死んだふり :約7500文字
昼下がり。空一面を鈍色の雲が覆い、陽射しは薄く濁っていた。山全体が湿った灰色の膜に包まれているようで、息を吸うたびに肺の奥までじっとりとした重苦しい空気が染み込んでいくようだった。
そんな山中を一人の男が歩いていた。
木々の間を縫うように進み、積もった落ち葉を踏み鳴らしながら緩やかな斜面を黙々と登っていく。そこは登山客が通るような整備された登山道ではない。周囲に人の気配はまったくなく、聞こえてくるのは男自身の荒い息遣いと衣擦れの音、無遠慮な足音だけだった。
遭難しているわけではない。もっとも、本人にその自覚はなかったが、半ば遭難しかけているような状況ではあった。だが男は帰り道の心配などほとんどしていなかった。歩いてきた道筋はなんとなく頭に残っているし、斜面を下り続ければいいだけの話だ。ふと不安がよぎったときも、そう自分を納得させていた。
今、男の頭を占めているのは金のことだけだった。もっとも、砂金や金塊そのものを探しているわけではない。知り合いから、この山で松茸が採れると聞き、ちょっとした臨時収入を得られると踏んでやってきたのだった。おまけにこの辺りは監視の目もほとんどないという。
男は教えられた場所に近づくにつれ、何度も足を止めて周囲を見回した。湿った土から立ち上るどこか酸っぱい匂いを嗅ぎ、赤松の根元や落ち葉の盛り上がりを一つひとつ覗き込みながら歩いていく。どこか宝探しをしているようで、自然と童心に返ったような感覚になった。
しかし――。
男は思わず「えっ」と心の中で声を漏らした。首を振った、そのほんの一瞬。視界の端に黒い塊が映り込んだのだ。
まさか、今のは……。
気づかなかったふりをしてこのまま歩き続けるべきだ。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、気づけば足を止め、ゆっくりと振り返っていた。
――クマだ。
一瞬、頭が真っ白になった。ツキノワグマだろうか、木の脇に黒々とした身体があった。周囲の景色から浮いているとは言わないまでも、風景画に墨を垂らしたような異様な存在感がそこにあった。
喉を鳴らしたのか、あるいは鼻息だったのか、低く唸るような音が聞こえた。続いてガサリ、パキリと乾いた枝や落ち葉を踏み潰す音が響き、その黒い影はゆっくりとこちらに向かってきた。
次の瞬間、男は背中のザックを放り出し、膝から崩れ落ちるように地面に伏せた。
そして――後悔した。
しまった。たしか、クマには背中を見せず、目を離さずにゆっくり後退するのが一番の対処法ではなかったか。
クマに遭ったら死んだふりをしろ――幼い頃にどこかで聞いた曖昧な知識が反射的に蘇り、身体が勝手に動いてしまったのだ。
今すぐ起き上がるべきか。いや、その動きに驚いて襲いかかってくるかもしれない。どっちだ。ああ、来る……。
がさ、ぐしゃ、ぐしゃり。落ち葉を踏み潰す音が一歩、また一歩と近づいてくる。音が大きくなるたび、男の心臓が大きく脈打った。鼻の穴は大きく開かれ、喉の奥からくぐもった声が漏れた。
やがて、荒い鼻息が頭に降りかかった。
――今、目の前にいる。
男は唾を飲み込みかけて、慌てて息を止めた。
おれは死んだ。死んだんだ。これから殺されるという意味じゃない。おれはもう死んでいる。おれは死体だ。ただの肉だ。動かない。息もしない。何も感じない。でもおいしくない。不味い死体だ……。
頭の中は恐怖で半ばパニックになっていた。思考は粘液に絡みつかれたかのようで、まともに働かず、何をすればいいのかわからない。そもそも今さらできることなど何もなく、男はただ目を閉じたまま地面に身を預けるしかなかった。
やがて荷物を漁る音が聞こえてきた。
ナイロン部分が引き裂かれるような音。がちゃがちゃと中の物がぶつかり合う音。ザックの中身が無造作に掻き回されているらしい。
あれがじきに自分の身に起きると思うと、怖気が全身を覆い、ぶるりと震えた。
