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ヒマワリと雨女さんの嘘

 私はその日の夜から、毎日オヤカタにアクセスし、衛星写真のデータを自分の人工知能に取り込みました。少しでも、雲の行方に変化があればいい。そう願っていたのです。

 しかし低気圧は予報どおり、週末から九州南端に接近し、土曜には四国太平洋側に停滞。全国的にこの夏一番の長雨を記録することになりました。

 私はその雨を、縁側に座ってネコと一緒に眺めている。アマネさんのことを思いながら。

 日曜日。

 できれば晴れて欲しい、そう思った。

 けれど気象衛星から見た低気圧の進路に変更はなく、雨は週末から強まっています。

 私の手元には、紺色の深張り傘。アマネさんが貸してくれた傘。

「なー」とネコが欠伸をしながら鳴いています。

「そうですね、返しにいかなきゃいけません」

 私は縁側の置石においた赤い革靴を履いて立ち上がる。 

 そして玄関に回って傘をもう一本。

 こっちはアマネさんに傘を返して、こっちは帰り道で使う傘。帰りの傘を手にかけて、アマネさんの傘を差して私は鈴島研究所入り口を出ました。

 研究所の入り口と言っても、普通の古民家の玄関と何もかわらないですが。

 ちょうど、助手の高木さんとすれ違って、「どっか出かけるのか?」と訊ねられました。

 言葉尻に、こんな雨なのに?という意味が含まれているような気がして、「お友だちに傘を返しにいくんです」と答えます。

「友だち? 機械にもそんなもんができるのか」

「……はい。高木さんはどうされたのですか、ずぶぬれです」

 傘も差さずに、高木さんは玄関先で濡れたスーツやシャツを絞っています。

 水がぽたぽたと玄関の敷石にまで溜まって、掃除が大変そう。

「ああ、それがね。所長、まあつまり君のマザーがねえ、いないんだよ。だからさっきまで探してたんだ。見つけたら、連絡くれないかな?」と困り顔で肩を竦めます。

「あの人、ここの島に来てからときどきいなくなっちゃうんだよね。ま、そういうわけ……」

 へぶしゅ、と高木さんは言い終える前に大きなくしゃみをしました。

 肩を震わせて、脱いだ靴下やスーツを片手に白衣を羽織ると玄関から風呂場に駆け込んでいます。

「あのー、いってきまーす」

 私はその背中に一声かけて、私は研究所を出ました。

 夏の空の下で歩いた、島の畦道とは違っている。雨が降ると少し変わって、雨水で重たくなった植物の葉や枝がこうべを垂れて、元気がなさそう。

 どこを探そう。アマネさんがいそうなところ。

 早朝の空気はまだ冷たくて、私は早歩きして身体を動かす。畦道を渡って、山道に向かう途中。赤い郵便ポストにガラス戸、ヤギ商店の看板、あの駄菓子屋。

 私はちら、と中を覗きこみます。

 おばあちゃんがガラスケースの奥に座っていました。

「おお、なんぞまた用かいね」

「リコの様子を見にきました」、言うとおばあちゃんはため息を堪えるように口の端を持ち上げて微笑みました。やんわりとした顔の皺。でも少し悲しげ。きっとそれは憂鬱な雨のせいでも、駄菓子屋のちょっと暗い照明のせいでもない。

「明日リコは、この島を離れるんだ。だから今日は最後に、島の子どもたちと海で遊ぶ約束だったんだけどねえ、この雨じゃあねえ」

「そう、だったのですか」

 私はレジ奥の、暖簾が掛かる敷居を見つめました。

 そこにはアンテナのずれたテレビがノイズと雑音を響かせているだけ。

「たぶん、バチがあったんじゃないかねえ」とおばあちゃんは寂しそうに呟きました。

「リコが、この島にいる最後の日にうちにいてくれたらと思ったんだ。だから雨が降って欲しいてなあ。でもリコがあんな悲しそうにしてるなら晴れてくれたほうがずっとよかった」

 そう呟いて、おばあちゃんは息を吐きました。私は唇を強く噛む。

 私はせめておばあちゃんに、晴れると言いたかった。でも、そんな嘘すぐにばれる。

 嘘をついてはいけない。私はマザーにそう教えられました。

 どんなにオヤカタにアクセスしても、晴れるのは月曜の昼ごろから。

 今日は一日、雨が降る。

 けれど、一人晴れると言った人がいるのを私は知っています。

 その人は天気図に映らない雲に気がついていて、そして私にこの島の異常気象について教えてくれた。天候は変えられない。そんなの誰だってわかっていることです。でも―――。

