2:イカルス
小惑星イカルスは直径1.27キロ、人類が発見した1566番目の小惑星である。スペクトル型はS、つまりただの岩に過ぎない。
この小惑星は19年おきに地球にかなり接近する。またこの小惑星は太陽にも相当近づく。水星軌道の内側まで潜り、イカルスの表面は灼熱の地獄となる。一方でこの小惑星の楕円軌道の一番外側、遠日点は火星軌道の外側まで到達する。
面白い小惑星だが実利には乏しい岩塊、それが2033年までのこの小惑星の評価だった。ここまで太陽に近づくと、水はとうの昔に全て蒸発してしまっているだろうし、有機物質も望めない。つまりそれは資源が無いと云うのとほぼ同じだ。
2033年6月、定期的な小惑星サーベイでイカルスに光度の著しい上昇が見られたことで、ラグランジュの光学プラットフォームがイカルスに向けられた。
口径70メートルの巨大な反射望遠鏡が捉えたのは、かつてのイカルスの姿とは似ても似つかない、銀色の球体だった。
早速探査機による接近観測が計画された。まだ世界恐慌の傷跡も生々しい時期だったが、アメリカと欧州によって探査機が2機、一機はすぐそばを高速で通り過ぎるフライバイミッション機、もう一機は小惑星にランデブーして着陸機を下ろすよう計画された。
フライバイ機は着陸探査機のための偵察の役割を持たされ、とにかく打ち上げは急がれた。機体は出来合いのわずか10キログラム、打ち上げられた時にはまだ探査任務向けのプログラムはほとんど完成していなかった。探査機向けのプログラムのアップロードが終わったのはフライバイのひと月前だった。
フライバイ探査機はイカルスからどんな電波の放射も観測しなかった。イカルスに最接近した探査機は2000枚の写真を撮影した。
写真には、イカルスの銀色の地上に穿たれた、直径22メートルの真円の穴が写っていた。この穴一つのほかには何一つ無かった。
これを受けて着陸機は、この穴に入ることが出来るよう大急ぎで改修された。
2035年、イカルスにランデブーした総重量10トンの探査機ナウクラテーは、穴へと着陸機を送り出す前に電波でのメッセージを送信した。2.4ギガヘルツのAM-PCM変調という、誰にでもわかる単純な方法で送られた素数列に、だがしかし応答はなし。
銀色の地表に降りたサブ着陸機は、その表面が分光観測どおりのアルミニウムであることを報告した。だが、更にサンプルを採取しようとした着陸機は、その直後に機能を停止した。
穴へと降りたメイン着陸機は、僚機よりずっと幸運だった。穴は110メートル降りた先で横に90度曲がっていた。但し穴の断面は正方形に変わっていた。
その横穴に侵入した着陸機は、更に穴が90度曲がっている事を発見した。
その着陸機で探査できたのはそこまでだった。穴の奥には電波が届かないからだ。
有線を使った無線中継機が大急ぎで開発されて、翌年イカルスへと送られた。
中継機は二つの機体と、それを結ぶ光ファイバで構成されていた。片方が穴の中に入り着陸機の後を追いかけて、着陸機からの電波を受け取って光信号に変える。
もう片方は穴の外で受け取った光信号を電波に変えて、小惑星のそばで待機する探査機ナウクラテーへ送信する。
そうして判ったのは、この小惑星の内部がおそらく複雑な迷宮になっているという事だった。
・
2033年というと、俺が始めて神経接続による身体感覚没入を体験した年だ。
首から下の身体を、仮想空間の肉体と入れ替える身体感覚没入の技術は、ゲームのために過去5年にわたって進歩したものだったが、日本ではとにかく経済恐慌が深刻に過ぎてその辺りはまったく出回っていなかった。だから初めて触れたときは、とにかくびっくりしたものだ。
