うっすら寒い
予感していた通り、胸を薄ら寒さが染みていったのに、柏崎真子は顔を顰めた。
──やっぱり、此処か。
登下校途中に通る地下道。
殆ど毎日自転車で疾走している真子だが、毎回決まってある地点を過ぎる時に、胸の中を何とも言えない薄ら寒さが染みていく。
それに気が付いたのは、夏休みが明けた、まだ暑さの残る時期だった。
地下道とは元々若干の冷たい空気が漂っているものではある。しかし、それとは異質な薄ら寒さが胸に染みるのを、真子は感じ取った。
涼しい気がして喜べるようなものではなく、じっとりと厭な感じのする薄ら寒さ。
真子の通う高校への最寄り駅は二つある。
その内利用者の少ない私鉄の駅から高校までの近道となるのが、この地下道だ。
近隣住民もそれほど利用しているとは思えず、当然同じ制服の生徒の姿もまばらだ。
──皆、感じてるのかな、これ。
ちら、と後ろを肩越しに窺ってみたが、誰の姿もなかった。
妙に湿った空気を漂わせる地下道が、ぽっかりと口を開けているだけだ。
「……キモ」
地下道を抜ける際、体の中から厭な感覚を吐き出すように、そう呟いた。
「いや、だからさー。マジでキモいんだって」
「なにそれ、笑える。霊感少女ってやつじゃん。ビームとか出してよ」
「何言ってんの、馬鹿?」
「え、酷くない? 馬鹿じゃないし」
膨らんだ頬を両側から潰すと、ブフッという変な声を出して唇を突き出した桃子が、抗議するように真子の腕を掴んだ。
「真子の方が馬鹿じゃん。地下道通ると薄ら寒いって何それ。もう夏も終わってるんだけど」
「別に怖い話してる訳じゃないじゃん。というか霊感少女にビーム出せって何だし」
「知んないよ。ビームくらい出せるでしょ、霊感少女なら!」
言い合う内にどんどんと話の軌道がずれていく真子と桃子の間に、ひらひらと可愛らしい手が舞った。
「まぁまぁ……霊感少女がビーム出すかは置いといて。真子ちゃん、それって毎回起きることなの?」
美々子がおっとりとした声で言いながら、小首を傾げた。美々子が手を振った拍子に漂ったフローラルな香りを鼻の奥に感じながら、真子は投げやりな気持ちで椅子に腰かけた。
「うん、まぁ……」
「夏休み明けて急に?」
美々子の問いに記憶を探り、真子は口を曲げた。
「意識したのは夏休み明けだけど、その前は……判んない。地下道使わない時もあったし、そっちの駅使ったりとか色々してたし。決まって地下道使うようになってから、あれ、って気付いた感じ」
桃子は大型の鉄道駅を使っている。
そっかぁ、と言ってから考えるように黙り込んだ美々子の様子に、思わず言葉を待ってしまう。美々子には何処かそうさせる所があった。
「何があるのかは判らないけど、嫌だねぇ」
返ってきた返事は、考えていた割にはたったそれだけだったが、真子は何処かほっとした気になって微笑んでいた。
「そうなんだよ。めっちゃキモいでしょ。登下校の時に毎回なんかよく判んないけど寒くなるの。超ヤダ」
「じゃあさー、今日の放課後行ってみようよ。アタシ、バイトないし」
「は?」
桃子の提案に聞き返した時、担任教師が教室に入って来たので、真子は仕方なく自分の席に戻った。ちらと桃子を見やると、「約束」とパクパクと口を動かしていた。その隣の席の美々子まで、小さく頷いてガッツポーズまでしてみせている。
真子は小さく息を吐いてから、胸に染みる冷たい感覚を思い返していた。
「なんか、思ったより普通だね」
地下道を前に、桃子が言った。
「当たり前じゃん。というか、そんなに不気味な所だったら、怖くて通れないし」
「まぁ、そっか」
ふーん、と言いながら、桃子は躊躇いなく自転車を押して地下道へと足を踏み入れていく。
真子は隣に立つ美々子に目を移した。
「行こ、っか……」
「うん」
バス通学の美々子は自転車を押していない。美々子とは反対側に自転車を押しながら、真子は地下道へと踏み入れた。
一歩踏み入れる毎に、空気がじっとりと湿り、温度が下がる。いつもなら自転車で駆け抜けてしまう場所を、ゆっくりと歩いていることに、僅かに違和感を抱いた。
「なんかさぁ、変な感じ」
「うーん、なんだか重い感じがするよねぇ」
食い違ってしまった会話を止め、美々子を見ると、美々子は不安そうに胸の前で手を組んでいた。
