自由間接話法についての思考
2017/7/8の時点の考えを反映させます。
まず、話法とは
”他人の言葉を伝える際の種々の様式のことである。直接話法、間接話法等の種類がある。但し口から発した発話だけでなく、心の中で思った思考内容も含まれる。”
話法『ウィキペディア』より
三人称一元視点は、三人称の神視点と違い、主人公の心理描写を書くことができる。他人とは主人公の事であり、心理描写が話法である。
2017/7/8追記
心理描写を特定の人物に絞る、情報を特定の人物が見えるものに絞るということは、その人物に読者を感情移入しやすくする方法です。
大雑把に言って感情移入のしやすさは、一人称リアルタイム型)>>一人称回想型>>三人称一元>>神視点
記載される情報の範囲は逆になります。
神視点において書くことはできないというのは、間違いで書いてもいいがたぶん破たんするということでしょう。
まず地の文の雰囲気ですが、神視点は固いです。イメージとしては新聞と近いと思ってください。新聞も客観情報を中心に書かれています。
固いイメージ=悪いと捉えがちですが、世界で読まれる活字の多くは新聞やインターネットのビジネス文章です。小説のような感情あふれる文章の方が少数です。
情報伝達の面では神視点の方が優れています。
客観とは何か、出来事をいろいろな立場の人から見ることによって多面的に捉えるとこであると思います。
小説に置き換えると、正義の味方の主張(思い)も悪役の主張(思い)も公平に取り扱う必要も出てくるので、読者はどっちの見方をすればいいのか迷ってしまいます。
また、神視点では未来のことも語り手は知っているので、小説の冒頭で結末を書くことも可能ですが、読者は興ざめです。
心情表現ですが、大まかに3つの方法があると思います。
①登場人物の様子や仕草を書いて、読者に今どのように思いか想像させる。
・(ハンサムな)男性に見つめられたA子は顔を赤くした。
顔を赤くして怒った書く人が多いですが、今回の場合は恥かしい、照れた、と受け止める読者が多いと思います。
・A氏に問題を指摘され、B君は頭を抱えた。
これは慣用句なので、実際にB君が頭を抱えたわけではなかもしれませんが・・・・。意味は「物事に思い悩み、途方に暮れるさまなどを意味する表現。苦慮する様子。」
なので、
・ぐぅとA君のおなかが鳴った。昨日から何も口にしていなかった。
②語り手の言葉で表現する。
・(ハンサム)男性に見つめられたA子は顔を赤くして恥かしがった。
・先生に問題を指摘されたB君は困り果てた。
・A君は空腹だった。昨日から何も口にしていない。
これらは、直接話法ではありません。登場人物の心を覗いた語り手の言葉です。何も食べていないA君が「今、空腹だ」と言わないでしょう。「腹減った」とつぶやくでしょう。
③話法を用いる
・(ハンサムな)男性に見つめられたA子は顔を赤くした。ああ恥かしい……(と思った)
・先生に問題を指摘されたB君は困り果てた。どうすれば問題を解決できるだろう(と思案した)
・腹減った・・・。A君は昨日から何も口にしていない。
・A君は昨日から何も口にしていない。空腹で目が回りそうだ。
ああ恥ずかしい、どうすれば問題を解決できるだろう、腹減った・・・、これらは、直接話法話法と思われる。空腹で目が回りそうた。は雰囲気的に語り手の言葉とも解釈できるから間接話法に思える。
ただ、自由間接話法と自由直接話法の境界線はあいまいでなので、十把一絡げで自由間接話法としています。
神視点の使用できる表現として
①の表現方法は神視点でも許されると思います。②もまあ、大丈夫かなあという表現。③これはちょっとだめじゃないかな。
文章の雰囲気は①<<②<<③の順番で一人称に近くなります。
長い小説の中で、②や③一か所あったからダメとは私は思いませんが、やはり地の文の雰囲気を壊すようではやめた方がいいと思います。
それとは別に、登場人物の心情という情報が必要かどうか吟味しなければなりません。その場に居合わせた単なる通行人の心情が必要かどうか。そういう意味で一律心理描写をしないのもありだと思いますし、無難だと思います。