その中核技術、人工頚椎は当初、正真正銘のバズワード、うその宣伝文句、思いつきだけの実体の無い言葉だった。それを冠した製品は、首の後ろに取り付けたセンサから頚椎を流れる電気信号を捕らえるという触れ込みだったが、実際のところ2020年代のそれは、頭に貼った電極で脳波を捕らえる代物とどっこいどっこいのガラクタでしかなかった。
だが、人工頚椎という言葉に啓示を受けた人たちがいた。彼らは本当に人工頚椎と呼べる代物を作り始めたのだ。先のバズワードの発明者は、一つだけ正しいことを言っていた。電気信号だけを捕らえれば良いのだ。
人間の神経は電気信号と化学反応のミックスだが、身体を動かすという事を考えれば、電気信号だけを見ればいいことがわかる。脳から爪先までの1メートル半を超える距離をほぼ瞬時に通信できるのは、電気信号しかないからだ。
首の後ろの頚椎の電磁気モデルと、MEMS磁気センサマトリックスのアウトプットを比較すると、頚椎内の電位変化が、狭い範囲で高速かつ立体でわかるようになる。
あとは身体の反応と照らし合わせることで、電位変化と身体の反応との関係を調べ上げ、そしてそれをゲーム内のアバターの身体にも反映させるのだ。この調べ上げにはディープラーニングによる機械学習を使うのが一般的だった。
現在使われている大抵のゲーム用人工頚椎は、みんな2030年代アタマに作られたオープンソース人工頚椎をベースにしている。学習にはだいたいひと月かかるのが普通だった。一週間で済むようになったのは最近のことだ。
人工頚椎はすぐに医療でも使われるようになった。肉体ハイバネーションは医療技術からのスピンオフだ。脳からの身体を動かす信号をキャンセルして、肉体を動かないようにする技術だ。
勿論これは危険な技術だ。だから大抵の人工頚椎には時限式のものと視線入力ベースの、二種類の安全装置が採用されている。
人工感覚はかなり初期から粗雑なものはあったが、人工肉体の完成度が上がるにつれて臨場感は増し、やがて本物の人体と大差ない感覚が得られるようになったとメーカーが主張するようになっていた。
実際にはまだちょっと遠い、最近までそのように考えていた。
人工頚椎はゲームに全く新しいジャンルを創造した。
2035年、俺たちは電子の戦場に電子の肉体を得ていた。首から下はシミュレーションで作られた仮想肉体だったが、しかし視聴覚は昔ながらのHMDだった。
視神経にじかに画像を送り込むには画像のデータレートが大き過ぎたし、視神経は脳内の奥深くで手が出せない。内耳に電気刺激を与えるって奴は既にあったが、地球の重力の感覚を打ち消せるものは今のところ無いから、無重量空間のシミュレーションにはまだ問題がある。だが空戦ならGの感覚はかなり良い感じになる。
喋るのにはマイクを使い音はヘッドフォンだし、とにかく首から上は時代遅れ感が凄かったが、ブレイクスルーがあるまではこのままだ。
電子の戦場でまとう屈強な肉体は、実際の貧弱な奴とは全く違っていた。
50ポンドの装備を難なく背負い、轟々と鳴り響く暴風雪の中を突っ切って進むのだ。暖かい装備と寒さの感覚、そしてみるまに熱くなる銃身。煉瓦を拾ってまるでテニスボールみたいに放り投げる。たしかに重い感覚が、実物どおりの重さの感覚がするのだが、ゲーム内の俺の腕は、それを軽々と扱う。
2035年の俺は、身体感覚没入に関わる仕事に就こうと心に決めていた。
俺が最初のバージョンのアルファダイバーのシミュレーションを試したのは、2037年の初めだったと思う。
フリーゲームとしてリリースされたそれは、ゲームとしては間違いなくクソゲーだった。何しろ操作性が最悪だったのだ。身体感覚没入しておいて操作性の悪いというのがまず有り得ない代物だった。ロボゲーのくせに爽快感も全く無いし、何よりめちゃくちゃ格好悪かった。
バトルフィールドは狭い迷宮で、無重量空間がシミュレートされていたが、実際に宇宙にいる訳じゃ無いから内耳は騙されない訳で、没入感はそこでかなり損なわれていた。