「怖かったら外で待っててもいいんだよ」
「ううん、真子ちゃんが──」
美々子が言い掛けた時、前の方で桃子が「わっ」と声を上げた。
目を向けた真子は、嫌な予感に身構えた。
「ね、真子! 此処でしょ、寒いの。うわ、サム。若干寒い。キモ」
そう言って自転車のスタンドを立てた桃子が、「早く」と手招きした。美々子がパッと駆け出して、途中でふいに足を止めた。ゆっくりと振り返る。
「……この辺り、だよね?」
うん、と頷いてから、真子は重い足取りで二人に歩み寄った。事実なのだと二人に知って欲しい思いはあった。しかし、いざ事実だと認められるのは、それはそれで何処か違うような気もしていた。
なんてことはない風に取り繕って言う。
「寒いでしょ?」
「寒い。それになんか気持ち悪い」
そう言って桃子は、顔を顰めながら自分の肩を抱き、腕をさすった。
その時、きょろきょろと辺りを見回していた美々子が、不思議そうに首を傾げた。
「何にもないねぇ。お地蔵さんとか」
「お地蔵さん?」
真子が聞き返すと、美々子は目を瞬いた。
「怖いこととか、嫌なことが起きる場所って、守るようにお地蔵さんが置いてあったりしない?」
「そうなの?」
「うーん、詳しくはないんだけど、なんか映画とかでそういうの見たことあるかもなーって」
ふわふわとした声が地下道に響く。真子は少し考えてから、桃子に視線を移した。桃子は先程から、スマートフォンで何やら熱心に調べ物をしている。
「で、桃子は何してるの」
桃子はすぐに答えず、スマートフォンに目を落としたまま答えた。
「あのさー、此処ってやっぱり心霊スポットらしいよ」
「……は?」
「なんかさー、上の道路で車に轢かれて死んだ人がいるんだって。それが出るらしい」
声を呑んだ真子は、もう一度「は?」と呟いた。言いようのない不安が足元から這い上ってきて、総毛立つ。
「て、てかさー、もし本当に心霊スポットだとしてさ、今此処でその話、普通、する……?」
ゆっくりと目を上げた桃子は、地下道の薄暗い照明の中でも判る程に青褪めた。
「無理。え、無理なんだけど。出よ。キモいキモい」
そう言って、桃子は自転車のスタンドを乱暴に立てると、パッと出口に走っていってしまった。真子と美々子も慌てて後を追った。
地下道から出ると、心地よい風が吹いた。肌に纏わりついていた湿った空気が僅かに軽くなる。それでも、地上の景色はいつもとは違い、何処か不気味に映った。
「それで……この道路で、人が、死んだって……?」
片側二車線の広い道路は、多くの車が行き来している。地下道があるのは、丁度交差点となっている場所だった。
「判んない……そういう風に言われてるってだけで、実際に事故があったとかのニュースが出てこないんだもん」
桃子はスマートフォンを繰りながら、気まずそうに言った。
「ねぇ、見て」
その時、美々子がポツリと呟くように言った。振り返り、美々子の指差す方に目を向けると、そこには、瓦礫の山があった。
いや、瓦礫ではない。足を模った石の周りに、崩れた石が転がっている。その崩れた石の中で、微笑みを浮かべた顔が、ひび割れて混じっているのが見えた。
「お地蔵さんじゃん!」
真子が声を上げると、桃子が「なになに⁉」と二人を見比べた。
「あー、もう嫌なんだけど。私、来週からもここ通らなきゃいけないんだよ。本当最悪。なんで此処で死んだ人が未だに出るわけ? なんで若干寒くする訳? 意味わかんない。最悪」
真子は、はぁと深く息を吐くと、その場に屈みこんだ。
「あのさー、真子……ごめんね」
桃子がおずおずと窺うように真子の前に屈みこんだ。リンリンとベルが聞こえ、地下道から自転車に乗った生徒が駆けてくる。真子達は道の端に寄って、地下道を見つめた。
ホームルームが終わったのか、ある程度の集団が地下道を抜けてくる。ある地点で必ず、一人で駆けてくる者は、ひっそりと顔を顰め、話し合いながら通る者は、妙な顔を見合わせる。
「……最悪」
「ガチのやつだこれ」
その時真子は、行きかう自転車や人の流れの中にひっそりと佇む脚を見た。
──脚。
脚はただ佇んでいる。見えているのは踵の部分だ。それが、じりと横を向き、ゆっくりと──。
ぼんやりとしていた頭がバチリと音を立てて覚醒する。