神視点の語り手はすべてのことを知っています。しかし書いてしまうと読者は興ざめです。またその場にない情報を書こうとすると、すべて説明口調になってしまいます。説明口調の小説を読者は嫌がります。ですので、神視点での情報の出し方には注意が必要です。明確に開示できる情報の枠を定めたもの三人称一元視点と言えるでしょう。
追記終わり
手前みそでごめんなさい。
例文(御衣黄著『姉からの遺言』より)
部屋に中に入りドアを閉めた。閉め切られていたこの部屋だけは線香のにおいはしない。姉の付けていた香水がほのかに香る気がした。豊は姉を大人の女性と意識し出した頃からこの部屋の中に入ることはあまりなかった。
「部屋に~~においはしない。」までは客観的描写。
「姉の付けていた香水がほのかに香る気がした。」は、気がしたので心理描写。
しかし、三人称一元視点場合は例外を除いて語り手の心理描写は存在しない。気がしたのは主人公。
「豊は姉を大人の女性と意識し出した頃からこの部屋の中に入ることはあまりなかった。」の、
”姉を大人の女性と意識した”は心理描写である。
”香る気がした。””意識した。”は、ともに語り手の”表現方法”で主人公の心理を語っているため、間接話法となる。
では、直接話法とは何か
例
アキラは「直美はきれいだなあ」と言った。(台詞)
アキラは、直子最高! と思った。(心理描写)
主人公の言葉や思ったこと言葉(独白)を直接文章にすることを直接話法と言います。
ついでに間接話法の例文ももう一度書いておきます。
例
アキラは直子がこの世界で一番美しい女性だと思った。
次に自由間接話法について話します。
簡単に言えば上の三つの例文の主語と述語をとってしまえばいいのです。
例文
「直子は綺麗だなあ」(まあ、これは台詞と解釈しますが)
--直子最高!
--世界で一番美しい女性だ。
(--は、独白の意味を持たせるため便宜的に付けました)
これで自由間接話法は出来上がりです。
皆さんも無意識に使っていらっしゃると思います
ただ、疑問が残ります。
「自由間接話法があるなら、自由直接話法があるのでは?」という疑問です。
実際、外国語ではあります。私は外国語は分からないので説明は省きますが、日本語において自由間接話法と自由直接話法の区別がつきにくいのです。
なぜ日本の小説で、自由間接話法はあるけれど、自由直接話法は聞かないのかという理由は、三人称一元視点はあくまでも語りでの言葉で、主語のないがために、その言葉の通り思ったと証明できないからだと思います。
しいて言えば、例文の「直子は綺麗だなあ」という台詞は当てはまるかもしれません。ただし台詞を自由直接話法とは言いません。
例文は--を使うことで心理描写であることを示しましたが、実際の三人称一元視点ではそれを用いず書くことが多いです。(アクセントとして使う場合もあります)
私の作品の例文
「姉の付けていた香水がほのかに香る気がした。」
が、自由間接話法となります。
地の文で客観描写(風景描写、行動描写など)と心理描写(間接話法、直接話法、自由間接話法)をうまく組み合わせ、雰囲気を保ちながら地の文を書くことが、三人称一元視点の醍醐味ということになると思います。
2017/07/08追記
自由間接話法は基本的に語り手の言葉です。登場人物が発した言葉や考えた思いをそのまま引用した表現ではありません。ただ、小説が作り話である以上比較することは不可能で、その他の地の文と比較すると一人称の表現に近いこともあり、読者は主人公の発した言葉のように感じます。それによって感情移入しやすいくなります。
上の例文の直子最高!は、読者から見るとほぼ主人公が発したセリフのように思えるので、自由間接話法の地の文としては間違っています。ただ、自由直接話法であるので直せということではなく、長い小説のなかではこういう表現があってもいいのではないかと思うので残しました。しかし、自由直接話法の多用は文章が幼稚に見える(思考レベルが語り手の方が上とするならば、主人公レベルに落とされる)ので注意が必要です。