にこなせるようにした。大学へは行かず、母の紹介で知り合った男と結婚した。

 夫の清二(せいじ)は家庭的で、よき理解者になってくれた。男なのに料理ができるのかと驚いたが、清二が特殊なのだろうと長いこと思っていた。

 慧が一歳を過ぎた頃に、母が死んだ。

 そのときの感情を一言で表すなら、パニックだった。

 これまでの自分はずっと、母の決めた通りに行動していた。その規範が失われたいま、何をすれば良いのかがわからない。だがそれでも、一歳の娘は育てなくてはならない。

 手本となるのは、母だけだ。

 だから、母が自分にしたように、慧を育てようと決めた。


 その結果が、この決裂だ。

 自分はどこで間違えたのだろう。慧は全然、自分のように育ってくれない。

 中学まではまだ、慧はそれなりに従順だった。良子が提案した通り女子高に進学してくれたが、そこで妙な部活動に入ってしまった。さらに、数学が好きだなどと言い出した。しかも、ずっと好きだった、と。

 いつからそうだったのだろう。きっと母なら、すぐに気付いて取り上げていたはずだ。それができなかった自分の落ち度だ。そのせいで慧は、あんなにまで数学に入れ込んでしまった。咎められたら、怒って、泣きそうになるほどにまで。

