3:侵入
輝く半球は銀色の天井になって頭上に迫っていた。
母船ダイダロスと小惑星を結ぶアリアドネのケーブルは、電力と通信の二つの機能を持っている。だがその供給電力をあてにできるのは迷宮の第一区画までだ。
通信システムは多少の柔軟性があって、第三区画までなんとか母船とのコミュニケーションを維持できる。但し帯域は惨めなもので最大通信速度は1kbpsも無いだろう。
2キロ離れると母船ダイダロスの巨体もさほどでもないように思えてくる。
ダイダロスの竜骨は炭素繊維強化プラスチックの太いパイプで構成されたトラス構造で、船体の頭から尻尾までを貫いている。尻尾の先は原子力エンジンだ。
原子力エンジンはコンパクトなガス炉で比推力は2000秒、大昔の第一世代NERVA炉の半分の重量で10倍の出力が稼げた。勿論放射線も盛大に出す。原子炉のすぐ後ろに円錐形の放熱板が放射線遮蔽も兼ねて広がっていた。
その後ろに球体の推進剤タンクを固定するスペースがある。これが船体の長さの8割を占めていた。だが今そこはほぼ空っぽだ。推進剤タンクは船首寄りに3つしか残っていない。
その先がミッションプラットフォーム、有人区画やセンサプラットフォーム、そして大型エアロックのある場所だ。様々なアンテナが飛び出し、きらきらと輝いている。
俺はあそこに帰れるのだろうか。
小惑星イカルスは直径1108メートルの磨かれたアルミニウム球だった。つまり鏡だ。漆黒の宇宙を背景に俺がイカルスの表面に映り込む。
銀色の天井の中心の黒い円が広がって、やがて上空の全てを占めた。到着だ。
迷宮の入り口は、直径22.1メートルの完全な円だった。第一次遠征隊はその穴の縁にテフロンの被せ物をして出入りを安全にしていた。アリアドネの中継器もここに設置されている。
俺は穴の縁を掴むと手首からアリアドネのケーブルを外した。無線をミュートしていたのを思い出して、無線を元に戻す。
「アルファダイバー1、イカルス北極に到着した。機器に異常なし。これより通信回線をアリアドネ02に切り替える」
「……こちらダイダロス、聞こえている。勝手にしろ」
トゥダのふてくされた声が聞こえてきた。通信回線を切り替える。
「アリアドネ02回線のインタフェイスチェック。トゥダ聞こえるか」
「あー聞こえない聞こえない」
問題無いようだ。俺は腕と足を穴の内側に突っ張らせると、そのままそろそろと穴の中に進んでいった。
竪穴の内側はチタンシリコンカーバイト、つまりセラミックなのだがこれが単結晶らしい。強度はべらぼうに高い筈だ。人類はこの規模でこの素材を当分作れないだろうし、その強度は計算すると異常な値しか出てこない。そんな材質の穴の内壁には微妙な凹凸がついていて、そのお陰で今俺は滑ることなく身体を支えることが出来ていた。
竪穴の素材温度は295ケルビン、つまり摂氏22度の快適な温度で、これは人類のためなのか、それともエイリアンが快適と感じる温度なのか不明だったが、お陰でこちらの生命維持はかなり楽になる。
つまるところかなり優しいというか、至れり尽くせり、細部までおもてなしの心が見える出来である。これで何故迷宮最奥に到達できないのかと言われそうだが、流石にここは地球から遠すぎた。何一つするにも面倒が多い。
やがて竪穴の奥に行き着いた。
「北極ホールの突き当たりに到達した。これより迷宮へ侵入する」
俺は簡潔に告げると、竪穴の突き当たりの側面に開いている穴に這い入った。
・
エイリアンが改造した小惑星イカルスの内部は、かなり密度が低くなっていることが中性子スキャンでわかっている。つまり空洞だらけ、内部全体が迷宮であると考えられた。
もとは実の詰まった小惑星だった訳なので、その質量の大部分が失われた計算になる。だがいつどこでその質量を失ったのかは判っていない。
