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三人称一元視点の小説を書くには(現時点でのまとめ)

 ことに触れ一元視点をについて書いてきましたが、現時点での考えを整理したいと思います。


 視点には2つの意味があります。どこから見るのかとどこを見ているかです。つまりカメラと被写体です。


 どこから見ているのか(カメラの位置)についてですが、一元視点では基本的に主人公の目、又は主人公の後ろにいる黒子の目と言われます。これに主人公の心情がプラスされます。

 ここをおさえてもらいたいのは、カメラの位置を固定する(主人公の心情のみ)ことで、読者は主人公の体験を経験し、感情移入しやすくなるのです。逆に書きたいがために、主人公の思考以外の情報(たとえば、登場人物以外の心情や主人公の知りえない情報や現時点で主人公が思っていない過去の事柄)を書くと読者は冷静になり、感情移入しにくくなります。


 次に被写体ですが、文章として書いたものは主人公が現在見ているものとの認識でいいと思います。

「空はどこまでも青く清々しい」と書けば、主人公は外にいて空を眺め、気持ちは爽快であるということになります。しかし、必ずしも主人公の気持ちが爽快であるは限りません。そんな場合は、


「空はどこまでも青く清々しいが、主人公の気持ちは晴れない」


と逆接の接続詞を使います。

 ですが・・・・清々しいと感じたのは誰でしょう? 作者になってしまいます。作者視点でこういう書き方もあると思いますが、上に書いたように、主人公以外の心情を書いてしまうと、感情移入しにくくなります。そう感じませんか?(青い空を想像してテンションが上がったところを、主人公の気持ちに合わせ下げねばならない)こんな場合は、


「どこまでも青く清々しい空が続いているが、主人公の気持ちは晴れない」


と主語の前に持ってくると、情報の感じ方の度合いが薄まり、また客観情報になります。


 次は、主人公が空を見ていない場合どうするか?


「主人公は公園のベンチに座り、うなだれている。どこまでも青く清々しい空が続いているが、主人公の気持ちは晴れない」


 この状況では、主人公はうつむいているわけで、空を見ることはできない。これを視点のブレと解釈していいのか疑問ではあるが、


「主人公は公園のベンチに座り、うなだれていた。空を見上げる。どこまでも青く清々しいが続いているが、気持ちは晴れない」


とカメラの向きを変えることで、読者の想像する映像をスムーズに切り替えることができる。更に


「主人公は公園のベンチに座り、うなだれていた。昨日、友人の佐藤と些細なことで喧嘩をしたことが原因で、主人公の気持ちは晴れない。

 鳥のさえずりが聞こえた。空を見上げると、どこまでも清々しい空が続いている。こんな日に自転車でサイクリングに出かけたらさぞかし気持ちがいいだろう。

 主人公はスマホをポケットから取り出し、メールをうった。

『僕が悪かった。ごめんなさい。だから、海までサイクリングにいこうよ。』」


 と、主人公が認識した風景描写を、機転として使うことができます。


 基本的に一元視点は主人公の認識できる視覚情報ですが、小説を書く上で主人公の目に写るものだけではすべてを説明することができません。それは場所と主人公の容姿です。

 場所については、主人公が現在いる場所から数百メートル、数キロメートルであれば書くことができるかもしれませんが、それ以上、例えば町の全体の様子、山や川を上空から見た様子は書くことができません。

 容姿については、自分で自分の顔を見ることはできないということ、自分の背中は見ることはできないということです。

 まあ、実際は書いてあるのですが、違う法則、理屈が必要になります。

 一元視点は主人公の視点であるのですが、主人公の登場するまでの間は、誰が視点人物なのか読者には分かりません。ですので、それまでは神視点で書いて問題はありません。ただ、個人的にはカメラの場所があっちこっち行くよりスムーズに移動したほうがいいと思います。(例えば、建物があるとして、部屋の中の様子を書いて、部屋の外の様子を書いて、部屋の中の様子を書いて、また部屋の外の様子を書く、というようにカメラの設置されている場所、または被写体がコロコロ変わるようになことはしない)

