第八話:勇者の初陣と命の重さ
王城での訓練が始まって二週間が過ぎた頃。
ミナトは国王アルトリウスから、ついに最初の「任務」を言い渡された。
「勇者ミナト殿。貴殿の素晴らしい成長は、賢者や騎士団長から聞き及んでおる。そこで、貴殿に初陣をお願いしたい」
玉座の間。国王は真剣な面持ちで地図を広げた。
「王都から西へ半日ほどの森に、ゴブリンの巣が発生した。近隣の村が襲われ、被害も出始めている。小規模ではあるが、魔王軍の尖兵である可能性も否めない」
「ゴブリン……」
(モンスター……本当にいるんだ)
「うむ。ミナト殿の力を試す、最初の任務としてはいかがかな? もちろん、騎士団長と精鋭たちを護衛につける。万全の体制だ」
「……わかりました。やらせてください」
ミナトは、腰の白銀の剣に手をやり、力強く頷いた。
翌朝。ミナトは、愛馬(もちろん王家が用意した最高級の軍馬だ)にまたがり、城門の前に立っていた。
傍らには、同じく馬上の騎士団長と、十数名の重装騎士たち。
「ミナト様、ご無理はなさらず。我らが前衛を務めますゆえ」
「ありがとうございます、騎士団長」
城のバルコニーからは、リリアーナ王女がハンカチを振り、不安そうな顔で見送っている。
「ミナト様! ご武運を……! 必ずや、ご無事でお戻りくださいましね!」
手を振り返し、ミナトは騎士団と共に森へと向かった。
(……大丈夫だ。訓練は積んだ)
スキルも完璧に使いこなせている。ステータスの上では、ゴブリンなど敵ではないはずだ。
だが、ミナトの心は重かった。
(殺すんだ……生き物を)
ゲームや映画の中だけの存在だったモンスター。だが、ここは現実だ。これから自分がやろうとしているのは、紛れもない「殺害」だった。
先日まで、いじめに耐えるだけの、殺生とは無縁だった高校生だ。その手が、命を奪えるのだろうか。
森に入ると、空気はすぐに湿っぽく、不気味なものに変わった。
「……ミナト様。気配がします。この先です」
騎士団長が静かに合図する。
馬を降り、歩を進めると、木々の開けた場所に、粗末な小屋と数体の人影が見えた。
(あれが、ゴブリン……)
緑色の醜悪な肌。背は低いが、手には錆びたナタや棍棒を持っている。ぎゃあぎゃあと、意味のない鳴き声を上げている。
それは、紛れもなく「生きていた」。
「ミナト様、ご指示を」
「……俺が、行きます」
ミナトは剣を抜き、ゆっくりとゴブリンたちに近づいた。
ゴブリンたちが、侵入者に気づく。敵意と、食欲に満ちた濁った目でミナトを捉え、奇声を上げて襲いかかってきた。
(――ッ!)
目の前に迫る、剥き出しの殺意。
それは、教室で佐藤健也たちが向けてきた、陰湿な悪意とは比べ物にならない、純粋な「害意」だった。
ミナトは、訓練通りに剣を構える。だが、振り下ろせない。
(こいつを斬れば、死ぬんだ)
躊躇。その一瞬の隙を、ゴブリンは見逃さなかった。
「危ない!」
騎士の一人がミナトを庇い、ゴブリンのナタを盾で受け止める。ガキン、と鈍い音が響いた。
「ミナト様! 躊躇はいけません! 彼らは敵です!」
騎士団長が叫ぶ。
(そうだ、敵だ……! こいつらは、村人を襲った……!)
だが、それでも、最後の一線が越えられない。
その時、別のゴブリンが、ミナトではなく、彼を庇った騎士の無防備な側面に回り込もうとするのが見えた。
「あ……!」
その瞬間、ミナトの頭の中で、何かがぷつりと切れた。
(守らなきゃ)
理屈ではなかった。
「『ファイアボール』!!」
スキル『全属性魔法適性』により、詠唱は不要。ミナトの手のひらから放たれた火球が、ゴブリンを直撃した。
「ギィッ!?」
断末魔の叫びと共に、ゴブリンは燃え上がり、黒い炭となって崩れ落ちた。
「…………ぁ」
ミナトは、自分の手のひらを見つめた。
熱い。焦げ臭い匂いが鼻をつく。
(俺が……殺した)
ぞわり、と背筋に悪寒が走り、胃がせり上がってくるような吐き気を覚える。
だが、感傷に浸る時間はなかった。残りのゴブリンたちが、仲間をやられた怒りで一斉にミナトに襲いかかってきた。
「ミナト様!」
「……大丈夫です」
ミナトは、吐き気をぐっとこらえ、剣を握り直した。
もう、躊躇はなかった。
スキル『身体能力超強化』。
世界がスローモーションになる。ゴブリンたちの振り下ろす棍棒が、子供のお遊戯のように遅く見えた。
ヒュッ。
ミナトは、その攻撃を紙一重で避け、すれ違いざまに白銀の剣を一閃させた。
ザシュッ。
鈍い手応え。ゴブリンの胴体が、綺麗に二つに分かれて崩れ落ちた。
血が噴き出し、ミナトの頬をわずかに汚す。
「……っ」
二体目。三体目。
ミナトは、何も考えなかった。ただ、目の前の「敵」を排除することだけに集中した。
剣を振り、魔法を放つ。
そのたびに、命が消えていく。
最初はあれほど重かった「殺害」という行為が、繰り返すごとに、ただの「作業」に変わっていくのを、ミナトはどこか冷静な頭で感じていた。
数分後。巣にいた十数体のゴブリンは、ミナトと騎士団によって完全に殲滅された。
「……見事です、ミナト様。お怪我は?」
「……いえ、ありません」
ミナトは、剣についた血糊を振り払い、鞘に納めた。
手の震えは、いつの間にか止まっていた。吐き気も、もう感じない。
ただ、ひどく疲れていた。
王城への帰路、騎士団長はミナトを称賛した。
「初めての実戦とは思えぬご活躍。さすがは勇者様です」
「……」
ミナトは、曖昧に頷くだけだった。
城に戻ると、リリアーナ王女が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「ミナト様! ご無事で……! ああ、よかった……!」
「ただいま戻りました、リリアーナ様」
ミナトは、彼女を安心させるように微笑んでみせた。
その笑顔は、いつもと変わらない穏やかなものだった。
だが、その瞳の奥。命を奪うという一線を越え、それに「順応」してしまった者の、冷たい光が、確かに宿り始めていた。
それは、この過酷な世界で『勇者』として生きていくために、必要な変化の兆しだった。