ぐちり、ぐちゃり、ばきり――肉が引き裂かれ、骨が砕かれ、爪と牙を血で濡らしたクマが臓物を掻き出す光景が頭の中で膨らんでいった。
男は身体の震えを必死に押さえ込み、息を殺してひたすら死体を演じ続けた。
――まだか、まだか……。早く行ってくれ……。
クマは荷物を転がしたあとも男の周囲をうろうろと歩き続けた。時折、黒い前足が視界の端に映り込む。そのたびに胸が大きく跳ね、男は危うく息を吐き出しそうになった。
鼻先を背中にぐいぐい押しつけられ、生温かい息が服越しにしみ込んでくる。身体を揺さぶられ、尻を前足で押された。さらに、ずんと体重がのしかかった。その鈍い圧迫感に悲鳴が喉までせり上がったが、男は奥歯を噛み締め、一言も漏らさず必死に耐え続けた。
――行ったか……いや、まだだ。頼む……もう行ってくれ……。
どれほど時間が経ったのか。
やがて周囲が静まり返り、クマの気配が消えたのを感じると、男はようやく小さく息を吐いた。
行ったか――そう思った直後だった。
再び、がさりと落ち葉を踏む音が聞こえた。
次の瞬間、落ち葉を勢いよく蹴散らす音が響き、荒い鼻息が耳元にかかった。
心臓が大きく脈打ち、全身が跳ね上がりそうになったものの、男はひゅっと息を呑み、四肢の力を抜いて再び重力に身を委ねた。
バウ、ブルウウ……疑っているかのようにクマは唸り声を上げながら男の周囲をうろついた。
十分、二十分――。男は微動だにせず耐え続けた。固く目を閉じていると、無意識のうちに聴覚が研ぎ澄まされた。男は周囲に神経を這わせるように集中し、わずかな物音でもすべて拾い上げて、クマの動きを探った。
ま、まだいる。近い、ああ、近いぞ……。も、もし噛みつかれたら……そのときはやってやる。親指で目玉を突いてやるのだ。ああ、やる、やってやる。両手で一気に、こう。いいぞ、すぐ動けるようにイメージしておくんだ――いや、待て。相手は野生動物だ。そういった殺気めいたものを感じ取られるかもしれない。何も考えるな。何も……。
そうして心を無に徹してからどれくらい経っただろうか。やがて足音は少しずつ遠ざかっていった。荒い鼻息も空気に溶けるように消えていった。
今度は間違いない。だがそう思ってもなお、男はすぐには動かず、念のためしばらくは地面に伏せたまま息を細くし続けた。
――そろそろ大丈夫か……。
男はゆっくりと目を開け、肺の奥に押し込んでいた空気を吐き出した。その勢いで目の前の落ち葉がふわりと転がるのが見えた。
思い出したかのように湿った土の匂いと雑草の青臭さが鼻腔を満たし、張り詰めていた神経がようやく現実に引き戻された。
男は足をずりりと動かし、指先に力を込めて上体を起こそうした。
だが、そのときだった。
「もうこの辺でいいんじゃないですかあ」
ふいに人の声がして、男は反射的に動きを止めた。
「まだだ。まだ先だ」
「でも、人なんて来ないでしょ。あんまり奥まで行くと、戻るのも大変っすよ」
二人いる。どちらも男のようだ。
「いいから言われたとおりにすりゃいいんだよ」
「この辺で埋めちゃってもいいと思うけどなあ」
――埋める……? 何をだ?
「いいから……うおっ」
「なんすか――えっ!」
会話が唐突に途切れ、足音もぴたりと止まった。風だけが静寂を乱し、ざわざわと枝葉を擦り合わせていた。
「あれ、死んでるんすかね……?」
片方の男がぽつりと言った。
「わからん……」
――おれ……か? おれだな。
男はつい頬を緩めた。どうやら驚かせてしまったらしい。いや、それはそうだ。こんな人けのない山奥で、大の大人が地面に突っ伏していれば誰だってぎょっとするに決まっている。
しかし、こうも注目されるとどこか気恥ずかしい。『いやー、実はクマに遭遇しまして』なんて照れ笑いでも浮かべながら起き上がるのが一番無難か。……いや、そうだ。クマがいるんだった。連中に今すぐそのことを知らせてやらなければ――。
「一緒に埋めてやりましょうか」
――え?