「無理。行こ」
真子はスタンドを立てると、戸惑う二人を置いて道を歩き出した。
少し手間だけれどバス通学。それが駄目なら多少遠回りでも、他の道を使おう。
もう此処は通りたくない。
週明け。登校した真子は、クラス中が心霊話で持ちきりになっているのに気が付いた。聞けば、交差点で幽霊を見たという生徒が多数居るらしい。
勿論、あの地下道の上の道路のことだ。
「え、マジ……何か、起きたってこと?」
桃子が不安そうにクラスメイトの顔を見やりながら言った。
「知んないよ。なにこれ。私が感じたのは地下道のあの寒さだけだし……今日はあそこ通ってないし」
「実は私も脚を見た」とは言えず、真子は唇を噛んだ。
──幽霊を見た、なんて、馬鹿じゃん……。くだらない。
クラス中に漂う不安感を払うように顔を上げた真子は、廊下から重い足取りで教室に入ってくる美々子に気が付き、手を上げた。
「美々子、おはよ」
美々子はすぐには答えず、じっと真子を見つめ返してから急に足早に歩み寄った。
「どうしよう」
「どうしよう?」
「見ちゃった」
「……何を?」
「男の人!」
青褪めて、不安そうにしているのに、声だけはふわふわとしている状況に笑いそうになりながら、真子がどう答えようかと考えていると、桃子が「ストーカー的な?」と顔を顰めた。
美々子がぶんぶんと首を振る。
「違うの。交差点で、男の人が手を振ってたの!」
徐々に大きくなる美々子の声に、クラス中の視線が集まる。
「男の人が手を振ってて……でも、その人、地面から生えてたの。あの交差点で……あの地下道の上に生えるようにして、手を振ってたの!」
美々子が言い終わると同時に、クラス中で悲鳴が上がった。「中西さんも見たの⁉」「そういえばバス通学だったよね⁉」とクラスメイトが集まってきて騒ぎ始める。
私も見た、何組の誰々が見た、という話が飛び交っていく。恐怖と不安感が膨れ上がり、中には泣き出す者まで現れた。
「ちょっと、貴方達、いつまで騒いでるの? 席に着きなさい!」
担任教師が教室に入ってきても、それが収まることはなかった。生徒達は担任の許に群がり、交差点の幽霊について次々に話始める。
「ガチだね……」
「……だね」
何処か他人事のような気分で言い合っていた真子と桃子の横で、美々子がへなへなと屈みこんだ。
「え、大丈夫、美々子?」
「二人とも怖くないの……?」
その問いに、二人は顔を見合わせた。
「それは、怖いけど……どうしたらいいのか判んないし。もう私はあの道通らないって決めたし。余計に時間掛かっても、あそこ通るよりはマシ」
真子の言葉に、美々子は顔を歪める。
「わ、私は、バスで、絶対、あそこ通るんだよぉ……。どうしよう」
ふわふわとした声が、今は少し凹んでいる。
真子はなんの提案も出来ずに押し黙った。
「調べてみる、とか?」
ふいに桃子が言った。
「何を?」
「あそこで起きた事件とか。男の幽霊って、上半身と脚で分かれてるんでしょ。あのお地蔵さんと同じじゃん。ってことは、お地蔵さんの呪いとか。お地蔵さんを元に戻したら幽霊も消えるとかさ」
珍しくうんうんと考えながら言う桃子に、真子は溜め息を吐いた。
「それこそ霊感少女かって。無理でしょ。私達そういうの全然判らないじゃん。それこそビーム出して幽霊倒してよって話だよ」
桃子は怠そうに「だよねぇ」と返してから、屈みこむ美々子を見下ろした。
「美々子はどうするの」
「……どうしよう」
「バス乗ってた人全員が見た訳じゃないみたいだし、今日はたまたまかもよ」
「でも、もし……本当に呪われてたとしたら?」
不安そうな美々子の声に、二人は黙り込んだ。
ある日突然姿を現した、正体不明の〝交差点の幽霊〟はその後長い間、その辺り一帯で噂されることとなった。
何故、その交差点に現れるのか。
何故、上半身と脚に分かれて現れるのか。
そもそも同一人物のものなのか。
あの場所に立つ地蔵尊はどうした由縁を持つのか。
様々な噂話や憶測は囁かれているが、未だ判っていない。
〝交差点の幽霊〟の話の最後には、誰がする話でもこう付け加えられている。
『交差点の幽霊に手を振られたら最期。あの世に連れていかれてしまう』
中西美々子の消息もまた、未だ判っていない──。




