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おつかい

 そこまで言い終えると、再びマザーは激しい咳をはじめました。私はその背中をさすります。もう薬もなくなっているし、私はうろたえました。


「少し、休んでもいいかしら」とマザーは言います。


 高木さんも、襖に背中を預けながら頷いて、私もこくりと頭を縦に振る。


「いい子ね」とマザーは呟きました。

「ちょうど、そのあとだったかしら。あなたの試作機をつくったのは。いつか、どこかで出会う雨音のそばにいてほしかったから」


 マザーはそっと呟きました。

 私が作られた理由。天気を予測し、異常気象の調査に努めること。けれど、ごめんなさい。私はアマネさんの雲を予測できないでいます。


 きっと感情の昂ぶり。それが雲となって雨を降らせる。私にはそれがわかっていても、やはり予測は難しいのです。


「私はアマネさんのために作られたのですか」

 私はマザーに訊ねました。


 すると、マザーは身体を布団に横たえながら苦しそうに咳を吐き出して、「そう。雨音の、雨を降らせる力を解明するのが私の夢だったの」と言いました。

そして手に持っていたマイクロチップを私に手渡しました。小さな、チップ。でもこれは、なに?


「試作機だった頃の、あなたの記憶。あの子を、見たのよね?」


 私は頷きました。


 マザーは自分の両手で何かを優しく握っています。そこには、アマネさんの髪を切ったあのハサミ。ラベルのある小さなハサミがありました。ずっと、寝ている間も握っていたのでしょうか。