 慧は全然、良子とは違う。

 母親に怒るなど、良子はしたことがなかった。そんなこと、想像すらしなかった。

 何かを取り上げられて、泣いたこともなかった。それほどに強い執着心を抱いたことすらなかったのだ。

 そうだ、母が死んだときですら、自分は泣かなかった。それどころか悲しくもなかった。そのとき夫の清二に聞かれたのだ。母のことが好きではなかったのか、と。

 とんでもない、自分は母のことを尊敬している、とあのときの自分は答えた。すると清二は、続けてこう聞いた。

『好きかどうか聞いているのに、どうして尊敬しているだなんて答えるんだ?』

 その質問の意図も、それに対する答えも、良子にはわからなかった。


 過去を思い返していると、玄関のドアが開く音がした。夫の帰宅だった。

 ただいま、と明るく言いながらリビングに入ってきた清二は、良子の様子がおかしいことを察した。

「何かあったのか?」

「それが、慧が……」

 良子はつっかえつっかえ、いま起こったことを話した。慧が理系に行きたがったこと、それを止めたら怒ったこと。

 清二は話を最後まで聞くと、

「慧を呼んできてくれ。俺はその間に着替えてくるから」

 と立ち上がった。


 リビングのテーブルに、家族三人が集まっている。剣持家では比較的珍しい光景だった。慧は暗い顔をしていて、目も赤い。ここへ連れてくるのに十五分かかった。

「何も話したくない」

 呻くように慧が言った。清二にとって久しぶりにまともに聞く娘の声だった。

「お父さんも、理系に行くなって言うんでしょ」

 良子としてはそうして欲しかった。しかし夫は、慧に譲歩した。

「行きたいなら行くなとは言わないが、どうして理系に?」

「数学が好きだから」

 なんの感情のこもってない声だった。清二が「知ってたのか?」と良子に尋ねると、良子は頷いた。

 夫も文系である。数学を好きなどとは感じたことは一度もない。慧の回答に戸惑っているようだった。

「よくわからないんだが、そんなに数学の勉強がしたいのか?」

 慧は黙って頷いた。

「なんで、数学なんかを?」

 清二の言葉に、慧は歯軋りした。

「またそれを説明しなきゃいけない? なんで好きなものを好きでいるのに、理由を言わなきゃいけないの?」

 怒っているような泣いているような声だった。

「私が文系科目を好きだったら、絶対そんなこと聞かなかったでしょ? どうしてそれが数学だと聞くの? どうせ何回説明したって理解しないくせに!」

 清二は図星だと思い、何も言い返せなかった。だが良子は頑なに答えた。

「普通は女の子が好きになるものじゃないからよ」

 慧はまた歯軋りする。清二が割って入った。

「確かに、女子で理系好きは多くない。理系に進むと、周りに女子が少ないぞ。大変じゃないか?」

「そんなことない。だってうちは女子高だよ? 女子高にある理系クラスなんだから、女子しかいないに決まってるでしょ!」

「だけどその先もあるじゃないか」

「なら女子大に行くよ! そのままそこで、数学者になる!」

「数学者……」

 清二は反論しかけたが、諦めたように良子に言った。

「なあ、ここまで言うんだし、行かせてやったらどうだ? 俺はそもそも、慧が行きたいなら反対する気はないし……」

「だめよ!」

 良子は絶望したように叫んだ。

「そんな、そんなこと、《《お母さんが》》反対するわ!」

「だからどうしてなの!」

「知らないわよ! でもあの人ならそうする!」

「……え?」

 慧は固まった。話の流れが見えない。察した清二が尋ねた。

「あの人って、良子のお母さんのことか?」

「そうよ」

「良子は、お義母さんの言いつけ通りに慧を育ててるってことか?」

「……そうよ」

「な……」慧は何を言うべきか迷った。「なんでそんな、私の知らない人の理想に、私が合わせなきゃいけないの?」

 良子は答えに詰まった。そうだ、慧は祖母のことを覚えていない。一歳の頃にしか会っていないのだから。

「なぁ、良子。前から気になっていたんだが」

 清二がこちらを見た。続く言葉は、良子を否定するもので、結果的に慧を支持するものだった。

「お義母さんはもう亡くなっているんだ。こう言っちゃなんだが、いつまでも死んだ人間に気を使う必要はないんじゃないか? 良子は良子の好きに生きていいんだぞ」

 《《母は死んだ人間》》!

 良子はそんなこと、考えもしなかった。良子の中で、母はまだ生きていた。呪いのように。

 だがいま清二にはっきり言われ、初めてその認識を得た。

 母は、既に死んでいる!

 それは良子にとって、全く新しい視点だった。

 良子はふらふらと立ち上がると、

「一晩、考えさせて」

 そう言って、リビングを出た。


 良子も慧も、その夜はなかなか寝付けなかった。

 悩み、泣き、様々な感情と思考が頭の中で蠢き、眠りを妨げていた。

 翌日の土曜日、寝不足で起きてきた慧を、母は呼び止めた。リビングのテーブルに向かい合って座る。

「なに?」

 と慧が低い声で聞く。良子は緊張した声音で言った。

「理系に行っていいわよ」

 慧は一瞬、眉をひそめた。疑いの眼差しで聞き返す。

「どうして意見を変えたの?」

 良子自身、その理由はうまく説明できなかった。ただ言えるのは、憑き物が落ちたような感覚があることだった。自分を縛っていた何かが緩くなったように感じていた。

「慧。あなたは、何に興味を持ってもいいし、やりたいことをやっていいのよ」

 そう告げた途端、喉が震え、涙が出てきた。

 良子は理解した。

 これは、自分が一番言われたかった言葉だ。一度でいいから、母にこう言われたかったのだ。

「な、なに、どうしたの?」

「なんでも、ないわ。ごめんなさい、慧。今まで、ずっと……」

 その先は言えなかった。母の間違いを認め、自分の間違いも認める勇気は、まだ良子にはなかった。

「とにかく、もうお母さんは、慧の進路に文句言わないからね」

 それだけ言って、寝室へ逃げ込んだ。


 母の去って行った方を眺めながら、慧は、いま起きたことを反芻していた。突然意見を変え、泣き出した母。慧には、あの涙の意味は理解できなかった。察することすら困難だった。母が、慧を理解できないように。

 自分は今後、母と分かり合えるだろうか? 仲良くなれるだろうか?

 みぞれの家族も、津々実や伊緒菜の家族も、みんなとても仲が良さそうに見えた。あんな風になれるだろうか?

 おそらく、すぐには無理だ。少しずつ歩み寄れてはいるが、自分と母との間には決定的な溝がある。それを埋めるには、長い年月が必要だろう。

 慧は、昨日見た女子大の案内を思い出した。

 あそこに進学しよう。県外なら、うちから通学するのは難しい。必然的に一人暮らしになる。

 私と母は、しばらく距離を置いた方がいい。そうして、落ち着いてお互いのことを考え直した方がいい。

 そうすればいつかきっと、みんなの家族のように、仲良くなれるに違いない。

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