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太宰治『桜桃』についての思考

一人称と三人称を混ぜて書く人がいますが、それについて考えてみたいと思います。


太宰治の「桜桃」について、青空文庫でまず読んでみてください。


 これが、一人称小説なのか、三人称小説なのかどっちだと思いますか?

 正直、私もこっちだと断言はできません。言えることは、ストーリーについては三人称で書かれていて、太宰の「子供より親が大事」という主張は、語り手としての主観である。ということと、ストーリー上の父と語り手の太宰治は=(イコール)であるということ。です。ストーリーの三人称は、三人称一元視点ではなく、どちらかというと、神視点、多元視点に近いと思われます。神視点、多元視点と思われるのは、母の心理描写もされているからです。


>> 母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが)


 冷たい自信は母の心情描写。ただし、括弧書きから語り手の私の主観なのかもしれません。


 では、なぜ太宰はストーリーの場面を三人称で心情を語り手一人称で書いたのでしょか。

 調べてみると、執筆後自殺(無理心中?)しています。そう考えると、なんとも遺書のようにも思えます。太宰の子供さんには障害があったらしいのです。


”これにより、津島の兄=太宰の長男はダウン症で、知的障害、行動障害があったことが分かる。『桜桃』『ヴィヨンの妻』に登場する男児の記述は、太宰が生活を共にした、ダウン症の息子の発育状態を元にしたものであったと思われる。”

”WHOが「ダウン症候群」を正式な名称としたのが1965年で、それは『桜桃』発表から17年後である。”

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年10月号 

文学にみる障害者像 太宰治著『桜桃』より引用

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n339/n339016.html



冒頭

>>子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。

終わり

>>しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐はき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。


 冒頭は語り手の主観で書かれています。子供より親が大事という主張。ただし、”思いたい。”が客観的、または真実であるという主張をあいまいにしています。

 終わりは、逆で親より子供が大事との主張です。親が大事であれば、おいしいものは親が食べるがあたりまえで、おいしいと思うはずです。しかし不味い。虚勢のようには、誰に空威張りをしているのでしょうか。心の中とあるわけで、自分に言い聞かせているように感じます。

 これら踏まえると、一人称語り手は建前、うわべで、ストーリーの太宰の方がより本来の感情に近いものであると思えます。

 さらに、この作品を書いた作家の太宰という人物も考慮する必要があるのではと思います。単に自分の思いを伝えるだげであれば、こんな紛らわしい手法は使わないと思います。小説として形を成すためのテクニックとしてこのような書き方をしているのだと思います。


 一人称ルール、三人称ルールとしてびくびくして小説を書いている皆さん、ルールは嫌いといって無視して書いている皆さん。そうではないと思います。ルールではなくテクニックと思っていただきたいと思います。テクニックであれば更に磨くこともできます。単に表現できないから三人称で書く。一人称で書くという考えは捨てた方がいいと思います。もし、一人称と三人称を混在させることが文学だと思うのなら、ご自分の作品とこの『桜桃』と比べてみてください。同じレベルだと思うことができれば、あなたの作品は素晴らしい作品だと思います。


 自由間接話法の話題とそれてしまいました。

>>ああ、誰かひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。


 ああという感嘆詞は、本来語り手は使わない。なので主人公の独白(自由直接話法)と考えられるが、”父”が主人公を指している三人称であるため、この段落全体としてみた場合、自由間接話法ととらえることができる。またこれ以降、地の文は一人称になる。 


>>それは、嘘うそでなかった。しかし、家の中の憂鬱ゆううつから、のがれたい気もあったのである。

>>それも、私は知っていた。妹は重態なのだ。しかし、女房が見舞いに行けば、私は子供のお守りをしていなければならぬ。


 ”それは、嘘ではなかった。”の段落は一人称とも三人称ともとれる。だが、それは、それも、同じような表現なので、読者には同じ人物の発言と感じる。人称変更のクッションとして入れられたと思える。これ以降、父が私に、母が女房に代わっています。


 そして最後の段落で父に戻っている。

>>しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐はき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。

 

 三人称の表現は読者を冷静にさせる。一人称は感情移入させやすい。太宰は読者との距離を人称を変えることで読者との距離を調整しているのではないかと思えます。

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