「馬鹿。そんな手間かけられるか。一人分だって、でけえ穴掘らなきゃならねえんだぞ」
「え、なんでっすか」
「お前なあ、獣に掘り返されねえようにするために決まってんだろ」
「獣ってなんすか。野良犬とかいないでしょ」
「だから……狐とか狸だよ」
男の背筋に冷たいものが走った。
この連中、何かを埋めに来たのか。それも今の口ぶりといい言葉の端々に滲む粗暴といい、まさか……。
「めんどくさいっすね」
「うるせえな。もしこいつが見つかったら、おれらも殺されちまうぞ。お前、わかってんのか?」
――死体だ。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、男の全身がびくりと震えた。
ヤクザか、その下っ端か。こいつら、この山に、し、死体を埋めに来たんだ……。
「あれ?」
若いほうの男が言った。どさり、と何かを置いた音がした。その直後、がさがさと落ち葉を踏む音が近づいてきた。
「今、動きませんでしたか?」
「あ? 気のせいだろ」
「そうっすかね……そもそも、あいつなんで死んだんですかね?」
「あ? まあ、あれだ。遭難だろ。それか心臓発作とか」
「あー、でも……」
足音がさらに近づいてきた。
「本当に死んでるんすかね」
頭上から声が降ってきた。
男は喉が痛くなるほど急いで息を止めた。
いる、すぐそこにいる。気配からして、もう一人の男のほうへ振り返ったようだ。
がさりと落ち葉を踏む音が聞こえた。向きを変えたんだ。今、こちらを見下ろしている――。
男は息を殺し、心臓の鼓動を必死に抑え込もうと腹に力を込めた。手足から力を逃がし、これは自分の身体ではないと言い聞かせた。他にできることはなかった。
「死んでなきゃ、そいつ何してんだよ」
もう一人の男が笑いを含んだ声で言った。ライターだろうか、カチッという音が聞こえた。
「寝てんのか? ただの馬鹿じゃねえか」
「ははは、うーん……」
声が近い。しゃがんだのだ。もし気づかれれば殺される。殺される――。
「うおっ……ははは」
「どうした?」
「いや、こいつ白目剥いてますよ。それに舌がでろんって出てて……うわあ、土まみれだ」
「もういいだろ。下手に触んな。指紋でも残してみろ、厄介なことになるぞ」
もう一人が苛立ちを滲ませて言った。
「ほら、とっとと済ませて帰るぞ。もたもたして車を誰かに見つけられるほうが面倒だ。田舎だし、警察に通報されかねねえ」
「ああ、そうっすね。いやあ、こんな死に方だけはしたくねえなあ」
直後、足音はゆっくりと遠ざかり、二人の話し声も木々の向こうへ吸い込まれるように小さくなっていった。
――危なかった。まさに生きた心地がしないというやつだ。早くこの場を離れなければ……いや……。
指を動かしかけ、男はぴたりと止まった。
あの連中、帰りにまたここを通るかもしれない。あの若い男のほうが『念のため、もう一回見ておきましょうよ』などと言い出して。それに、『やっぱり気になるなあ』なんて、すぐ引き返してくる可能性だってある。もうしばらくはこのまま伏せていたほうがいい……。
男はそう考え、そのままじっと地面に伏せ続けた。
だが、しばらく経つと別の考えが頭をもたげた。
いや、すぐに山を下りればよかったじゃないか……!
