第五十八話:もう一つの『鍵』、聖なる生贄(いけにえ)
天の塔の内部は、異様な空間だった。
壁も床も、果てしなく続く螺旋階段も、すべてが純白の素材でできており、有機的な気配が一切ない。まるで、巨大な機械の中枢に迷い込んだかのようだ。
ミナトは、螺旋階段を駆け上がっていた。
(……妙だな)
敵がいない。
塔に入れば、女神の配下が待ち構えていると思ったが、静寂だけが支配している。
数分ほど駆け上がったところで、階段が途切れ、巨大な「扉」が行く手を阻んだ。
扉には、二つの窪みがある。
左側の窪みは黒く、右側の窪みは白く輝いている。
ミナトは、懐から『魔王の核』を取り出し、左側の黒い窪みに嵌め込んだ。
ガチリ。
重い音がして、黒い光が走る。
だが、扉は開かない。
『……残念でしたね。鍵は一つでは足りませんわ』
空間に、あの冷徹な声が響いた。
ホログラムのように、空中に女神セレスティーナの姿が投影される。
「セレスティーナ……!」
ミナトが睨みつける。
『この世界は「光」と「闇」の均衡で成り立っています。闇の杭である魔王の核だけでは、天界への道は開きません』
「……もう一つの鍵は、どこだ」
『貴方は、先ほどすれ違いましたよ?』
女神は、クスクスと笑った。
『「光」の杭。……それは、わたくしの言葉を地上に伝える代弁者、教皇の心臓です』
「!」
ミナトは、塔の入り口を振り返った。
あそこで腰を抜かしていた、あの老人。
ミナトは、「戦う価値もない」と見逃した。殺さずに済ませた。
『貴方の「甘さ」が仇になりましたね。……彼を殺して心臓を抉り取れば、扉は開いたものを』
「ふざけるな。……俺は、もう人間は殺さない」
『ええ、知っています。ですから……』
女神の映像が、歪な笑みを浮かべた。
『わたくしが、殺させて差し上げます』
ズズズズズ……ッ!
塔の下層から、異様な地響きと、絶叫が聞こえてきた。
「ギャアアアアアアッ! 熱い! 熱い! 女神様、お助けをォォォ!!」
あの教皇の声だ。
「何をした!」
『彼に、ありったけの「祝福(呪い)」を注ぎ込みました。……光の鍵としての役割を果たすために、ね』
ドォォォン!!
階段の下から、何かが猛スピードで飛来し、ミナトの背後に着地した。
「……う、あ……」
そこにいたのは、もはや人間ではなかった。
豪奢な法衣は引き裂かれ、背中からは骨と肉が癒着したような、歪な「白い翼」が生えている。
眼球は飛び出し、口からは涎と共に、過剰な神聖力が白い煙となって漏れ出していた。
教皇だったモノ。
女神によって無理やり「天使(怪物)」へと作り変えられた、成れの果て。
『さあ、殺しなさいミナト』
女神が嘲笑う。
『彼を殺して鍵(心臓)を奪わなければ、貴方はここから進めません』
『それとも、殺せずにここで朽ち果てますか?』
ミナトは、異形の怪物を見つめ、ギリッと歯を食いしばった。
(……こいつは、腐った権力者だった)
(俺を魔神と呼び、扇動した敵だ)
(……だけど)
「……殺して……くれ……」
怪物の口が、微かに動いた。
「苦しい……痛い……殺して……」
ミナトの胸に、怒りが爆発した。
教皇に対してではない。
信者であろうと、代弁者であろうと、用済みになれば平気で怪物に変え、同士討ちをさせる。
この悪趣味な「女神」に対して。
「……安心しろ」
ミナトは、剣を抜いた。
その瞳は、凍てつくほどに冷たく、そして悲しかった。
「すぐに、楽にしてやる」
「オオオオオオオオッ!!」
怪物が、理性を失って襲いかかってくる。
神聖力を纏った爪が、ミナトの喉元に迫る。
ミナトは避けない。
一歩、踏み出す。
「『一閃』」
白銀の軌跡が、怪物の胸――心臓部を正確に貫いた。
「ガ……ッ」
怪物の動きが止まる。
ミナトは、そのまま剣を引き抜かず、そっと怪物の体を支えた。
「……女神への恨みは、俺が全部背負ってやる」
「だから……眠れ」
怪物の瞳から、狂気が消え、一瞬だけ人間の光が戻った。
「……あり……がと……」
光の粒子となって、怪物の体が崩れ去る。
後に残ったのは、白く輝く結晶石――『聖なる鍵』だけだった。
ミナトは、それを拾い上げた。
温かい。まだ、人の命のぬくもりが残っている気がした。
ミナトの手の中で、パキ、と小さな音がした。握りしめすぎて、ヒビが入りそうだった。
『あら、やればできるではありませんか』
女神の声が、楽しげに響く。
『それでこそ「魔神」ですわ。信者を殺し、その命を踏み台にする……』
「黙れ」
ミナトは、低い声で遮った。
彼は、白い鍵を扉の窪みに叩き込むように嵌めた。
ガコンッ!
扉が重々しく開き、まばゆい光が溢れ出す。
「首を洗って待っていろ、セレスティーナ」
ミナトは、光の中へと足を踏み入れた。
「お前だけは……絶対に、俺の手で終わらせる」
二つの鍵は揃った。
犠牲になった魔王と、怪物にされた教皇。
光と闇、二つの死を背負い、神崎湊はついに、神の座する最上階へと至る。




