一元視点、視点のブレについての思考
視点について、ネット上を探すと一点にするのがルールという説と、プロもやってるからルールなんて守らなくていいという説があります。まあ、こんなエッセイを書いていますので、私も基本的前者を支持しますが、必ずそうしなければならないというよりも、そうしたほうがベターでと解釈しています。
記憶は定かでないですが・・・そもそも小説というか物語は、昔は神視点でした。一人称小説が登場して流行ります。読者の感情移入のしやすさでは神視点では勝てません。ただどうしても書く情報が限定されるため、自由度の高い三人称一元視点を用いるようになりました。
視点を絞る大きな理由は読者を主人公に感情移入させるためです。多元視点では、いくら上手に書いたとしても感情移入を妨げるリスクを負います。これはプロも同じです。しかし、プロの場合はそのリスクを最小限に抑える技術を持っているか、そのリスクを抱えても、多元視点で書いた方が作品の魅力が増すとか。なぜ作者は感情移入させようとするかといえば、読書を途中で放棄させないためであって、ネームバリューのあるプロであれば最後まで読んでもらえる可能性は高いので、多少冒険しても読んでもらえますし、そのこと自体が話題となります。その点、私たち素人の場合は、読者はいつでも投げ出せます。無料なので投げ出しても惜しげがないからです。もし投げ出されたら、別の作品を読んでくれる可能性はほぼ0%でないでしょうか。
夏目漱石のこころは小説全体としては多元視点です。前半は「私」視点で、後半の遺書は「先生」の視点です。しかし、この小説を多元視点だと意識する読者はいないでしょう。前半と後半という具合にしっかりパート分けしてありますし、前半で「私」の物語はすでに完結して、先生のパートで主人公はすでに先生に移管されています。
また、構成的に見て前半と後半の繋がりは、確かに主人公は私であり、主人公の経験をした中心に語られますが、先生に関連したことが比較的多いです。まあこれも当たり前で小説の冒頭で先生について書きますよと宣言してます。
「私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。」と前半の最後を締めくくっています。
視点移動の際、読者に通知することは大切なことです。また実際の状況を映像で考えると、この後半は私が汽車の中で遺書を読んでるシーンとなるでしょう。もし遺書が短いものであれば、視点人物は引き続き「私」になるでしょう。
結末として、先生が死んだか死んでいないかは書かれてなく、結末は読者に任されています。もし夏目漱石が素人であったとすれば、多分、視点人物を私に戻し死体の先生と対面するか、また自殺を思いとどまらせるかの続きを書くでしょう。
素人はいろいろ書きたいから、または視点人物を増やし文章量を水増ししたいからなどの理由が視点移動を行うのが本音じゃないでしょうか。多視点を使う場合は、書き始める前の構成と視点人物の関連性が重要になると思います。プロはちゃんと考えています。
ラノベについて言えば、そもそも読者は感情移入なんかしようとは思っていないのかもしれません。またそこまで深く読むということができないかもしれませんし、考えてもいないかもしれません。テレビを見るようにラノベを読んで、与えられた情報のみ処理しているように感じます。テレビのドラマやアニメへは一瞬で表現できる情報量が多いので、テンポよく進められます。しかし小説では雰囲気を出そうと風景描写をすればするほど、心情を表現するのに仕草や様子を書けば書くほど、文章は肥大化してテンポよくストーリーが進まなくなります。つまり、わざわざ心理描写をしたいがため視点変更する意味もないですが、そのデメリットも少ないということじゃないでしょうか。逆説的に言えば、視点人物を絞るメリットは、心情を深く掘り下げる場合にその神髄を発揮するといってもいいと思います。
次に視点のブレについて私の考えを書きます。視点はどこにあるかという議論です。視点人物というより語り手の視点と言ったほうが理解しやすいかもしれません。実際カメラがどこに置いてあるかについてです。多いのが主人公の後方にあるという意見です。多少の移動範囲を持ち、主人公の周りをぐるぐる回ると考えてください。もう一つは主人公の目とカメラは同じという考え方です。一人称と同じだという主張です。こちらの方が少数な気がします。
情報の範囲、心情の表現手段ですが、後方カメラ、眼カメラ、基本的にどちらも同じです。よく視点のブレだと指摘されるのは、視点人物以外の心情表現が行われている場合です。
たとえば太郎を主人公(視点人物)だとして
・花子は太郎を愛している。
と書いた場合、視点人物以外の書いてはいけないというルールからして明らかだと思います。
・花子は怒っている。
と書いた場合です。一見別にいいじゃん思うかもしれません。でも厳密に言えば、怒っているは心情描写なのでアウト。ではなぜいいじゃんと思えるのか。それは、花子が喋らなくても行動や様子で判断できるからです。では適切な表現にするには、
①太郎は花子が怒っているように見えた。
②怒りから花子は太郎を睨みつけていた。
③それ時から花子に声を掛けても返事をしてくれない。どうやら怒っているようだ。