今になると判るが、当初のアルファダイバーの仕様はかなり贅沢だった。今のこの身体の三倍くらいのモータートルクがあったし、強力なスラスターも持っていた。身体も4トンくらいあったのではなかろうか。
ゲームとしてはすぐに埋もれてしまったそれに、俺は飛びついた。予感がしたのだ。もしイカルスの、エイリアンの迷宮に挑むならこういうロボットになる筈だと。
小惑星イカルスとエイリアンの存在は大ニュースだった。勿論今でも大ニュースだ。21世紀最大のニュースだろうし、もしかすると人類史上最大のニュースになるかも知れない。
小惑星を完全な球にしてしまうような自然現象は当たり前だが存在しない。それは誰かの手によるもので、そしてそれはエイリアンの手によるものである筈だった。
まだ証拠が探査機の写真しかなかった頃は、何らかの捏造だと信じている人も結構いたが、やがて有人探査計画が始まるとそんな声も小さくなっていった。
有人探査計画は国際協力で実現し、有人火星探査の為に開発されていた様々な技術がイカルス探査のために投入された。世界恐慌がなければ有人火星探査は既に行なわれていた筈だったのだ。
原子力エンジンを持つ有人深宇宙探査船ダイダロスは、高度550キロの軌道上で急ピッチで建造された。最初の遠征ミッションは2037年暮れに地球周回軌道を脱出し、8ヶ月かけてイカルスに到達した。
ミッションが急がれていたのは、2043年6月のイカルスと地球の最接近というデッドラインがあったからだ。
もしエイリアンと宇宙戦争をする羽目になるなら、できるだけ早いタイミングで防衛線を構築すべきだし、そのためには敵を知らなければいけない。
勿論、こんな極論は主流ではない。だが、各国の軍事関係者はリスクに備える事を強く主張した。そしてリスクを減らすためにイカルスに大胆にアプローチすべきだとしたのだ。
2043年6月のデッドラインは軍事関係者以外にも強く意識されていた。何しろ最接近距離が近すぎた。地球と月の距離の22倍、この距離はエイリアンが絡んでいるとすれば近すぎた。
だが、最初の遠征は残念な結果に終わった。イカルス到着後迷宮に侵入した二人の宇宙飛行士は、迷宮の奥に手持ちの装備では開けられない扉を見つけたのだ。そして彼らが踏破した迷宮は小惑星全体の1/7以下に過ぎなかった。
莫大な予算を投じた遠征隊が残念な結果に終わると、彼らは急いで地球に戻った。扉を突破するための新たな装備を受け取るためだ。
第二次遠征隊は2040年に地球をフライバイするダイダロスに第一次遠征隊に代わって乗り込み、補給物資を受領するとイカルスへと向かった。
小惑星の迷宮は、エイリアンが人類を認識しており、挑戦せよと指示しているものと解釈されるようになっていた。宇宙戦争や平和の使者といった解釈が消える代わりに、人類はどうやっても迷宮の一番奥に到達し、知的生命体であることを立証しなければいけないという意見が国際世論を構成するようになっていた。
どうしても最接近までに迷宮の奥へ到達しなければならない。再接近を逃せば、人類が再びイカルスに挑戦する機会は遠くなるし、何よりエイリアンがイカルスを選んで改造した理由を考えれば、最接近は何らかのデッドラインの可能性が高かった。
第二次遠征隊の新装備は、昔スペースシャトルが使われていた頃に開発されたMMUという装置に似ていた。船外宇宙服の背後に背負うガスジェット移動補助ユニットだ。
この新たな装備、イカルス探査補助ユニットはMMUの倍の大きさで、背後にもう一人張り付いて、更に二本生えたロボットアームを操作するものだった。一人がロボットアームの操作を担当し、もう一人がガスジェットを担当する。
これは見た目かなりイカした代物で、実際かなり格好良かった。
だが俺たち、ミノス計画は、それぐらいでは迷宮最奥へは到達できないと考えていた。