男は無意識のうちに骨折り損になることを忌避し、心のどこかではまだ松茸を探すつもりでいたのだ。
だが、もう松茸どころではない。忘れかけていたが、そもそもこの山にはクマがいるのだ。早く逃げないと――。
「ねえー、どこまで行くのー?」
男が動こうとした、そのときだった。
若い女の声が聞こえた。
「もう少しだよ」
もう一人いる。男の声だった。
「もう疲れたー。ていうか、なんで山? この前オープンした店に行くんじゃなかったの?」
「そんなこと一言も言ってないよ……。まあ、帰りに寄ればいいじゃないか」
「じゃあ今すぐ帰ろうよ。ねえ、もう疲れた!」
恋人同士で登山デートといったところか。いや、女のほうは乗り気ではないようだ。男に付き合わされているのかもしれない。
「見せたい場所があるんだよ」
「えー? どこー?」
「すぐそこだよ」
「まだー? ……え、待って。あれ、人――いっ!?」
女が木々の向こうからこちらを覗き込むような気配がした、その直後だった。落ち葉を激しく蹴散らす音が響き、何かが倒れ込むような気配が続いた。それからばたばたともがく音、詰まったような呼吸、衣服が擦れる音――。
「死ね……死ねよ……クソ女ぁ……!」
彼氏らしき男の声が聞こえた。食いしばった歯の隙間から押し出されているような低い響きに、荒い鼻息が混じっていた。女は喉を押しつぶされたような湿った音だけを漏らし続けていた。
それも次第に弱まっていき、やがて完全に途絶えた。残されたのは彼氏の荒々しい息遣いだけだった。
「よ……し……やった……」
どさりと重いものが地面に落ちる音がしたあと、彼氏は震える声でそう呟いた。
――こ、こ、殺したのか……? 紐か何かで首を絞めて……。
男は喉の奥から込み上げる叫びを必死で堪えた。
なんてことだ。よりにもよって、こんなときにこんなところで……!
痴情のもつれだろうか。別れ話がこじれたのか、別の理由かは知らないが、いずれにせよ人目につかない山に連れ込み、自殺に見せかけて殺したのだ。
やがて、物を探る音が聞こえ始めた。続いてロープの結び目を作る音がした。それからロープが木の幹を擦る音。枝がぎしりと軋み、葉が揺れた。女を吊るしているのだ。
男はこの状態が長く続いたせいで、音だけである程度状況を把握できるようになっていた。そのことに気づくと、自嘲気味に笑った。むろん、内心でだが。
「よし……えっ」
女を吊るし終えたのだろう。満足げな息が一つ聞こえたあと、ぴたりと音が止んだ。
見つかった――男はそう確信した。
足音が近づいてくる。こちらを警戒しているらしい。一歩ごとに慎重さが伝わってきた。
やがて、すぐそばでしゃがみ込む気配がした。
顔を覗き込んでいるらしい。小さく「うわあ……」という声がした。
「きしょいな……」
彼氏はそう呟き、それから女のほうを見上げたようだ。
おそらく、これから腐敗していく彼女の姿でも想像したのだろう。おれの死体っぷりもなかなか堂に入っているらしい。
男は内心で乾いた苦笑を漏らした。
やがて彼氏の足音は少しずつ遠ざかり、木々のざわめきの中へ溶けるように消えていった。
あの死体遺棄の連中が戻ってきたら、どんな反応をするだろうか――。増えた死体を目にしたときの狼狽ぶりを想像すると、笑いが込み上げ、男の口元がわずかに緩んだ。
だが、しばらく経っても誰かが戻ってくる気配はなかった。聞こえてくるのは風が枝葉を揺らす音ばかり。鼻に届くのは湿った土や草木の匂い。それと、かすかなアンモニア臭だけだった。
そろそろいいだろう。もし誰かに見つかったとしても、そのときはそのときだ。もうどうにでもなれ。
男は疲労から半ば投げやりな気分になっていた。ただ地面に伏せているだけとはいえ全身が重く、肩や腰には鈍い痛みがこびりつき、足は今にもつりそうだった。
男はゆっくりと指先に力を込めて、膝を動かそうとした。
しかし、いよいよ立ち上がろうとしたその瞬間だった。
――ドォン!
