小説に自由間接話法があるのなら、自由直接話法があるのでは?
自由間接話法については、これまでの説明のとおりです。
自由直接話法というものはあるのだろうかと考えました。前にも日本語では自由直接話法と自由間接話法の区別がつかないと申しました。これに変わりはありません。思うのは、読者が「この心理描写は主人公の声だ」と認識するかどうかです。
私は大学の偉い先生でも著名な小説家でもないので、どのように研究されているか分かりません。自分の感じるままに判断をします。ですから皆さんが同じように感じられないこともあると思います。
これも1Q84からの引用です
”
「次の出口は?」(青豆)
「池尻ですが、そこに着くには日暮れまでかかるかもしれませんよ」(タクシーの運転手)
日暮れまで? 青豆は自分が日暮れまで、このタクシーの中に閉じ込められるところを想像した。ヤナーチェクの音楽はまだ続いている。弱音器つきの弦楽器が、気持ちの高まりを癒やすように、全面に出てくる。さっきのねじれの感覚は今ではもうずいぶん収まっていた。一体あれは何だったのだろう?
”
引用 村上春木著『1Q84』新潮文庫
手がかりとして考えてほしいのが、自分が読むのではなく、他人に読み聞かせる立場だと思ってください。もっと極端に、落語家だと思ってください。つまり、青豆の声ならば、青豆のキャラクターの喋り方で、タクシーの運転手なら何かしら引っかかるような喋り方で。
これを前提としたとき、”日暮れまで? ”これをどのように他人に読み聞かせるか? 皆さんも同じだと思いますが、青豆のキャラクターの喋り方で読み聞かせます。多少アドリブを入れて、青豆は自分が~までに、一拍おいたり、首を傾げてみたり。そんなふうに朗読するのではないかと思います。
”一体あれは何だったのだろう?”は?
こちらも”?”(クエスチョンマーク)が付いています。語り手は小説の中では神であり、すべての事柄を知っています。ですので語り手が疑問を持つことは基本的にありません。あるとすれば、文章の表現方法、または知っていてもあえて隠す場合。殆どの場合は主人公の心情の代弁。
”あれは”ねじれの感覚を指しています。これ、それ、あれ、これらは距離感を表します。青豆から見れば、過去のことであるので、距離感のある ”あれ” になろうかと思います。しかし語り手からすれば、語り手の立ち位置(座標)が定かではない(自由にどこへでも行ける)ため、距離感のある”あれ”ではなく、”それ” になると思います。
つまり、”一体あれは何だったのだろう?” は、”日暮れまで?” と同じ青豆の声です。
しかし、このセリフを青豆のキャラクターになりきって朗読するかといえば、皆さんもしないと思います。セリフが短く特徴がないので、語り手の口調で話したすぐ後でキャラクターの口調に変えるのは難しいはずです。
一方、”日暮れまで?” は、青豆とタクシー運転手のセリフが続いた後に出る直接的な心理描写なので、”青豆の声”に置き換えやすいと思います。
結論として、段落の始めの心理描写(話法)は、主人公の発した声と読者は認識しやすい。文末のそれは、主人公の言葉ではあるのだが、語り手の喋り方であると思える。
段落の始めを自由直接話法、文末を自由間接話法といえなくもないと私は考えます。ただ、ケースバイケースであり、途中で出るのは? とか一文の長さの違いとか、明確に分けることはほぼ不可能です。
セリフのあとの地の文は、全部が青豆の心情です。”弱音器つきの弦楽器が~全面に出てくる。” そんなことはないですよね。比喩ではあるけれど、カーステレオのボリュームが大きくなったわけじゃない。ねじれの感覚がおさまって、青豆に音楽を聞く余裕が生まれたということです。ここで凄いなと思えるのが、心理の変化がしっかり描写してあることです。
地の文は、青豆の心情に変化があったという事実です。事実だけ伝えるのであれば、”日暮れまで?”も”一体あれは何だったのだろう?”も不要です。
結局、自由間接話法は文章の装飾、または地の文の補完だと思います。
脱線します。(ネガティブなのでバック推奨)
しかしながら、ネットの三人称小説を読むと、心理描写が全て直接話法で表現されている作品が多い用に思えます。ジャンルにもよりますので、良い悪いは言いません。――や()を使った表現方法は読者にも分かりやすいはずです。
悪い点は、三人称小説でありながら、客観的に描写されていないことが多いです。
考え方、解釈、感じ方、思想まで、主人公=語り手です。こういう作品は、主人公の魅力を十分発揮できないと思います。多視点で書いている人もいますが、主人公=語り手なら、語り手=他のキャラクター=主人公になっています。
一元視点(一人称も含む)であっても、読者は主人公の視点ではありません。読者は主人公を眺める読者の視点です。できるだけ読者と主人公の距離を縮めようとするテクニックが一元視点であり、自由間接話法であったりするわけです。書き手が一元視点になってしまっては意味がありません。