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鈴島蛍子

 人型気象観測機の試作機が完成した。


 しかし国立研究所の研究者に、鈴島蛍子という名前が残っているかもわからないが。


雨音が姿を消してから、どれくらいたっただろうか。3年か、私は年月の経過すら曖昧になるほどウェザーノイドという機械の作製に没頭していた。


 そのあい間に、たまたま訪れた夏祭り。ウェザーノイドの試作機である小型観測機を手に持って、私はただぼんやりと歩いた。


 神社の境内から見える、花火を見上げて、しかしそんな中まったく逆を見て背伸びしている少女がいた。


「私、あの島に行きたいな」と少女は私を振り向いて言った。


 夏祭りも終わりに近づいている。夜が遅いのに、少女の周りには誰も大人がいない。私は少女が指し示した方角に、どきりとした。思い出したのだ、あのときのことを。お堂の中で呟いた、あの子の言葉を。


―――私は、人ではなかった―――


 雨音が、あの日お堂の中で姿を消してしまった自分の娘が行きたいと言っていたあの島だった。私は雨音が消えてしまってから、何度もあの島を訪れた。


 島の名前は―――猫島。


 どういうわけか、野良猫が多く、しかも警戒心が薄い。瀬戸内海の島でもっとも晴れる日が多く、気象の関係からか、不思議とその島に雲が停滞し続けることはない。気象学的に言うと、目の通り道。台風の目や低気圧の渦、雲の切れ目がよく通過する場所、そこは晴れるケースが多くなる。


「あの島はね、猫島っていうの。知ってた?」

「ううん、知らない。ここにも、初めてきた場所だから」と少女は言う。

「お名前は?」

「アマネ。私、アマネって言うの」


 私は辺りを見回した。彼女の両親を探した。高台の、神社の境内には人がいない。花火を見ている人たちは、川沿いから夜空を見上げている。


「お母さんはね、いないの」と少女は呟いた。

「いない?」

「うん。私、呪われた子どもだから。私がいると、雨が降って全部流されちゃうんだ」


 彼女はピンク色の浴衣の帯を揺らめかせてぼんやりと微笑むだけで、ちっとも悲しそうな顔をしない。表情もなく、ただじっと花火を見つめる。


「捨てられちゃったの。だから、今は一人ぼっちなんだ」


 ぱん、と夜の空に奇麗な花が咲く。私はぐっとある衝動を堪えていた。

この子は、あのお堂の中で消えてしまったアマネなのかもしれない。それを確かめたいという衝動。


 アマネと名乗ったこの子は、本当に雨音なのか。あの子が生まれ変わって、本当に私の目の前に現れたのか。私はこの子の手を引いて、どこかに行ってしまいたかった。


 でも、もし違っていたら。

 それが怖くて、私はなんとか自分の気持ちを落ち着かせようと息を吐く。

 それに、アマネは―――本当にもう一度、私の娘に生まれたかったのだろうか。もし仮に生まれ変わっていたとしても、まったく違う母親のもとで別の人生を歩みたいのではないか。


そう思うほど、私はただこの子にアマネの影を見ているだけなのだと平静を取り戻すことができた。雨音と瓜二つの、小さな女の子。でもやはり、アマネとは違う。


 私は境内にぴょんと飛び乗って、欄干にぶら下がる少女を見つめていた。


「私、お母さんに会いたい」と少女は呟いた。「きっと、あの島にいるはずなんだ」

「どんな人?」


 私は思わず、訊ねた。

 少なくとも、このときの私は、この少女の母親を探すことを手伝ってあげようと思って訊ねたのではなかった。その少女の母親が、私であってほしい。私の名前を呼んでほしい、そう願ってしまうほど私は正気ではなかったのだ。


 少女は微笑みながら言う。

「蛇の目の傘が似合う人だよ」


 あの子に、歌ってあげた童謡。私はその言葉を聞いた瞬間、アマネの手を握ってしまっていた。しまった、と思った。早く離さないと、私はもう戻ることはできない。


 花火の音が、神社の境内にまで響き渡る。しかしその夜空に花を輝かせる美しさすら、私の気を取り戻すことはできなかった。


「おねえさん?」とアマネの声は、大きな花火の音にかき消された。

 私はアマネの手を引いて、「あの島に行きましょう。きっと、あなたのお母さんが、いるはずだから」と言った。


 神社の階段を、海岸に向かって降りる。猫島から、花火を見学にやってきた島民たちが乗る、最終フェリーが出るはずだった。私はアマネの手を、握りしめて階段を降りて。


 アマネは「連れて行ってくれるの? ありがとうっ!」と、満面の笑みを返してくれていた。


 フェリー乗り場は混雑していた。私は手を離さないようにアマネを近くに抱き寄せて、船着場からフェリーに乗り込んだ。




 猫島についてすぐに、私は鈴島研究所を始めた。

 私を研究者として雇用していた組織に無理を言って、猫島での研究開発を承諾してもらった。


 最初は農機具の修理などを請け負い、また機器の開発、ウェザーノイドの試作機を人型にする計画、とある会社から派遣研究員として高木くんが島にやってきて、私の助手となった。


 猫島の島民は私たちを快く受け入れてくれた。

 アマネも、よく村の外で遊んでいた。アマネは捨て子だ。しかしそれを誰かに言うことも、相談することもなかった。


 役場の方が小学生に上がる歳が近づいたアマネの様子をときどき見に来た。だが私が心配だったのは、アマネの戸籍や小学校に行けるかどうかではなくて、雨女としてのアマネがいつこの島に雨を降らせるのかということだった。


