追憶
鈴島蛍子は5歳くらいの子どもの手を引いて、大雨の中で電車を待っていた。
傘を畳んで、プラットフォームの蛍光灯に照らされる。時折、明滅する照明には虫が這って、パチパチと音が鳴っていた。
蛍子は雨音の身体を引き寄せた。
「また、大雨になったね。みんな、困ってた」
雨音は呟く。それを聞いて、蛍子はその小さな身体を抱きしめて「あなたのせいじゃないわ」と耳許で囁いた。
「雨の唄って、どんなんだっけ」と雨音が言う。
「アメ、アメ、降れ、降れかあさんがー、ってやつ?」、蛍子は童謡の出だしを歌ってみせる。
「そう。蛇の目でお迎え、うれしいなー。はいっ」
雨音はその先を、蛍子に促す。
「ピッチピッチちゃっぷちゃっぷランランラン」、二人で合唱、終わるとなんだかおかしくて二人はふふ、と微笑んだ。
もう、何度目だろうか。
この子と行く先々で大雨が降って、長期滞在するほど雨の期間は長くなり、やがてその町、村全体が水浸しになる。
水害が起きて、村そのものが下流まで流されてしまったこともあった。
偶然、と片づけるにはあまりに異常だった。数十年に一度、と言われる大雨が各所で起こり、そこには必ず雨音がいる。
蛍子はそれが雨音のせいだと信じたことは一度もなかった。
むしろ自分の娘がそのような迷信の類に巻き込まれ、犠牲になる現状が許せなかった。
ただし。
一つ、蛍子にとって気がかりなのは、雨音の髪は雨が降り出すと水色に輝いて周囲の目を引いてしまうことだった。まるでその髪が、大雨を引き寄せているようにも見えて、最初は誰もが驚くだけだったが、やがてそれは畏怖や怒りに変わった。
それは蛍子に向けられるばかりではなく、雨音にさえ言葉や態度で顕されることがあった。
蛍子はそれが悲しくてたまらなかった。
電車が止まって、蛍子は雨音の手を引いて一番端の席に座った。顔を伏せる。蛍子は怖かった。また、雨音と自分が町を離れると、憑物でも落ちたかのように空が晴れるのではないか、と。もう、そんな光景を何度も目にした。
電車が動きだして、蛍子はほっと息をついた。
「お空、晴れてる。よかったね」
雨音は窓の外を指差す。うん、そうだね。蛍子は心の中で呟いた。しかしそれを声に出すほどの余裕はなかった。電車はトンネルを抜けて山を下る。蛍子は足をぶらぶらさせて、揺られる車内に身を任せて楽しんでいた。
「今度は、海の見えるところに行きましょう」
「うん」
雨音は晴れ渡る空の下で走る、電車の窓を開けた。真っ白なワンピースが風ではためく。水色の髪は太陽に晒されて、水面が光を反射するように美しく輝いた。
電車は日暮れ前に本州南端に到着した。蛍子は自分の荷物を背中に負った。安物の、牛革のリュック。もうどこで買ったかも忘れてしまった。その中にはたくさんの本が詰め込まれている。
「重くない?」
雨音は蛍子の背中に回り、そのリュックを両手で押し上げようとする。背中から荷物を支えて母親の負担を軽くしようとしているらしかった。
雨音も、もう5歳になる。自分のせいで大雨が降っているかもしれないと、肌で感じているのかもしれない。
「大丈夫よ。とにかく、今日はどこか泊まる場所を見つけましょう」
蛍子は雨音の手を引いて、歩く。今日はずいぶん移動したせいで雨音も疲れているのか、うとうと、と小さな頭をときどき振っている。
町は―――夜が間近に迫っていて静かだった。
観光としても人気がある場所のせいか、町並みはどこか古くて旅館が多い。
街灯が夜に沈みはじめるアスファルトを照らしている。蛍子は急いだ。夜が来る前に泊まる場所を見つけないと―――雨が、降り出すかもしれない。
そう考えてしまう自分に嫌気が差していたが、どうしようもないのだ。
新しい土地に来てものの30分もして大雨が振り出すことを、蛍子はもう何度も経験していた。
最初に戸を叩いた宿は、おばあさんが出て「もう、一杯だから」と断られた。蛍子はその目に、客に対して受け答えするような色がなかったことにまだ気がついていなかった。
次に訪れた旅館には、もう夜遅いと明らかに不誠実な対応をされて、真向かいの素泊まり宿にははっきりと「町から出て行け」となじられた。
蛍子はそのとき、はっきりと気がついた。5年。わずか5年の間に、自分と雨音の噂は休息に広まっているらしかった。ただ、大雨を降らせる子どもがいる。その子は災害、水害を引き起こして町や村全部を流してしまう。
そんな噂が、蛍子が行く先に広まっていた。
旅館が独特の繋がりを持っていることは知っていた。旅人の話、旅館を渡り歩いて働く女中や料理人。彼らが運ぶ噂話の中に、雨音のことが含まれていたのだろう。