迷宮は大きく7区画に分かれていると考えられている。
小惑星の北極にある迷宮入り口の周りに広がっているのが第一区画。ここは動かない仕切りで立体迷路になっている。中に動くものは何も無い。迷路の仕切りはチタンシリコンカーバイトで、一部発泡構造になっている。この発泡構造は何らかの機能を持っていると考えられていた。
第一区画と次の区画を隔てる扉が黄道面の春分方向に一つある。小惑星は回転しておらず、この扉がぴたり春分方向に位置しているのは偶然ではあるまい。
この扉は高さ11.1メートル、幅4.4メートルの長方形で、その表面に長さ1.1メートルの棒が離れて二本、突き出していた。この二本を捻りながら互いに違う方向に倒すことで扉は開く。
扉はおよそ4時間後に強制的に閉じる。閉じたらまた開けることが出来たが、開きっぱなしにはできない。扉の角は鋭く、扉の隙間にこじ入れたステンレス製の高圧ボンベを難なく真っ二つにしている。この扉のせいでアリアドネの電力線はここまでしか到達していない。
一次遠征隊が挫折したのがこの地点だ。船外宇宙服を着た宇宙飛行士が二人がかりでこの扉を開くことが出来なかった。持ち込んだ機材ではどうやっても開けなかった。この扉を開くには、二本の巨大な腕が必要だったのだ。
第一区画の内部は既によく知られており、シミュレーションでは俺は目を瞑っていても扉の前まで到達できる。でも今ここは異星人の迷宮の中、10年の努力と訓練の末にたどり着いた本番だ。投光器をつけて前方を確認しながら進む。
とはいえ、踏破にさほど時間がかかる訳ではない。踏破距離500メートルを身長10メートルの身体で進んでいるのだ。10分もすれば辿り付いてしまう。
扉の前には、仕様書でしか知らないタイプのドローンが4体いた。タイプ・オレスビウス、アリアドネの末端を構成するスマート通信中継機だ。近接信号を受けて4機のドローンはハイバネーションから復帰起動した。4機のテレメトリは正常。充電良し。
この奥にはこいつらが付いて来てくれる。ただし4時間だけだ。目の前のこの扉が閉まる前に自動的に来た道を辿ってここへ戻ってくる。
「これより第一区画境界扉を開く」
「ものすごく早く辿りついたわね」
トゥダの口調は素直に感心しているそれだ。
「この辺りは攻略済みだからね」
扉に突き出した二本の棒をそれぞれ掴む。捻って、倒す。
ワンテンポ置いて、扉は奥へと開いていく。
第二次遠征隊はこの扉を開くことに成功した。次の第二区画も突破した。第二区画は小惑星の赤道沿いを四等分したうちのひと区画、春分点方向に位置する区画だ。
第二区画に待っているのはパズルだ。立体迷路のあちこちに、迷路の壁に彫られた溝にそって動かせる立方体のブロックが嵌っている。これを押したり引いたりして、第三区画へのドアまで辿りつくのだ。
この第二区画も攻略済みだ。第二次遠征隊は瞬く間にこのパズルを解き明かした。ただ、厄介だったのが、第三区画への扉の前に辿りつく為に背後をブロックで塞ぐ必要があることだった。それは有人宇宙活動における安全確保の大原則に反する行為だ。だが彼らは使命のためにこの原則を無視して進んだ。
彼らの見つけた最適解どおりに、俺は立体迷路を進み、あちこちのブロックを押して定位置につけた。これもシミュレーションでずいぶんやったから20分もかからない。
今度の扉には、3x3に並んだ計9個の丸い出っ張りが付いている。直径22センチの円筒が10センチほど扉から飛び出していて、押せば引っ込むし、引っ込んでいるのを更に押すと飛び出してくる。
扉の前に立つと、出っ張りの一部が引っ込んでいく。残ったのは中央縦に並んだ3つの出っ張りだ。