「私、探してきます」

 アマネさんを。もしかしたら、彼女は今日が晴れる根拠を持っているのかもしれません。

 それを教えてもらって、私はおばあちゃんに胸を張って晴れだと言いたかった。

 私は駄菓子屋を出ました。

 傘を二本、両手にひっかけて走ります。

 おばあちゃんの、私を呼び止める声が聞こえて、それでも私は振り返ろうとはしませんでした。晴れを望んだ女の子がいて、雨を願ったことを後悔している人がいる。

 アマネさんは、どうして今日が晴れるって言ったの。私は訊きたかった。 雨はだんだんと強まる。私は自分の現在地と、雲の様子を照らし合わせて、上空を見上げた。

 そうだ、アマネさんの居場所を特定できる方法が一つだけあった。

 もしあの人が、本当に雨女で雨を呼ぶことができる人なら。

 あの低気圧の中に混じる、写真に映らない雲。あるはずのない雲。低気圧とは違う、正体不明の雨雲。その近くにアマネさんがいるはずです。

 衛星写真に映る雲は雪崩のように島を覆って、時間で見るとときどき雲には切れ目がある。だけど、空を見上げるとひと際分厚いところがあった。

 山道の途中、山林と棚田に囲まれた土地。私は駄菓子屋からバス通りを抜けて山道に入った。

 岩を積み上げただけの、簡素な階段。

 足はときどきすべって、膝も手も泥で汚れる。雨は止まない。それどころか、さらに強まっている。

 そして見つけた。衛星写真から見た雲の中に混じる、映るはずのない雲。

本来、雲の切れ目となって薄曇になるべき場所が、灰色の暑い雨雲に覆われている。

「アマネさん……?」

 私は石段を昇る。木々に溜まって、重たくなった雨露が私の頬を打つ。ザアア、と雨が落ちる音だけが響いて、自分の声すらもうまく聞こえない。

「アマネさんっ!」

 私は叫んでいました。自分でも驚くくらいに大きな声で。雲の切れ目、雨がふるはずのない場所、そこで降る雨は冷たく、夏の雨とは少し違う。湿っぽさも生暖かな感じもない、ただひんやりとした細い雨。アマネさんのような雨。

「……呼んだの?」

 傘を二十本以上、背中に負って。その人はただ空の行方を見つめていました。腰まで延びた髪の毛は、ぴちゃぴちゃと水音を立てて光輝いています。

「晴れるって……嘘だったんですか?」

 私は訊ねました。しかしアマネさんは困り顔で微笑んで、私に傘を差し出しました。

 そのとき、私は自分が二本も傘を腕にひっかけておきながら、差さないまま走ってきたことに気がつきました。

「傘、差して」

 言われて私はパン、と雨傘を開きました。

 山道から島一帯を見渡します。夏の稲穂が雨に濡れてかわいそう。それに、海も。

 砂浜も波も雨で煌くような色が沈んでいる。堤防の灯台だけが、湿った夏の雨の中でぼうっと輝いている。

 夏の日に訪れた、鈍色の時間。

 アマネさんはセーラー服の胸ポケットから小さなハサミを取り出しました。

 子どもが使うくらいの、オレンジ色の持ち手、錆びついた刃、ラベルシールには『あまね』とひらがなで。

 アマネさんはそのハサミを私に手渡しました。

「髪を、切ってほしい」

 濡れた前髪で、アマネさんの顔はほとんど覆われて、ちらりと目だけが合いました。

 私は首を何度も振って、ハサミを受け取ることを断ります。あの水色の髪を切るなんてできない。あんなに、奇麗で輝くような雨の似合う髪の毛を切るなんて。

 でもアマネさんは私の胸にぐっとハサミを押しつけて、「切って」と口だけを小さく動かして言います。

「でも……私にはできません。もっとちゃんとした人なら」

「そうしないと、晴れない」

 私はそのあと、アマネさんが囁く声もちゃんと聞いていました、「あなたにしか、できないことだから」、傘にぼたぼたと落ちる雨音、なのにアマネさんのその言葉だけははっきりと私の耳に届きました。

「本当に晴れるのですか?」

 私は手を延ばしました。

 ハサミを受け取るために。こくん、とアマネさんは頷いて、私に背中を向けて、階段の岩垣に座ります。ひんやりと、冷たい髪の毛。握ったハサミの刃よりも、ずっと冷たい。

 私は傘を置いて、そっとその水色の髪の毛に触れました。まるで水の中に直接、手首まで浸したかのような感触。

 私は指で、彼女の髪を梳きました。あめんぼや、かえるや、梅雨の時期に鳴く虫や生き物たちが、アマネさんの髪の中に避難しているみたいにときどき、ふわりと何かが生きて呼吸している声が聞こえます。

「切って」

 髪の毛の美しさに見惚れていると、アマネさんが呟きます。

 そうです、私はこの奇麗な髪にハサミを入れなければならない。

 突然、心が張り詰めて持つ手が震えます。それでも。空が晴れてくれるなら。少しでも、雨が止んでくれれば。きっと、おばちゃんもリコも喜んでくれる。

 でも、私は―――。私は気象衛星観測機。

 この島に起こる異常気象を調査するだけの機械でしかない。

もしアマネさんの言うとおり、この髪を切って空が晴れてしまうとしたら。

 私が天候を乱していいの?

