1Q84(村上春樹)における自由間接話法を考える。
村上春樹の1Q84は自由間接話法の宝庫です。語り手の客観的情報に主人公の主観的心情を付け加え、さらに語り手の言葉で語ることが多いからです。
”ときどき間違えて「枝豆さん」と呼ぶ人もいた。『中略』
三十年間の人生でいったい何度、同じ台詞を聞かされたであろう。どれだけこの名前のことで、みんなにつまらない冗談を言われただろう。こんな姓に生まれていなかったら、私の人生は今と違うかたちをとっていたかもしれない。たとえ佐藤とか、鈴木だとか、そんなありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたかもしれない。あるいは。” 1Q84(4月-6月)村上春樹 新潮文庫16p引用
三人称の地の文では私という人称は普通使わない。『青豆』とか、彼女に置き換える。一見誤植じゃないかと思えるのだが、この段落が全部、自由直接話法であるとするなら説明がつく。
ここで直接話法と間接話法のおさらいをします。
彼は昨日「明日、妻と旅行に行く」と言った。(直接話法)
彼は今日、奥さんと旅行に出かけると、昨日言っていた。(間接話法)
直接話法は彼が言った言葉をそのまま引用する。
間接話法は発言者の立場に置き換える。昨日の明日は今日、妻は奥さん。
1Q84の引用をもう少し見てみましょう。
”同じ台詞を聞かされたであろう”と”冗談を言われただろう”
無論、語り手が聞かされたわけでも、言われたわけでもない。主語は私(青豆)である。
しかし、段落のはじめは語り手の客観(事実)とも取れる。そんなあいまいさが私をいう一人称を使っても違和感がない(少なくとも校正をパスする)のではと思える。
この段落の前の段落で自由間接話法が使われている。
”名前を名乗るのがいつもおっくうだった。自分の名前を口にするたびに、相手は不思議そうな目で、あるいは戸惑った目で彼女の顔を見た。青豆さん? そうです。青い豆と書いてアオマメです。『中略』
役所や病院の待合室で名前を呼ばれると、人々は頭を上げて彼女を見た。「青豆」なんて名前の付いた人間はいったいどんな顔をしているんだろうと。” 1Q84(4月-6月)村上春樹 新潮文庫16p引用
おっくうだった。=青豆の心情。
青豆さん? =相手の台詞
そうです。青い豆と書いてアオマメです。=青豆の台詞
「青豆」なんて名前の付いた人間はいったいどんな顔をしているんだろうと。=人々の心情と思いきや青豆の心情。”と”思ってるんだろうなあ。
ここで重要なのは、誰の心情、誰の台詞かを読者に分からせることです。基本的には自由間接話法の前にカメラを対象人物に向けることです。
”彼女の顔を見た。青豆さん?”
”彼女を見た。「青豆」なんて~”
彼女の顔を見ることができるのは彼女以外の第3者。
”おっくうだった。”これについては、いろいろと考えさせらる。三人称一元視点であるので、いきなり心情が出た場合、それはすべて(そのシーンの)主人公であると考えられる。また、段落前のカメラの対象を引き継ぐ場合もある。ただ、私としてはある程度リスクがあると思える。
全体で見ると、1Q84は一人称小説に近い三人称一元視点であると思います。そのため、三人称ではちょっと変かなと思える表現でも違和感を感じないかもしれません。
次もそのことについて考えてみたいと思います。