こいつには流石に第二次遠征隊の連中もてこずったが、わかってしまえばパズルですらなかった。こいつは平衡三進数の表現で、こいつは今ゼロを示している。
出っ張りの左下を押して飛び出させ、中央下を押して引っ込めさせる。これで1を意味することがわかっている。10秒ほど待つと、右下の出っ張りが飛び出してくる。これが2だ。
次は最下部の桁を0に戻す。右下と左下を押し込み、下中央を押して飛び出させる。
そして中央の並びの左の出っ張りを押し、中央を押して引っ込める。これが3。
要するに互いに1づつ加算していく訳だ。最下位桁を再び加算して中央桁にもう一度桁上がりする。こうして10進で11まで加算したところで扉は開いた。
扉が加算のどこで開くかは実のところランダムだと思われてる。重要なのは加算終了時の値。これは必ず素数で、第三階層の扉のパズルのヒントになっている。
扉をくぐると、オレスビウスドローンが2機付いて来る。1機はここで待機だ。
第三区画は小惑星の赤道沿い、夏至の方向に位置する。ここまでが人類の攻略済み範囲だ。
この迷宮には、動き回るブロックがある。ブロックに押し潰される危険があり、つまり迷宮が危害を加えてくる最初の事例だ。
区画中央に、安全地帯らしき11メートル四方の区画があったが、これはどうやら永続して安全地帯であるという訳ではないらしい。第三次遠征隊、つまり俺たちの最初の侵入チーム、ケリーとモフェンがここに辿りついたとき、第二次遠征隊がそこに置いていった筈の通信機器やバッテリーやボンベはきれいさっぱり無くなっていたのだ。
ブロックの位置と移動経路は複雑だが何らかのパターンに沿っているらしく、現在3種類ほどの解釈が提案されてる。つまりまだ判っていない。ただパターンそのものは把握されているので、ブロックの位置さえわかればあとは出口の扉までなんてことはない。
第三区画の扉は、第二区画の扉と同じく、3x3の出っ張りが付いたものだ。違いは、その前に立っても出っ張りが変化せず、そのまま変わらないことだ。
さて、11の次の素数は13だったな。出っ張りを押し込んで、平衡三進数で13のパターンをつくる。10秒待つと扉は音もなく開き始めた。この扉はこれだけでクリアだ。
最後のオレスビウスドローンが扉の手前で止まる。
「ねぇ、何で勝手なことしたのよ」
第四区画に入るに当たって色々とトゥダとやりとりした最後に、こんなことを言ってきた。
「手順書があるって判っていたなら、それに従えば良かったのに」
「あの手順書、最後まで読んでないだろ」
俺は説明した。サブ手順の実行を、現地メンバーのレビューで決めるタイプの手順書仕様が存在する事を。あまり使われることの無い仕様だ。この手順書に書かれるのは、現場の判断次第ではやらなくてもいい作業に過ぎない。
要するにミノス計画の地上から俺への支援だ。いいタイミングで目くらましを送ってくれた。ミノス計画は一応アルファダイバーの運用主体だから、CCにも相当数の人員を送り込んでいる。
「CCは絶対にレビューを通らないと思っていた筈だ。俺も絶対に許可は通して貰えないと思っていた」
「ちょっと、本当にあんた何をする気なの!!
自殺ミッションなんて絶対に許さないからね!」
「これより第四区画へ侵入する」
俺はトゥダの返事を聞かず扉を潜った。
平衡三進数について詳しく知りたい人は、Knuthの"The art of Computer Programming 1"に紹介されていますので読んでみて下さい。
(一般読者の方へ:平衡三進数は通常一生使いどころの無い知識です。読み飛ばして無視していただいて全く構いません。筆者は平衡三進数を実際に使った例を、旧ソ連の磁気コンピュータSETUN及び後継機SETUN-70の他に知りません)