「でも、こんなに……?」
蛍子はぐっと涙を堪えて、唇を強く噛んだ。
歯をつき立てられた桃色の唇はやがてうっすらと血が滲み、口角へと伝って顎に流れた。蛍子は雨音に気づかれないように袖でそっと拭い、歩きはじめた。
旅館や宿がダメなら。蛍子は一軒、民家の戸を叩いた。
古い納屋が一つ、あそこに寝泊りさせてくれるなら、そう思っていたが、戸を開けて出てきた老人は蛍子を怒鳴り散らした。
「この子一人だけでも」と食い下がったが、話を聞いてくれることもなく戸は閉められ、そういう目に何度も会って。最後に伺った家には老婆が一人で暮らしていた。
「この子だけでも」、蛍子は雨音の背中をそっと押す。しかし老婆は悲しげに二人を見つめて首を振る。だめだ、ととうとう蛍子は涙を堪えきれなくなって、ぽろぽろと零した。
自分だけなら、野宿くらいできる。
ただ、蛍子は5歳の雨音に何も食べさせることもできずに、この子がいつ降り出すかもしれない雨に怯えながら寒い夜を明かさなければならないことが悔しくてたまらなかった。
しかし老婆は軽く雨音の頭に手を載せると、戸を開けたまま、座敷に下がった。そしてすぐにアルミの箱を持って玄関先に戻ってきた。
「あんた方を泊めるな言われとってねえ」
ここに来て、初めて口を利いてくれた。
蛍子は涙を拭って老婆に頭を下げる。
「これ、お金が少しと食べ物が入っとるから持って行き。それからここをまっすぐ山の方に登ると神社のお堂があるから泊まるならそこがええ。あっこには宮司さんがときどき来なさるから布団も置いとるし、暖も取れる。決して海岸のほうには近づいたらいかんよ。寒いし、誰っ一人、話を聞いてくれるもんはおらんから」
蛍子はいつの間にか、眠って自分の足にしなだれかかっている雨音を負ぶって そのアルミの箱を受け取った。外国の絵柄がプリントされたお菓子箱。
蛍子は老婆の顔をはっきりと見た。その白い髪の毛はどことなく金色がかっていて、瞳は緑に輝いていた。
「私も、初めてこの町に来たときは苦労したよ」と老婆は微笑んだ。
蛍子は何度も頭を下げて、老婆の家を出た。もう、町は暗い。街灯の明かりだけが煌々と照っている。その他に、家々の明かりはほとんど消えていた。
山道を登る。やがて蛍子は頭にひんやりとした感触を覚えた。ぽつぽつ、と雨が落ちている。蛍子は走った。背中で眠っている雨音の身体が冷えてしまうと風邪を引く。だから、急いでお堂までいかなきゃ、雨が本降りになる前に。蛍子はそう呟きながら走った。
ぽたぽたとアスファルトを叩いていた雨は、やがてザアアとまとまって山道の木々を打った。しかし運よく、背の高い森林の樹木は山道に覆いかぶさり、蛍子と雨音がひどく濡れることはなかった。
「もう……すぐ、もうすぐだから」、負ぶっていた雨音の手に力がこもった。
「降ろして、お母さん」と雨音は呟いた。
「ごめんなさい、起こしちゃったみたいね」
蛍子が言うと、雨音はぶんぶんと頭を振った。山道のわき道、下へと降る砂利道があり、その奥にお堂はあった。木々や巨石に隠れてよく辺りを見渡していないと見つかりそうもない、ひっそりとした神社。しかし社は整えられていて、定期的に人が来ていることがわかる。
砂利道の途中で、雨音はどこか遠くを指さした。
「あの島は……何?」
お堂のある山からは海を見渡すことができる。ぼんやりと、海に映る小さなお碗のような島。
「島……あの島?」
あの辺りに、島なんてあっただろうか。蛍子は首を傾げる。
「今度はあの島に行きたい」と雨音は呟いた。耳許で、雨粒が肌を弾く音にすらかき消されてしまうほどの小さな声で。
「どうして?」
「あの島、ずっと晴れてるんだ。私にはわかるから。きっと、お母さんを悲しませないと思う」
気づいていたのか。蛍子は深く息を吐いた。自分のせいで雨が降ることも、もう何年もこの子を連れて各地を渡り歩いていることも。
「わかったわ。せっかく、海の見える町に来たからね。次は島にしましょうね。島は、周りは全部、海だからね」、ふふと蛍子は微笑んだ。
砂利道を降りて、鳥居をくぐる。
お堂は格子戸になっていて、扉は南京錠がぶら下がっているが、鍵はかかっていなかった。お堂の階段を登って戸を開けると、竹簾が掛かっていて、四方形の座間に小さな台座がぽつんと一つ。老婆が言ったように、その横には誇りだらけの布団が一式。
「よかった……」
ぺたん、と蛍子はお堂の中で座りこんでしまった。ようやく休める、と思わず安堵の息がこぼれた。