「アマネさんは、すぐ近くにいます」

「そう。よかった」、マザーは微笑みました。


 私は受け取ったマイクロチップを喉許に押し込みました。


 中には試作機だったころのデータと役場からマザーが取り寄せた、10年前の水害について。


 データは膨大で、すべての情報を取り込むまではかなり時間がかかりそうです。


 それほど、たくさんの記憶。試作機だったころの私が持つ、私の知らない私。

「もう、あんまりしゃべらないほうがいいですよ」と高木さんがため息を吐きました。


 それもそうです、マザーが風邪を引いている間、研究所の研究はストップしてしまう。それが高木さんにとって、口惜しいことなのでしょう。でも私は動いています。


 すっ、とマザーは目を瞑りました。

「お薬を、取ってきます」、私はエナメルのバッグを手に持ちました。


 その中にはいつものように、バッテリーと、それから処方箋。ちゃんと留め金をして、私は立ち上がりました。


 縁側に座って、置石に足を延ばします。

 赤い、革の靴を履いて。ゆるくカーブのかかった金髪をなでつけながら私は歩きだしました。


 アマネさんは、幼いころに消えてしまったマザーの子どもの生まれ変わり。

私は自分自身に起こっていたもやっとした不安を消しました。


 マザーが語った雨音さんは、やはりアマネさんなのです。二人は一緒に暮らすべきなのです、こんなに近くにいるのですから。


 私は薬局へと向かいます。

 空は伸びやかに晴れていて、昨日あんなに雨が降ったのが嘘のようでした。まずはお薬を飲んで、マザーを治して。それからマザーをアマネさんのところに連れていきましょう。


 入道雲がもこもこと毛皮のように膨らんで、南の空を覆っていました。

 空は青くて。手を延ばせばどこまでも吸い込んでくれそう。私は両腕を目一杯、空に向かって突き出しながら歩きました。


 畦道は昨日の大雨でつぶれてしまっていて、渡ることができませんでした。少し遠回りになりますが、坂を登ってぐるりと市道から山道に入って薬局がある四つ角に入ります。


 そのとき、誰かが私の肩をぽん、と叩きました。


 振り返ると、秋穂さんがしゅたっと手を上げて「よっ」とずれた眼鏡のまま言いました。私は挨拶を返すことができませんでした。


 彼女がひどく怒っているのではないか、と怯えていたのです。


「なんだあ、つれないなあ。ぼくが挨拶してんのにさ」、秋穂さんは口を尖らせてちぇー、と呟きました。


「あの……怒っていらっしゃるのでは」


 でも秋穂さんの顔はどこか晴れやかで。まるで雲ひとつない空みたい。

「あっはっは、そうか。そんなこと気にしてたんだ。天気予報なんて外れることもあるって。それにさあ、夕方からちゃんと降ったじゃん。降りすぎだったけど」


 秋穂さんは白衣の袖をたくし上げて、排水溝を指差します。

 大雨のせいで庭木の葉っぱが落ちて、排水溝が詰まっています。


 どうやら秋穂さんはそれを取り除く仕事をしていたようです。白衣は泥だらけ、白衣のポケットには軍手がぎゅうぎゅうにねじ込まれています。


「あの……それで、試合は」


 私は秋穂さんが言っていた野球部の人のことが気になっていました。肩を痛めていても、じっと耐えて9人しかいない部員のために頑張っていた人。

怪我を隠してまで、マウンドに立っていたという秋穂さんが言っていた、あの人。


「ああ、ダメだったよ。高木さんだっけ? あの人に言ったのになあ、聞かなかった?」

「でも……」


「よかったんだよ、あれで。そりゃあ、昨日雨降って試合が延期になったらちょっとはあいつも休めただろうけどさ。でもそれはさ、痛みに耐える時間が増えるだけ。苦しいときが長くなるだけだったんだ。それにちょっとだけ治ったからってまた痛めて、そのうちもっとひどくなったかもしれない。だから……よかったんだ、これでさ」


 秋穂さんは朗らかに笑いました。四つ角のブロック塀から「おーい」と声がしました。若い、男の人の声。私はその声の主がすぐにわかりました。


「ちょっと待っててっ! すぐ手伝いに行くから」、秋穂さんはブロック塀の向こう側に声をかけました。


「いいのですか?」

 私は彼女の仕事を邪魔していたみたいです。


 でも秋穂さんは私の手を引いて、「でも薬、取りに来たんでしょ?」と言いました。


「……あのときはホントありがとねん」と彼女は照れたような笑みを零しながら呟きました。私はどうして感謝されたのか、わからず首を傾げます。


「いえね、あのとき弱音吐いとかなきゃさあ、あいつが肩を痛めたとき私はもっとショック受けてたかもしんないと思いまして」


 頬を掻きながら、彼女は言います。

 本当に、この人は私が天気予報を外したことを恨んでいないのだ、と思いました。


 強い人、というのは弱音を吐かない人のことだと高木さんがおっしゃっていましたが、もしかしたら違うかもしれません。私は空を仰ぎ見た。秋穂さんに、伝えなくちゃいけないことがあったから。


「私、あの日は嘘をついたのです」

 もしこのことを、秋穂さんに隠しつづけると私はきっとずっと後悔する。そう思って私は言いました。でも秋穂さんは目を瞬いて、


「へえ、機械も嘘つけるんだあ」ともの珍しいそうに呟きました。

「それだけ、ですか?」

「え? うん。いや、すごいことだよ、機械が嘘をつけるって。感情があるってことだもん」と彼女はずれた眼鏡のままで言いました。


 私は期待していた言葉とはまったく違う反応を受けて、とまどってしまいました。


 薬局の玄関口、カララと引き戸を開いて秋穂さんは廊下に向かって「おねえちゃーん、お客さーん」と叫びました。


 それから「いやなもんでしょ、嘘をつくってさ」と私を振り返って悪戯っぽく微笑みました。廊下は静まりかえっていて、誰の返事もかえってこない。きょろきょろと、秋穂さんは辺りを見回して首を傾げます。


