第七話:王の配慮と勇者の安堵
王城での生活は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
神崎湊――ミナトは、王城の広大な庭園を見下ろすテラスで、淹れたてのハーブティーを味わっていた。
分厚いメガネも、卑屈な猫背も、もうない。上質なシルクのシャツを身にまとい、テラスの椅子にゆったりと腰掛ける姿は、数週間前まで教室の隅で怯えていた少年とは、もはや別人だった。
「ミナト様、こちらのお菓子もいかがですか? わたくしが焼いていただいたのですわ」
隣では、リリアーナ王女が甲斐甲斐しくミナトの世話を焼き、クッキーを勧めてくる。その好意は隠しようもなくあふれ出ており、ミナトも照れくささを感じながらも、素直にそれを受け取っていた。
「ありがとうございます、リリアーナ様。美味しいです」
「まあ、嬉しい!」
魔法の訓練も剣術の稽古も、スキル『超速成長』のおかげで、もはや教わる側から教える側へと回りつつある。侍従のセバスは完璧なサポートを続け、城の誰もがミナトを『勇者様』として敬ってくれる。
(本当に……夢みたいだ)
この世界に来てから、向けられるのは好意と尊敬ばかり。
あの日々が、まるで遠い悪夢のようだ。
ふと、ミナトの脳裏に、あの薄暗い教室の光景がよぎった。
嘲笑を浮かべる佐藤健也の顔。
無関心を装うクラスメイトたちの横顔。
そして――。
(田中さん……)
唯一、彼を助けようとしてくれた、地味な女子生徒。彼女も、この世界のどこかにいるはずだ。
『平民』という地位を与えられていたが、あの荒っぽい広場で、一人で大丈夫だっただろうか。
そして、高橋たち、『農奴』になった者たちは? さすがに、あの佐藤たち『罪人』と同じ扱いではないだろうが、どうしているのだろう。
「……ミナト様? いかがなさいましたの? 難しいお顔をなさって」
リリアーナが、心配そうにミナトの顔を覗き込む。
「あ、いえ……少し、一緒に転生してきた他の人たちのことを思い出して」
「ああ、ミナト様の『ご学友』の方々ですわね」
「はい。みんな、元気にしているのかな、と」
その時、ちょうど公務の合間にテラスを通りかかった国王アルトリウスが、二人の会話を耳にした。
「おお、ミナト殿。ちょうどよいところに。リリアーナ、勇者様とのお時間を邪魔してすまんな」
「お父様!」
「国王陛下」
ミナトが立ち上がって一礼すると、国王は「楽になされ」と鷹揚に手を振った。
「他の転生者たちのこと、気にしておられたかな?」
国王は、ミナトの心中を察したように尋ねる。
「はい。彼らが今、どうしているのか、もしご存知でしたら……」
ミナトがそう尋ねると、国王は「うむ」と穏やかに頷いた。
国王アルトリウスは、もちろん彼らの現状を正確に把握していた。
ミナトを『勇者』として王城に迎え入れたあの日、彼は衛兵隊長から他の転生者たちの処遇についての報告を受けている。
『罪人』と『奴隷』――佐藤健也たちは、神託通り、王都から最も離れた鉱山へ。
『農奴』たちは、開拓地での強制労働へ。
そして、『平民』の少女(田中美咲)は、ギルドの職員として採用された、と。
(勇者殿には……余計な心労をおかけするわけにはいかぬ)
国王は瞬時に判断した。
女神セレスティーナ様が、ミナトをあれほどまでに依怙贔屓し、手厚く保護しているのだ。そのミナトに対し、
「あなたの元クラスメイトたちは、最底辺の労働者として泥にまみれています」
などと、正直に報告できるはずがなかった。
それはミナトの精神を揺さぶり、魔王討伐という大義に迷いを生じさせかねない。女神の寵愛を失う危険さえある。
国王は、為政者としての、そして女神の神託を受けた者としての「配慮」を込めて、柔和な笑みを浮かべた。
「心配には及びませんぞ、ミナト殿。皆、それぞれ新しい環境で、元気にやっておると報告を受けております」
「本当ですか?」
「うむ。中には、君と同じようにギルドに登録し、職員として生き生きと働いている者もいるとか(田中美咲のこと)。また、開拓地で汗を流している者たちも(農奴たちのこと)、『この世界に貢献できる』と、皆、使命感に燃えて張り切っているそうですぞ」
それは、嘘ではなかった。
ただ、その「張り切り方」が、希望によるものか、あるいは鞭によるものか、という決定的な事実を省略しただけだ。
「そう、でしたか……」
ミナトは、その言葉に、心の底から安堵した。
(よかった。みんなも、ちゃんと……頑張ってるんだ)
特に田中さんのことが気がかりだったが、「ギルドで生き生きと」という言葉に、彼女がうまくやっている姿を想像し、胸を撫で下ろした。
自分だけが恵まれているという、心のどこかにあった微かな罪悪感が、その国王の言葉によって綺麗に洗い流されていく。
「皆もそれぞれの場所で頑張っている。……なら、俺も、俺のやるべきことをやらないと」
ミナトは、リリアーナと国王に向かって、決意を新たにした表情で微笑んだ。
「国王陛下。ありがとうございます。安心しました。魔王討伐に向けて、俺も全力を尽くします」
「おお! さすがは勇者殿。頼もしい限りだ!」
国王は、ミナトの純粋な安堵と決意の表情に満足げに頷いた。
(これでよいのだ。勇者殿には、ただ、光の道を歩んでいただければ……)
ミナトは、他のクラスメイトたちが置かれた過酷な現実など知る由もなく、ただひたすらに、勇者としての道を邁進していく。
王の優しい嘘に守られて。




