第六十一話:女神の癇癪(かんしゃく)と、世界の初期化(フォーマット)
『……痛い』
女神セレスティーナは、濡れた指先についた赤い血を見つめ、わなわなと震えていた。
『痛い、痛い痛い痛い痛い!!』
彼女の美しい顔が、ぐしゃりと崩れる。
それは恐怖でも、悲しみでもない。
自分の「絶対性」を汚されたことへの、生理的な嫌悪と、無限の憎悪。
『よくも……よくも、わたくしに傷を! 下等生物風情が! プログラムのゴミ屑が!!』
ブチッ。
何かが切れる音がした。
女神の背中の六枚の翼が、どす黒く変色し、不規則に肥大化していく。
美しい天空の庭園が、黒いノイズに蝕まれ、ガラガラと崩れ落ち始めた。
「……おい」
ミナトが身構える。
女神の様子がおかしい。魔力が暴走し、周囲の空間を無差別に食い荒らしている。
『もう、いりません』
女神が、血走った目でミナトを、そしてその下の世界を見下ろした。
『貴方のようなバグを生み出した世界など、失敗作です。汚らわしい。見るのも不愉快です』
『リセットしましょう。……いいえ、今度はリセット(巻き戻し)ではありません』
彼女は、両手を広げ、天に向かって絶叫した。
『「世界初期化」!!』
『全て消して、更地に戻しなさい! 人間も、魔族も、歴史も、記憶も!!』
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!!!
異変は、天界だけでなく、地上全土で同時に発生した。
空がガラスのようにひび割れ、そこから「無色の虚無」が溢れ出す。
山が、海が、街が。
虚無に触れた端から、ポリゴンの欠片となって分解され、消滅していく。
「な……っ!?」
ミナトは眼下の惨状に息を呑んだ。
地上では、逃げ惑う人々が、足元の地面ごと消えていくのが見える。
王都アルカディアも。
高橋たちがいる場所も。
全てが「削除対象」として処理され始めている。
「てめぇ……ッ!!」
ミナトが吠える。
「気に入らないから消すだと!? そこには何億もの命があるんだぞ!」
『知ったことですか!!』
女神がヒステリックに叫び返す。
『わたくしの世界です! わたくしが壊して何が悪いのです!』
『貴方のせいですわよ、ミナト! 貴方が大人しく殺されていれば、次のリセットまで遊ばせてあげたのに!』
『貴方が逆らうから! わたくしを不快にさせたから! だからみんな消すのです!!』
論理も、慈悲もない。
ただの「八つ当たり」による大量虐殺。
これが、この世界を支配していた神の本性だった。
「……上等だ」
ミナトの体から、黄金の光が噴き出した。
限界を超えた『改竄』の代償で、目から、鼻から、金色の血が流れ出る。
だが、彼は笑った。
「そこまで腐ってるなら、遠慮はいらねえ」
ミナトは、崩壊する足場を蹴り、空中に浮かぶ女神へと突っ込んだ。
「その腐った性根ごと、俺がデリートしてやる!!」
『触れるなァァァッ!!』
女神の翼から、黒い雷撃が放たれる。
一撃一撃が、魔王の最大魔法に匹敵する威力。
「邪魔だッ!」
ミナトは、飛んでくる雷撃を、拳で殴り飛ばし、足で蹴り砕いた。
『魔法防御』――最大。
『痛覚遮断』――オン。
『自動修復』――常時展開。
肉が焼ける匂いがする。骨が砕ける音がする。
それでもミナトは止まらない。
(間に合え……!)
地上の崩壊速度は速い。あと数分で、王都が飲み込まれる。
その前に、この「中枢」を破壊し、プロセスを強制停止させるしかない。
『なぜ死なない! なぜ壊れない!』
女神が後退る。
血まみれで、鬼の形相で迫ってくるミナトが、初めて「恐怖の対象」に見えた。
「俺は勇者じゃない……」
ミナトが、女神の懐に飛び込む。
「俺は、お前が作ったシステムを食い破る……ウイルスだ!」
『いやぁぁぁぁぁっ!!』
女神が、とっさに自分自身を結晶化させ、強固な殻に籠もろうとする。
「逃がすかよッ!!」
ミナトは、右手に残った全ての魔力と、生命力を収束させた。
剣はいらない。
スキルもいらない。
必要なのは、このふざけた理不尽を終わらせる、ただ一点の「殺意」。
「高橋、田中さん、陛下、ギルガメス……」
「みんなの未来を、返せェェェェェッ!!」
ドズゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
ミナトの拳が、女神の結晶の殻を貫通し、その奥にある本体――心臓部へと突き刺さった。
「ガ……ッ、ア……!?」
女神の動きが止まる。
世界の崩壊が、一時停止する。
ミナトの腕は、女神の胸を貫き、背中まで突き抜けていた。
「……チェックメイトだ、セレスティーナ」
ミナトは、ゼロ距離で女神を睨みつけた。
「ゲームオーバーは、お前の方だ」
神の心臓を掌握。
暴走する神と、崩壊寸前の世界。
物語は、最後の選択へと委ねられる。