 また人物が登場しても、その人物が主人公とは限りません。読者が主人公(視点人物)と認識するまでは主人公の容姿を書いても差し支えありません。ただ、身体検査のように上から下まで、上着からパンツまでこと細かく書くことは、個人的には好きではないです。ポイントを押さえ、より個性的で印象的に見せる方法が望ましいと思います。

 どうしても書ききれない情報は小説の途中で書くわけですが、その際は上の例のように、主語に含めることで、違和感が薄くなります。(ただし、スルーされる恐れもあります)


 小説が始まって、読者が視点人物を認識までには差があります。では、読者に視点人物がだれかと伝わる個所と言えばどこだろうということになりますが、

①人物が登場したところ

②視線の描写がされたところ

③細かく容姿が書かれたところ

④心理描写がされたところ

の順で、視点人物を特定する読者は増えます。②と③の順番はあいまいですが、②は「振り向くと~」、「見上げると~」など、③は詳しく書くことで、小説の重要人物であることが読者に伝わる。ということです。

 つまり、視点人物を特定させたくない場合は、上の書き方を極力避けるといいと思います。早い話が神視点で書く。


 視点のブレ、三人称多元視点、視点人物を章で切り替える、これらについて、主人公が一人の場合は感情移入の度合いについてはマイナスに作用します。そうでなければ、そもそもに絞る必要はなく、一元視点というものが存在しなかったでしょう。

 ただ、そういう小説が存在することは感情移入をは別の良さがあるので、今でも読まれているということです。ですので、書きたい、書けないという理由で多元視点や、視点人物の変更しても、一元視点で書いた小説より良い出来になるとは思えません。まずはしっかり一元視点で書いてみてください。


 一人称の私を彼女に変換した三人称(なんちゃって三人称)について

 確かに一人称も三人称一元視点も、主人公視点ですので、視点については問題ないかもしれません。

 しかし、見栄えよい一人称小説でも、描写がされていないことが多いです。説明になっていることが多いです。

 描写の定義になりますが、現時点で見えること、感じたこと、起こっていることを書く。それ以外は説明と解釈しています。

 

①砂浜から見える海は濃い青色だった。

②地球は丸く、海は青い。


 視点が絡んでいますが、①は見た風景描写、②はテレビなどでえた情報であり説明


 読者は小説の主人公になってストーリーを楽しみたいのですから、主人公がもっていない情報は本来不要であり、書くとかえって雰囲気を阻害してしまうことがあります。


①砂浜から見える海は濃い青色だった。一人ぼっちのこの浜辺も夏は大勢の海水浴客が来る。

②砂浜から見える海は濃い青色だった。夏は大勢の海水浴客でにぎわうこの浜辺も、今は一人ぼっちだ。


同じ情報であるが、①は説明、②は描写。


 一人称では主人公の心理描写ということで、えてして描写すべきところを説明で書いてしまう人が多い。そういう癖のついている人は、三人称で書くと、途端に文章が説明臭くなり拒絶反応が出る。


 もう一つの原因として、客観で書いていないことが多い。例えば


①僕は彼女が好きだ。長い黒髪、つぶらな瞳、くっくらとした頬、ボリューム感のある唇。なにより豊満なボディー。

②彼女は、ぽっちゃりとしたスタイルだった。ふっくらとした頬には笑うとエクボができる。お餅のように白く、瞳はくっきりと丸く可愛らしい。世間一般で言う美人とはかけ離れていたが、彼にとっては至高の美の象徴のような存在だった。一刻も忘れることができない。


①は主人公が初めに結論を言って、その理由を書き連ねている。この場合、後に続く理由の意味合いはどれも同じ強さになる。これはビジネス文章でみられる「結論から言いますと・・・」のように、伝えたいことを先に持ってくることで、簡潔な文章となり聞き手には分かりやすくなる。また結論に至る理由は、これもビジネス用語でいうとナンバリング。情報が整理され分かりやすい。しかし、理由がどうしても結論に引っ張られてしまう。前に書いた結論に相反する描写を書くことができない。

 

②は描写によっての情報提供がさきで、結論となる主人公の好き嫌いは最後まで読まなければわからない。つまり、結論が出るまで、読者は想像することが可能である。結論を知っている作者は、大げさに書くことはできるが、読者は中立な情報と受け取るし、「実は彼女はデブだった」と書いてしまったら、読者にうそをついてしまうことになり、客観描写とはならない。