蛍子は腕で持っていた荷物を降ろして、老婆から貰ったアルミの箱を木床に置いた。
革のリュックのファスナーが開いて、中身が飛び出てしまった。
たくさんの、天気図のコピーと気象に関する書籍。雨音がもたらす、気象を科学的に説明できないかと、多くの本を読んで調べてきた。
しかし謎は深まるばかりで、それでも蛍子は気象に関するデータも書籍も手放したことはなかった。
雨はさっきよりも強まっている。雨音の髪の毛は、さらに深く強く光を放っていて、光がまったくないはずのお堂に照明がいらないくらいだった。そして雨音はじっと、一点を見つめている。どこか、遠く。
「どうしたの、雨音?」、蛍子は怖くなって、雨音の身体を揺すった。しかし顔だけをお堂の台座に向けたまま、意識はどこか別の場所にあるかのようだった。
「雨音っ! 返事しなさいっ!」
身体を揺する。でも、何も答えなかった。何かがおかしい。蛍子は急激に体温が下がっているのかもしれないと雨音の身体をこする。
雨音はされるがままで、ただ口をわずかに開いて、何か言うべき言葉が生まれるのを待っているかのようだった。
「―――私は、人ではなかった―――」
どこからもれ聞こえているかもわからない、そんな低い声で雨音は言う。雨はすべての音を奪いさってしまうほど大きく、激しく降り出した。
山道から下ったところにあるお堂に、水が流れた。砂利道を沈めてしまうほどの泥水。
「雨音? なんて言ってるの?」
「私は、人じゃないみたいなの。そう、言ってる」
「誰が?」
「わからない」
雨音はぽつりと呟いた。どど、と土砂が木々をなぎ倒してお堂に激突する。ぐらり、と腹の底に響くような震動が起こり、蛍子は身体に力を込めて揺れに耐えた。
しかし雨足が強まったのは、それが最後だった。
不思議なことに、神社周辺は水浸しになって、お堂の床すらも浸水するほど迫っていたのに、雨は小康状態になった。
ぴたり、と増えていた泥水も止まってしまった。
優しい、髪の色。雨音の水色の髪は、まっすぐに伸びていて、しかし目を覆うほど眩しく輝いていたその色は失われつつあった。
ただ。雨音はどこか遠くを見つめて、「私は、また私に生まれ変わるから」、そう呟いた。
蛍子は雨音の身体を必死に掴まえた。絶対に離さないと思った。
でないと、その髪の毛の輝きが失われるのと同時に、雨音も消えてしまいそうな気がしたから。蛍子は自分を呪った。まるで、小康状態になった雨が響かせるあの音がなくなると同時に、雨音がいなくなってしまいそうだったから。
雨の音が消えて止んでしまうと、同じ名前をつけた自分の娘さえもなくなってしまうような気がして。そう名づけた自分を呪った。
「雨音っ! 何か食べようっ! ほら、おばあちゃんがくれたお菓子箱、開けてみよう?」
土砂の震動でお堂が揺れたせいで、アルミの箱は蓋が外れていた。
中には、おにぎりやお菓子がたくさん入れてある。そして、その下には小銭やお札。ごちゃ混ぜになって、蛍子は両手いっぱいにそれらを掴んで雨音に見せる。
「島に、行こう。このお金があれば島に渡れるからっ! そう、フェリーっ! 乗ったことないでしょ?」
きっと、雨音はお腹がすいているんだわ、蛍子は雨音に、いや自分に言い聞かせていた。
でも雨音にその声は届いていないようだった。蛍子は再び、雨音を抱き寄せた。雨は止んでしまっている。蛍子は、雨が止む、ということをこれほど悲しいと思ったことはなかった。ただ、悲しかった。
雨音の身体は水の中でふらふらと揺れる気泡のような柔らかさで、とても生きている人間の感触ではなかった。
「また、雨は降るから」と雨音は呟いた。
雨音の髪の毛は、力なく輝きを止め、まっさらに色が抜けて透明になっていて、そのあとを追うようにして雨音自身もその身体は水を含んだ空気に溶けて消えていく。
霞のようなその身体を、蛍子は抱きしめた。
「迎えに行く。雨が降ったら、迎えに行くからっ!」
薄く、霧のようにかかっていた雲が晴れていく。蛇の目でお迎え―――、そうだ、きっとどこかで雨が降る、そのときは蛇の目の傘を持って、迎えに行くから。そうしたら、雨音はきっと喜んでくれる。
降れ、雨。降ってください、たくさん降ってください。
そしたら私は、あの童謡みたいに雨音をきっと迎えに行ける。
空は、朝焼けのオレンジ色に染まり始めていた。うっすらと、夜が明けてお堂の格子窓から光が差し込む。蛍子は両手を開く、しかし掴んでいたはずの雨音の姿はなく、ただ濡れた床と散らばったお菓子や小銭だけが残されていた。