④「お前って、○○な女だなあ」と言った瞬間、太郎は平手で殴られた。
「ほんと、デリカシーないんだから」
ああ、相当怒ってるなあっと太郎は思った。
色々書きましたが、基本的には客観情報から推理できる主観と思ってください。客観情報を載せることで、より読者も納得してくれると思います。
次は情報の範囲です。
・太郎は花子と初めて会った。彼女は大学生であった。
「初めまして、太郎と言います」
三人称ですからこれでいいんじゃね、と思えますが、初めて会話したのに大学生だと知らないはずです。初めて会話したことを示すのが会話文の初めましてです。ですから、
・太郎は花子と初めて会った。
「初めまして。太郎といいます」
「こちらこそ初めまして」
太郎と花子はしばらく会話した。花子は近くの大学に通う学生だった。
と、情報源を書けばOKです。また花子にしゃべらせてもいいです。
ちょっと話がずれますが、一人称の場合。
・僕は花子と初めて会った。後日知ったが、花子はこの近くの大学の寮に住む学生だった。
この場合、ストーリーの主人公と語り手の主人公の実在する時間が違うため必然的に情報量も違うことになります。ただ回想式の一人称であることが必要です。
また、眼カメラを意識した視点のブレについて。
主人公が太郎だとして
①太郎は真っ赤な顔をして怒った。
②花子にひっぱかれて頬に赤い手形がついた。
なお視点のブレとかいう前に、手垢のついた表現なのでダサいと思います。視点については、
・私は走った。
と言った場合、走っている姿は自分の目で見ることはきませんよね。でもこれはぜんぜんOKです。自分に意図的にできる行動描写ですから。そこで主人公が意図的に真っ赤な顔ができるかどうかです。できれば行動描写と考えられますが、まあ出来ませんよね。
では本題に入ります。厳密に言えば第三者でないと得られない情報ですからアウトと解釈します。それじゃあ主人公の容姿の描写ができないじゃないかとなります。これは、冒頭や章の初めで、視点人物がまだ特定されていないときの神視点化で説明できます。では特定できた後は容姿の描写ができないかと言われると、できないと断言できません。それは、読者が視点人物を明確に判断できるかできないかの問題です。
太郎が小説の主人公だとして
・太郎は授業中に机にうっぷして居眠りをしている。前の席の花子がそのことに気がつき、上半身を回し振り向いて太郎の筆箱を太郎のつむじの上に置いた。
「山田読んでみろ」
先生は次の朗読に太郎を指名した。太郎が頭を起こそうとした瞬間、筆箱は床に落下してけたたましい金属音を発した。驚いた太郎は勢いよく立ち上がり、あたりを見渡した。その姿はまるで危険を感じたプレーリードックのようだった。
花子がくすくすと笑っていることに気付く。おのれ、憶えとけよ。絶対仕返ししてやるぞ。
駄文で申し訳ありません。言いたかったことは、太郎が寝ているときの描写はできないのかとプレーリードックのようなという視覚的比喩が使えるのかどうかという問題。いろいろこじつけて解釈すれば、OKのような気もします。だめなら削除するか描写でなく説明にしてしまう手もあります。しかし修正したとして今より劣化したのでは意味がなくります。それに読者はそんな細かなことは意識しません。結局のところ読者がどう感じるか、また情報が適切量書きこまれているか重要です。
でも一つ言えることは、視点を絞るということを意識すれば、いろいろな文章を考えるので、より適切な表現を求めることになり、試行錯誤することで語彙が広がったり、自分の文章に対する感じ方を鍛えることができます。意識して書いた小説とそうしなかった小説を比べた場合、前者の方がより読者を引きこむことが可能だと思います。
重い足かせを設けることはすなわち、自分の文章に対する感覚を養います。また小説によってはどうしても書けない状況が出てくきます。そこはあきらめるしかないです。次頑張りましょう。
追記
一人称の場合を書いておきます。結論から言うと、視点は主人公の眼です。
これは情報の範囲もさることながら、カメラがどこを向いているかが重要です。向いているものが主人公の興味を引いているものという解釈です。とくに一人称リアルタイム式(1人称を上手に書くために。リアルタイム型、日記型理論を読んでみてください)では主語と述語を省略することが多いです。
例えば、
・空を見上げる。赤く染まっている。なんて綺麗なんだろう。飛行機雲が一直線に伸びている。
に主語と述語を付けるとすれば、
・私は空を見上げる。空は赤く染まっている。私は空を見てなんて綺麗なんだろうと思った。私は飛行機雲が一直線に伸びていることを確認した。
となります。これをシャッフルして、カメラの情報と心理描写をバラバラにします。
・私は飛行機雲が一直線に伸びていることを確認した。私は空を見てなんて綺麗なんだろうと思った。空は赤く染まっている。私は空を見上げる。
として、さらに主語と述語を外すと、
・飛行機雲が一直線に伸びている。なんて綺麗なんだろう。赤く染まっている。空を見上げた。
意味不明になりますよね。自由間接話法も前後の文章から、何についてそう感じたかを伝えなければいけません。一人称にも同じで、順番を狂わす(カメラがあっちこっち常に動いてる状態)と、上手く情報が伝えられなくなります。