実際に三人称一元視点で心情を書くには
え~と、2017年3月の時点では、考えが変化しています。ですので、参考程度で。
実際に三人称一元視点で心理描写を書くにはどうすればよいか?
これは経験上の話をします。
1人称で書いた作品の私(一人称)を主人公の名前に変えればよい。(追記、本当はそうではない。)
例文
俺が会社を出たのは午後九時頃だったであろう。同僚の半分以上はもう退社していたが、その頃には仕事より世間話に花を咲かせている奴がほとんどだった。俺はそんな余裕はない。早く帰って体を休めたい気分だった。一段落つかせてさっさと会社を後にした。
例文
”高志”が会社を出たのは午後九時頃だったであろう。同僚の半分以上はもう退社していたが、その頃には仕事より世間話に花を咲かせている奴がほとんどだった。”高志”はそんな余裕はない。早く帰って体を休めたい気分だった。一段落つかせてさっさと会社を後にした。
強引ですが、これで三人称一元視点作品が出来上がります。しかし、細かな点でしっくりとこない個所があります。
>高志が会社を出たのは午後九時頃だったで”あろう”。
三人称の語り手は神であり、何でも知っているので推定はあまりふさわしくない。
--高志が会社を出はのは午後九時ごろだった。
断っておきますが、何でも知っている神だからどんなことでも書いてよいわけではありません。心理描写は主人公(主人公がいないシーンではその他キャラクター)のみで、主人公の知りえない情報は書かない。一元視点が故にです。
>”同僚”の半分以上
同僚は高志から見ればです。語り手の同僚ではありません。ですから厳密にいうと”高志の同僚”となります。ですが、この場面ではどちらでも意味は伝わります。だた気を付けてほしいのは、”高志の父”とか”高志の息子”という表現です。”父”や”息子”で意味は分かる場合もありますが、もし違和感を感じるようであれば、名前をふってしまう手もあります。
>早く帰って体を休めたい気分だった。
一人称における主人公(語り手)の心理描写が自動的に自由間接話法による心理描写に変換されます。
主語を付けた間接話法で書くと
--高志は早く帰って体を休めたい気分だった
となる。無論これでもよい。地の文の雰囲気や読者の感情移入の度合で使い分けるようにしてほしい。
しかし、この方法がすべてに応用できるわけではない。
例文
先週の日曜日はさ、久しぶりに部活がなかったんだよ。ホントは家でゴロゴロして漫画でも読んでいようと思ったんだけど、天気が良かったからな。外で昼寝しようかなって、大釜公園まで出掛けたんだよ。結構大きな公園だよな。家は公園の近くにあるんだよ。歩いて五分ぐらいだ。だから、服装はジャージ姿だったんだぜ。
一人称の僕や私がありません。ですので変換することは無理。
直すなら、ます主語を付けていかねばなりません。でもそんな面倒なことはしませんよね。
また例文は口語調で書いています。これも三人称一元視点では弊害になる場合があります。
主人公と語り手は別人なので、主人公の台詞の雰囲気と語り手の地の文の雰囲気はおのずと別物になります。
関連して日本語では主語と述語を省くことがよくあります。一人称の場合は主語と述語を省くことによって、説明臭さを抑え、より話し言葉で表現することによって、親しみを持たせ読者の感情移入を誘います。
しかし、三人称(一元視点、神視点)では主語と述語を省きすぎると、誰が誰だか何を言っているのか分からなくなります。これは、三人称の前提である、登場人物を公平に扱うことに由来します。(主人公を除く)
より読者を感情移入させるために、一人称の工程としては最初から僕、私の一人称を使わないように心がけるに対し、三人称一元視点は一応つけておいて、あとから意味が伝わる範囲で消していく方法をとったほうが、慣れないうちはよいでしょう。
ここまでの説明でなんとなくでも、三人称一元視点の書く方法が分かったっと思います。
2017/7/8追記
現在ではこのアプローチを全面的に否定しています。思考と銘打っていることもあり、考えが変わっていく過程も残したかったのであえて直しませんでしたが、アクセス解析で後の章に行くほど読んでもらえなく、そのため誤解を招く恐れが発生しましたので、追記します。(てか、今まで面倒だったいいわけです)
ます、一人称小説の人称の私を彼または名前に変えることで三人称一元視点が完成するということは間違いだと今では思っています。
>>俺が会社を出たのは午後九時頃だったであろう。同僚の半分以上はもう退社していたが、その頃には仕事より世間話に花を咲かせている奴がほとんどだった。俺はそんな余裕はない。早く帰って体を休めたい気分だった。一段落つかせてさっさと会社を後にした。
>>それでも会話の内容は気になった。”太平洋上に突如謎の都市出現”帰りの電車のシートに深々と座り、携帯電話でニュースをチェックする。”海底都市が浮 上したのか?””宇宙人の襲来の前線基地か?”ゴシップタイトルが並ぶ。写真も幾つか掲載されてはいるが、対象が小さいものや、ピントがぼけていたりと、おお、これぞと思えるものはない。記事を読んでも信ぴょう性に欠ける気がした。駅で乗り換えた最終バスは自宅マンション近くのバス停に着いた。 五分も歩けば俺の部屋に到着する。それでも、もう十時近くになっている。
続きの文章も含めて貼っておきます。あいやー。黒歴史ですなあ。
当時の私としては、主人公は現時点で電車に乗っています。一行目は回想です。だったであろうと曖昧にしたのはその理由です。
基本的に時間は過去→未来で流れます。逆はありません。三人称では遡ることも可能ですが、明確に読者に伝えなければなりません。
一人称でも同じですが、回想には2種類あると思います。
1,語り手の時間を現在として昔を語る、思い出のような書き方。
現在と比較しやすいが、どうしても説明口調になる。
2,過去へタイムスリップする。
表現方法は過去も現在も同じ。しかし、過去から見た現在は未来なので現在のことは書かない。一人称でもあれば、語彙や口調も変わる。
引用した一人称の例文は回想の1,に当たるのですが、視点者もまだよくわからない一行目からの回想を三人称にするのは無理がある。
もし三人称で書くのなら、主人公が会社で退社するところから書き、次のシーンとして電車の中でのシーンを書く。または、電車の中のシーンを書いて、改めて退社時の様子を主人公の記憶として説明する。
(例文を載せたいところだがまた今度)
基本的に三人称は客観情報から書き始める。風景描写であったり行動描写であったり、登場人物のようしであったり。これは、一元視点と言えども各章で視点者が変わることがあるためであろう。一人称では基本的に視点者の変更は起きない。各章の一行目に心情描写を行っても、それは主人公のものである。
情報の出し方(描写の順番)が一人称と三人称で違う。また客観情報の量も圧倒的に三人称が多いと思われる。風景描写(一般的にいう遠くの風景だけでなく、部屋の様子など)のほとんどない一人称も見受けられる。つまり一人称を強引に三人称に変換してもどうしても無理が生じると、今では考えています。