 今、あの低気圧が降らせる雨を心の底から喜んでいる人たちはどうなるの。私は不安で仕方なかった。天気を変える力を持ってしまうかもしれないと思うことが怖くなってしまった。

 けれど。そのとき、私の指をぎゅっと握る手が見えた。

 私の指に手をそっと添えて。もう片方の手で、自分の水色の髪の毛を束ねるアマネさん。そして彼女の手には力がこもり。私の指をぐっと押し込んで、ハサミは自然と彼女の髪を切ってしまいました。

 はらはらと、地面に落ちる水色の髪。

 深緑の、まだ生命力が漲る枝や葉が雨に落とされて地面を緑色に染めている石段の上に髪の毛はふわりと落ちて。その髪は透明な水に戻ってしまいました。

 髪が水に戻る、私にはそうとしか見えなかった。

 髪はたしかに、水へと変化するというよりも雨に同化してまるで元の水に還っているように見えたのです。

 アマネさんの髪の毛は肩から下が全部なくなって、すると上空にあったはずの雨雲が散って薄くて真っ白な雲だけになりました。

 そしてときどき晴れ間も見えて、夏の日差しが猫島に降り注いでいます。

私の目には、あの正体不明の雲が渦を巻いて辺りの雨雲を散らしているようにもみえました。

「晴れた……晴れたっ!」、私は思わず声を上げました。

 地球の天候を変える。

 それで誰かが喜び、誰かが悲しむ。

 そして私に近い人たちの喜ぶ顔が見たくて、天候を変えてしまう。

 そんなひどいことを、私はやってしまったのにあの晴れた夏の空を見ているとそんなこともどうでもよくなってしまう。

 それほどに澄んだ青い空が広がっています。

 私はオヤカタにアクセスしました。

 天候は、「―――晴れ。九州南端から四国地方にかけて移動していた低気圧は原因不明の現象により、消滅しました」とデータが降りてきた。

「……今度は、あなたに切ってほしい。そのときのために」

 アマネさんは私にハサミを差し出して、言いました。

「持っていてほしい」、私はそのハサミを受け取りました。アマネさんの大切なものを私が預かっている、そう思うことがたまらなく嬉しくなっていたのです。

 私はアマネさんの手を握って、石段を駆け下りました。

 見せたいものがあったからです。アマネさんがあの美しくて奇麗な髪を切ってまで、晴れ空にしてくれた、それを喜んでいる人たちの顔を見せたかった。

「ついてきてください」

「……ど、どこに?」

 向日葵が太陽の方向を向いて、首を高く延ばしています。

 田んぼでは乾いた稲穂がパリッと身体を持ち上げています。雨で鳴りを潜めていた蝉たちが一斉に声を上げています。

 畦道で小さな生き物たちが蠢いて、アスファルトは夏の熱を再び、持ち始めていました。

 駄菓子屋の前で、女の子がサンルーフの隙間から空を見上げていました。

「晴れたよ、おばあちゃんっ!」、リコは両手で目一杯伸びをしています。

「よかったねえ」

 その後ろで、おばあちゃんは目を細め。やがて子どもが一人、手を振って海に向かう一本道を降りてきます。

 その少年はビーチサンダルに浮き輪を持って手を振っています。さらにその後ろから、三人の子どもたち。男の子が二人と、女の子が一人。

 きっと、今日リコが遊ぶ約束をしていた友だち。彼女が島で過ごす最後の日に、海で遊ぶと約束した子たち。

「おーい」

 リコはその少年の声を聞くと、恥ずかしそうに駄菓子屋のガラス戸に隠れてしまいました。猫目の、髪にパーマのかかった優しそうな少年。

「晴れたから、走ってきたんだ。行こう、リコちゃん」、そうして少年はリコに手を差し延べました。

 リコは小さな手を出して少年の手を握りしめると、後ろから坂道を下ってくる三人の友だちを合流して、そのまま海へと駆け足で降りていきます。

 濡れた地面は雨の後に夏の日差しを受けていて、蒸発する水溜まりが走る少年たちの姿を包み込みます。

 ショートカットになったアマネさんは、晴れた猫島上空の空を見上げて、やっと口の両端を持ち上げて、笑ってくれました。



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