 段落での進め方も違います。一人称の場合、概ね心情が起点となり、風景描写、行動描写につながっていきます。その点、三人称一元視点では、風景描写、行動描写などの客観情報をもとに、主人公の心情を導き出す。

 言い換えるなら、一人称は真実を描き、三人称は事実を描く。真実と事実についてですが、裁判のようなものです。検事の出す証拠が事実。犯人が被害者を殺した真実。でも誤判決も出てしまう。検察側の真実(殺したという真実)を立証するために不利な証拠を隠ぺいしてしまったこともある。これは弁護士側も同じ。刑を軽くする、無罪にするため、事件当時は冷静な判断ができる状態ではなかったと主張する。そもそも(小説家でない限り)他人の心や考えは正確には分からない。真実とは実のところ立場立場で複数存在し、どれが正しいのかわからない。


①彼女(主人公)は、公園のベンチに座って本を読んでいた。イケメンの彼が現れ、彼女の隣に座った。彼女は読書で気を取られ、彼に気づかなかった、彼は彼女にすり寄りそっと肩に手を回し、耳元で何かささやこうとした。

 彼女は驚き、彼の顔を見るや否や、

「変態、チカン!」

と叫びなが、振りかぶった右手で強烈なビンタを繰り出した。


②私は昨日チカンに遭遇した。ホント気持ち悪かった。公園で本を読んでいたら、隣に座った見知らぬ男性が突然、抱き着いてきたの。力いっぱいのビンタをお見舞いしてやったわ。そして一目散に逃げた。振り返るのも怖かった。

 でも、結構イケメンだったな。誰だったんだろう?


①は、中には最初、彼氏が現れたラブシーンと想像した人もいたかもしれません。最後まで読まなければ真実は分かりません。

 ただし、一元視点を厳密に定義するとしたならば、主人公は彼に気づいていないので、彼が肩に手をかけるまでの描写はできないはずです。(彼を主語にする文章は書けない)しかし小説ではどうか。読者に違和感を与えような書き方を心掛ける必要があります。(前にも書いたように現時点で心理描写をしないとか、段落を駆使するとか)

 そもそも視点のブレの違和感は人によってレベルが違います。読者全員を納得させることは無理。だからと言って作者のレベルに合わせたら、たぶん作者が一番気にしない読者レベルですから、かなりの読者が違和感を感じてしまいます。


②は、結論が先に来ていて、分かりやすいのですが、理由に読者が興味を示さないと思います。


 心情を重要視するほど、客観描写の重要度が低下し、客観描写を重要視するほど感情移入しにくくなります。つまり、一見口語調で上手く書かれた一人称小説ほど、人称を変えたなんちゃって三人称にした場合、違和感を感じるのです。一人称小説でも、主人公を客観的にとらえようとする作品もあり、そういう作品は違和感は強くないでが、主観と客観を完全に同じものにすることはできず、(一人称の主人公の思考が、一般常識と完全に一致するものであれば、小説としてそれは面白みに欠ける)主人公の思考であるはずのものが作者の思考に置き換えられてしまう恐れがあります。

 

 一人称で書いた作品を三人称にするアプローチとしては、ます、描写に重点を置いた神視点を目指して、それに、「主人公は○○と思った」等の直接話法を用いた方が、出来栄えも良く近道だと思います。味気のない平易な文章を書くことは小説家のプライド許さない人もいるでしょう。でも一番よく読まれている活字は、新聞などのニュースだと思います。新聞の文章が芸術的だと思う人はいないと思います。逆に巧みに艶やかな言葉で装飾しても中身が空っぽな小説であれば見向きもされないと思います。


 段落について、最近のラノベのせいか、段落という単位を使用せず、一文で改行する作品が増えています。私の三人称一元視点(自由間接話法)の書き方は、段落と密接に関係しています。もし、私の考えに賛同いただき、試してみようかなと思われる方は、段落という単位を積極的に採用してください。


 ちょっと長々と書きましたが、あくまでも現時点での私の考え方です。もっと本を読めば違ったバリエーションも出てくるかもしれません。

 

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