 私はその背中に、はい、と答えました。でもおかげであのときの気持ちがすっかり晴れて、私はすっと胸が軽くなりました。


「誰もいないのかなあ。まあいいや、上がって上がって」と私を手招きします。

 赤い革靴を脱いで。私は上がり框から廊下の板を足でぎゅっと踏みました。初めて、人の家に上がる感覚は心地よくて、研究所の縁側よりもひんやりと冷たい。


「お姉ちゃん、いないみたい。しゃあねえ、いっちょ処方箋見せてみな」

 私は三つ折にした紙を秋穂さんに差し出しました。


 しかし秋穂さん自身に、薬学の知識はないようで、うーんと首を傾げています。どうやらわからないみたい。


「私も、そのお薬探しましょうか?」

 ぱっと、秋穂さんの顔が明るくなりました。

「ほんと? じゃあお願い。私、横文字読むの苦手だしさ、たぶん瓶に入ってると思うんだけど」と私は手を引かれます。


 廊下から奥座敷に入って、渡り廊下から離れのある庭に。その小さな建物に案内されました。洋風の、花壇があるぽかぽかとした建物。


 ドアノブに手をかけて、秋穂さんは扉を開きました。

 そこには棚がずらりと並んでいて、漢方や粉薬、市販の薬剤などが並んでいて、私はなぜかその匂いに懐かしさを感じました。私の部品を消毒するときの、匂いと似ている。


 秋穂さんのお姉さんの趣味なのか、水耕用のトレーが何枚も床に敷き詰めてあって、お部屋は植物でいっぱいでした。それに水槽や虫籠もあります。


「どしたの?」

 秋穂さんがぼうっとする私の顔を覗きこみました。


「いえ、薬品の匂いが好きなのです」

「やっぱ変わってるねえ。まあ、機械だし当たり前なのかな」


 私は棚に並ぶラベルの映像を記録して処方箋に書かれた薬品を検索します。10秒ほどで作業が終わり、出口正面に設置されている鉄製棚の五段目を指差しました。


「あそこにありました」

「え、もう見つけちゃったの? そこら辺はやっぱメカだねえ」と秋穂さんはよくわからない感心の仕方をして、腕を組んで何度も頷きました。


「でも、少し棚が高いですね。私も届きそうにないです」

「腕が伸びる機能はなし、か。ちょっと待ってて」、秋穂さんは離れの出口から庭に飛び出ました。私は電球にぽつんと照らされて、一人ぼっちになってしまいました。なんとなく、手元にあった小瓶を取って匂いを嗅ぎます。


 人が摂取すると大変危ない薬品だそうですが、私はやはり機械であるせいか、身体にはなんの異常も起きません。


 人間のように振舞ってみても、私は機械。それは少し悲しくもあります。


 ばたん、とドアの辺りで大きな音が聞こえました。秋穂さんが脚立をドアに引っかけて倒したみたいです。私はそばに駆け寄って、

「大丈夫ですか」と声をかけます。


「いてて。重いわっ、脚立のくせにいっ!」と秋穂さんはずれた眼鏡をぷんぷんと逆立ててよくわからない理由で怒っています。私は倒れた脚立を持ち上げて、正面の棚の手前に立てました。カンカンと靴底が脚立の段を踏んで小気味良い音を鳴らす。私は処方箋に書かれた薬を手に取って、秋穂さんに手渡しました。


「間違いないでしょうか」

「ああ、うん。大丈夫みたい。これ、内緒だからね。お姉ちゃんに怒られちゃうから」


 私は頷きました。そして秋穂さんはオブラート紙に薬を包んで、薬袋に入れてくれました。袋を受け取って、私は深く頭を下げます。そのとき、玄関先から声がしました。


 女の人の、小さな声。あ、と秋穂さんは顔を上げて、私の手を引きます。

「よかった、帰ってきたみたい」


 渡り廊下には日の光がたくさん降り注いでいて、秋穂さんはくるくると回転しながら楽しそうに走っています。私はそのまねをして転んで、立ち上がってまたダンスを踊りました。「なにやってるのよー」とばさばさと黒髪を整えそこねた秋穂さんのお姉さんは頬を膨らまして、座敷に仁王立ちしていました。


 あまりに迫力のない仁王様に私はつい笑んでしまいました。


「これ、見てくれない? これで合ってるかな?」

「あー、薬品室には、入っちゃ、だめだって、言ってるで、しょう」とお姉さんは呼吸が浅いのか、何度も言葉を区切りながら話します。


「あー、ごめんごめん」と秋穂さんは私に視線を送りました。

だから私は手に持った薬袋をお姉さんに手渡します。その袋をがさがさと開けて、処方箋と見比べて、「うん、大丈夫」と頷きました。


「ほらー、これで私もお薬出せるね」

 秋穂さんは鼻を天井に向けて胸を張ります。


「どうせヒマワリちゃんに探してもらったんでしょう」

「あら、ばれてら」


 秋穂さんが肩を竦ませて笑うと、お姉さんは口を尖らせて薬と処方箋を袋に入れて手渡してくれました。


「この子、またあの部屋に入ろうとしたら注意してね?」と私の手をぎゅっと握りました。小さく頷きます。あの場所は、何か特別な人物でなければ入ってはいけないところみたいです。 


