第五十一話:幻惑の霧と、優しき刃
王国の西部、港湾都市リゼル。
海に面した美しいこの街は、今、異様な静寂と、甘ったるいピンク色の霧に包まれていた。
「……静かすぎる」
東の空から飛来したミナトは、上空で足を止めた。
南の戦場のような破壊音も、東のような爆発音もない。
街は無傷だ。建物も壊れていない。
だが、街路を埋め尽くしているのは、魔物ではなく、人間たちだった。
ミナトが広場に降り立つと、市民や駐留していた騎士たちが、一斉に彼の方を向いた。
彼らは武器を手にしている。だが、その顔には恐怖も戦意もない。
全員が、うっとりとした、虚ろな「笑顔」を浮かべていた。
「あ、勇者様だ……」
「素敵……殺して差し上げなきゃ……」
「愛してるわ、だから死んで?」
ゾクリ、とミナトの背筋が凍る。
市民たちが、夢遊病者のように、しかし殺意を込めて襲いかかってくる。
「くっ……!」
ミナトは剣を振れない。相手は守るべき人間だ。
彼は紙一重で剣撃や魔法を躱し、手刀で彼らの意識を刈り取っていく。
「眠れ!」
バタバタと倒れていく市民たち。だが、数が多すぎる。数千人の市民全員が、狂気の傀儡と化しているのだ。
「ウフフ……。お優しいのね、元・勇者様」
霧の奥から、鈴を転がすような艶めかしい声が響いた。
空間が揺らぎ、一人の女が現れる。
露出度の高いドレスを纏い、背中に蝙蝠の翼を生やした、絶世の美女。
四天王『幻惑のカーミラ』。
「人間なんて、壊してしまえば楽になれますのに」
カーミラは、赤い宝玉――女神の『神の雫』を口元で弄びながら微笑んだ。
「貴女が、元凶か」
ミナトが睨みつける。
「ええ。女神様からいただいたこの力……素晴らしいわ。私の『魅了』が、視界に入る全ての生物を支配する『絶対隷属』に昇華されたのですもの」
カーミラが指を鳴らすと、倒れていた市民たちが、無理やり体を起こし、再びミナトに群がり始めた。
「私の愛する人形たちよ。勇者様を抱きしめて(殺して)あげなさい」
「やめろッ!」
ミナトは叫ぶ。
力でねじ伏せることはできる。魔法で吹き飛ばすこともできる。
だが、それをすれば、市民たちは死ぬ。
(……卑怯な)
圧倒的な力を持ちながら、手足をもがれたような感覚。
「アラ、まだ抵抗なさるの?」
カーミラは、つまらなそうに溜息をついた。
「他の四天王がやられたと聞いて警戒していましたが……これなら、私の『とっておき』を使うまでもありませんでしたわね」
「とっておき、だと?」
「ええ。……貴方、この街に『誰』がいるか、ご存知?」
カーミラの言葉に、ミナトの心臓が跳ねた。
霧が晴れ、カーミラの背後から、一人の少女が姿を現す。
ギルドの制服。地味な髪型。
だが、その瞳からは光が消え、代わりに不気味なピンク色の光が宿っていた。
「……田中、さん……?」
そこにいたのは、田中美咲だった。
彼女は、震える手で短剣を握りしめ、ミナトの前に立ちはだかった。
「……ミナト、さま……」
美咲の口から、自分の意志とは裏腹な、操られた言葉が漏れる。
「敵……殺さなきゃ……女神様の、敵……」
彼女の頬を、涙が伝っていた。
体は操られているが、意識に抗う心が、悲鳴を上げているのだ。
「素晴らしいでしょう?」
カーミラが歓喜の声を上げる。
「ギルドの任務で、たまたまこの街に来ていたようですわ。……貴方の記憶を覗かせていただきましたが、彼女、貴方にとって『特別』なんですって?」
ミナトの手が、震えた。
東のロキは、罠で殺そうとした。
南のベルセルクは、力で殺そうとした。
だが、この女は。
ミナトの「心」を、最も残酷な方法で殺そうとしている。
「さあ、どうします?」
カーミラは、美咲の背後に隠れるようにして、ニヤリと笑った。
「私を斬るには、彼女ごと斬るしかありませんわよ?」
「それとも、愛する彼女に刺されて死にますか?」
「う……あ……!」
美咲が、叫びながら突進してくる。
その切っ先は、ミナトの心臓を正確に狙っていた。
ミナトの身体能力なら、避けるのは容易い。剣を弾くのも造作もない。
だが、今の彼女は、女神の力で限界を超えて身体強化されている。下手に触れれば、その反動で彼女の骨が砕け散るかもしれない。
(どうする……!)
(俺は、彼女を守るために、強くなったんじゃないのか!?)
ミナトは、剣を下ろした。
避けない。反撃しない。
「……ッ!!」
美咲の短剣が、ミナトの胸――心臓を外し、肩口に深々と突き刺さった。
「が……っ!」
鮮血が散る。
「ミナト様!?」
美咲の意識が、自分の行いに絶叫する。
「……馬鹿な男」
カーミラが嘲笑う。
「そのまま、なぶり殺しにされなさい!」
ミナトは、刺された肩の痛みに顔を歪めながらも、目の前の美咲を、そっと抱きしめた。
「……大丈夫だ、田中さん」
耳元で、優しく囁く。
「俺は、もう逃げない」
「君も、君の心も。……絶対に、俺が守る」
ミナトの瞳から、迷いが消えた。
物理的な解決ではない。
今の彼には、女神の理すら書き換える、「あの力」がある。
「……カーミラ」
ミナトは、美咲を抱きしめたまま、四天王を睨みつけた。
「お前の『支配』と、俺の『解放』。……どっちが上か、勝負だ」
ミナトの全身から、まばゆい光が溢れ出した。
それは攻撃魔法ではない。
彼のギフトの根源――『女神の祝福』による、理への干渉。
「――『状態異常・無効化』!!」
西の戦場。
最後の四天王に対し、ミナトは「力」ではなく、「癒やし」の光で対抗する。