 あのお堂で消えてしまったアマネを連れていたときには、長く同じ場所に居られることなんてできなかった。すぐに大雨が降り、水害となってその場所を全部流してしまうからだ。


 でも猫島でのアマネは怖いくらいに落ち着いていた。

 まるで、自分の力を無理やり抑え込んでいるようにさえみえた。


「雨、降らないね」とアマネは嬉しそうに毎日、外に出かけていた。


 傘も合羽も必要ない。晴れ空の下にいることが、きっと嬉しかったのだろう。

「ずっと、この島にいていいのよ」と私はアマネの髪の毛をなでた。少し、髪が伸びたかもしれない、そんな変化にすら気がつかないくらいに私はウェザーノイドの研究に没頭していた。


 私は鈴島研究所の一室にこもって、最終テストに臨んでいた。

畳が敷かれた、和室には巨大な機械がいくつも並べられている。いつみても異様だ。


 試作機だった、観測機は人型になって私は彼女の名前を〈ヒマワリ〉と名づけた。

 人工知能のシミュレーション中に、襖がすっと開かれた。

 アマネが立って、私を見つめていた。私は自分の娘の表情を読み取ることができなかった。モニター越しに立つアマネよりも、画面に打ち出される数値を見ていたからだ。


「どうしたの?」

「髪、切って」


 アマネは抑揚のない声で言った。

「髪を切るの? そんなに奇麗な髪なのに」


 私はアマネの髪の毛を気に入っていた。水色で、透きとおるような髪の毛は長くなるほど太陽の光を反射して美しく輝いてみえた。


「髪、切ってよ」

 アマネは私に、子ども用の小さなハサミを差し出した。『あまね』とラベルがされた、アマネ専用のハサミ。どこで買ったのかも忘れてしまったけど、アマネはそれを毎日大事に持って、よく一人で工作していた。


「アマネ、髪はちゃんと切ってあげるから、あとにしてちょうだい。もうすぐあなたのお友だちができるんだから」


 私はオレンジ色に輝く、卵型の機体を覗き込んで、モニターの数値と見比べる。高木くんは今、シミュレーター内でヒマワリと会話するために自社の研究室で親機にアクセスを試みている。メールを受信、高木君からの報告内容をざっと読みすすめる。


「わかったら、お外に出ていてくれる? 次はいつ晴れるかわからないんだから」


 私はため息を吐いて言う。

 この子はきっといつか、またたくさんの雨を降らせてしまう。そのために私は、ウェザーノイドを作る。アマネの最初の友だちになるように。そして、アマネが雨を降らせてしまう原因とその予測を可能とするために。


 それが今、私にできること。そして私にしかできないこと。


 しかし私は。


「どうして、髪を切ってくれないの?」と呟くその声が、震えていることも涙がぽろぽろとこぼれていることも気づいてあげられなかった。


 そしてアマネが、どうして無表情でいるのかということにも。アマネが雨を降らせるとき、それは感情が激しく揺れ動いたときだ。


 それにともなって髪が伸び、大雨が降る。

 けれど、それに気がついたのはずっとあとのことで、アマネが自分の気持ちを抑えつけて無表情に、何の感情も面に表さなくなったことにこのときは気がついていなかった。


―――すぐに、雨が降ってしまった。


 ざああ、と屋根を激しく雨が打つまで、私はウェザーノイド〈ヒマワリ〉の指がかすかに動いたことにひととき達成感に包まれていた。


 そのときにはすでに遅かった。研究所をかまえる民家はいたるところで雨漏りがしていて、私は動悸がして床に膝をつけた。


 あのときと、似ている。そう思った。アマネがお堂でいなくなった、あの日の雨。怖くなって、胸が痛くなった。私は何度もアマネの名前を呼んだ。


 けれど、部屋に響き渡るのは自分の声と雨の音だけ。人の気配などどこにもなかった。


 私は玄関へ走った。浅くなる呼吸に必死に耐えて、痛む胸を押さえながら合羽を取って外に出る。


 雨は、激しく猫島に降っていた。突然の大雨に、島の人たちは農具や自転車、荷物も何もかも捨てて雨を凌げる軒先へと走っていた。


 毎日、見ていた島の景色から人がいなくなる。そんな中、川縁に立つ少女がいた。


 水色の髪を、雨に美しく靡かせて。その子は立っていた。

「アマネっ!」、早くこっちに。私は早まる呼吸に、言葉が続かず何度も自分の娘の名前だけを呼んだ。それでもアマネはただ、じっと雨雲を見つめたままで。


 長くなった髪の毛を、指先でそっと触れた。雨が降るほどに、その髪は光輝いていた。


 私は、足首まで伸びたその髪を見てぼんやりと、どうしてあんなに伸びた髪を切ってあげなかったのだろうと後悔していた。


 アマネはじっと、雨雲を睨みつけて、手に持った子ども用のハサミで自分の髪の毛を切り落とそうと、すっと刃を開いた。


 しかし、その刃がアマネの美しい髪を両断することはなかった。

 アマネは川縁から、ゆっくりと畦道へと歩きだす。そのとき、木々がへし折れる音とともにゴッという不気味な地響きが鳴った。


 雨で増水した川が氾濫して、鉄砲水となってその畦道ごとすべてを飲み込んでしまった。

 

 私はアマネの横から、濁った大量の水が現れたのを見た。そしてその水が海岸の堤防辺りまでうねりながら流れて、アマネが立っていたはずの畦道にはもう、何も残ってはいなかった。


 道も、道に生えていた雑草も。田の苗も、去年の案山子も、アマネの姿も。

 



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