突然銃声らしき音が轟いた。
男は思わず硬直した。
そのまま動かずにいると、やがてがさがさと落ち葉を踏み鳴らす足音が近づいてきた。
「やっちまった……やっちまったぁ……」
老人の声だった。それもひどく狼狽し、今にも泣き崩れてしまいそうなほど震えていた。
「なんで人がいるんだよ……。クソ……あああ、おしまいだ……」
さっきの銃声と何か関係があるのだろうか。猟師か……?
男はそう思い、さらに耳を澄ませた。ぼんやりと脳裏に姿が浮かんでいく。背は低く、小さな背中をさらに丸め、手には大事に――けれども忌々しそうに猟銃を握りしめている。
老人は、ひひひと喉の奥で軋むような笑い声を漏らした。どこか気が触れたような笑い方で、男はぞくりとした。
「死のう……死ぬしかねえ……あん? うおっ……うおっ!」
どうやら死体に気づいたらしい。それも“二つ”の。
老人はまず女のほうへ近づいた。猟銃で小突いたらしく、衣服が擦れる音がして、ロープがぎしりと軋んだ。
老人は「おお……」と低く唸ると、今度はこちらへ歩いてきた。
「どうなってんだ、こりゃ……」
そう呟くのも無理はない。むしろこっちが聞きたいくらいだ、と男は内心で呻いた。
老人は深く息を吐き、その場にどさりと腰を下ろした。
「……お前さんもつらかったなあ」
斜め上から静かな声が降ってきた。どうやらこちらの顔を見つめながら言ったらしい。
「こんな山ん中でなあ……。でも……仲間がいるもんなあ……寂しくねえなあ……」
へへ、と涙混じりの笑い声が聞こえた。
やがて土を擦るような音がし始めた。拗ねた子供が木の枝でやるように銃の先端で地面をいじっているのか――違う。銃口を自分自身に向けようとしているのだ。
か、こっ、と苦しげな声が断続的に聞こえた。銃口を咥え、引き金に指をかけようともがいているらしい。
音だけでぼんやりと姿が頭の中に浮かび上がった。銃身が長いせいか引き金にうまく指が届かないらしく、手こずっているようだ。何度も位置を変え、そのたびに銃床や衣服が擦れる音を立てた。
「はあ……」
老人は大きくため息をついた。
続いて、手を下ろしたような音がした。銃身を肩に乗せ、項垂れているらしい。
老人はしばらくその場から動かなかった。力なく笑い、すすり泣き、屁をこき、ため息をつく。そんなことを繰り返しながら地面に座り続けていた。
やがて日が暮れ、山の空気が冷たさを帯び始めた頃、老人はようやくゆっくりと立ち上がった。それから大きなため息をつき、重い足音を響かせながら木々の奥へ消えていった。
気持ちが落ち着いたのか、死ぬことをあきらめたのか、それとも場所を変えただけなのか、自首する決心がついたのか、あるいは何事もなかったことにするつもりなのかはわからない。もはや知りたいとも思わなかった。
やっとだ。やっと――。
長時間の緊張状態からようやく解放され、男の胸に重たい安堵が広がった。あまりの疲労に全身が――とりわけ頭が重く、意識は鈍り、そのまま眠りに落ちてしまいそうだった。
――もう十分だ。
男は大きく息を吐き、ゆっくりと起き上がろうとした。
そのときだった――足音がした。
それも一つではない。
衣擦れの音。喉を鳴らす音。重い息遣い。苦しげなうめき声。何か湿ったものが地面に落ちた音。長い縄のようなものを引きずる、ずる……ずる……という音。それらはゆっくりと近づいてきた。
やがて、吊るされた女の前で止まった。縄が軋む音がした。ぎしり、ぎしりと断続的に、まるで会話しているように。
そして――また足音が動き出した。ゆっくりと、気配は少しずつ近づき、男のすぐそばまで来たところでぷつりと途切れた。
見下ろしている。
誰も声を発することなく、ただじっと。
閉じたまぶたの向こうで闇がしっとりと満ちていく。
男は動かなかった。
ただ、それが正しい選択なのかどうかはやはりわからなかった。