 たしかにあれだけたくさんの薬品があるところに知識のない人が出入りするのはいいことではないかもしれません。


 私は二人にお礼を言って、廊下に出ました。

 バッテリーがもうすぐ切れそう。ここで替えのバッテリーで充電してもいいのですが、せっかくですからこのまま帰ったほうがよさそうです。


「じゃあ、また来てねー」とお姉さんは言いました。秋穂さんは「いけない、仕事の途中だったんだ」と急いで靴を履いて、私よりも先に外に飛び出していきました。私は秋穂さんを追うべきか迷いましたが、お姉さんが

「いいのよ。ゆっくり帰りなさい」と言いました。


 私は上がり框に座って、靴を履いて秋穂さんが開けっ放しにした玄関を出ました。


 お姉さんはぼさぼさの黒髪を揺すりながら手を振っています。私も手を振り返しました。


 片手に薬の袋を持って。もう片方にエナメルのバッグ。


 私は晴れた空を見上げて、薄目で太陽を見ます。暑い夏、今日はいつもより気温が上がって、稲の苗も湯立っていそう。


 また坂を下って、市道をぐるりと回ります。ちょうど島を半周する距離。島の南海岸沿いに研究所があって、ちょうど坂から見下ろすことができます。


 真っ白な建物の壁は日光を反射してときどき奇麗に輝いて、黄色の点々に見えるのは向日葵が咲く小さな花壇。


 私は人の仕草をやってみたくて、額を拭ってみました。汗は出ていませんが、なんとなくそれだけで人間になれたような気がします。


 坂を下りて、平坦な道。ガードレールの向こう側の歩道で、子どもが水着姿で海へと駆け出しています。浮き輪やビーチボールを持って。サンサンとサンダルがアスファルトをこする音が心地いい。


「おーい、ロボットの人―っ」と少年が手を振ります。リコと一緒に海に出かけた子たち。


「リコから手紙来たぞ、駄菓子屋のばあちゃんがあとで寄りなってさあーっ!」

「了解いたしましたー」、私は手を振ってみせました。リコちゃんは元気にしているのでしょうか。少し気がかりでしたが、もう駄菓子屋はとおりすぎてしまいました。


 だから、明日また調査に出かけるときに寄ろう。そう決めて、私は研究所の敷石を踏みました。岩垣は日ざしを浴びてキラキラと輝いています。


 それから、海の匂い。やけた砂の匂い。黄色の花びらが風に吹かれて、鼻にくっつきました。庭の雑草たちも、昨日よりも少し高くなっているような気がします。


「ただいま、帰りました」


 私は玄関の戸を開きました。ごほごほ、と咳をする音。

 縁側に回って、私は置石に靴を脱ぎ捨てて座敷に上がりました。マザーが日ざしに背中を向けて、暗い部屋の陰で咳をしています。高木さんが襖に座って、それをぼんやりと眺めています。


「お薬を、持ってきました」


 私は太陽できらきらと光るエナメルのバッグから薬の袋を取り出しました。縁側から台所へと駆けて、私は漆塗りのお盆に水の入ったグラスと薬を置いて、マザーのいる座敷へと行きました。


 マザーは布団を重たそうにして、横になっていました。私が薬を乗せたお盆を差し出すと。そっと私の手を握りました。


「ありがとう」

 そう言って、マザーは粉薬をぐっと飲み下して眠りました。私はほっと息をつきました。


 きっとこれで、マザーの病気も治って一緒にアマネさんのところに行ける。そう思ったからです。


 アマネさん、もうすぐマザーを連れて行きますから。私は小高い丘の、あの石段のある方角を見つめて呟きました。



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