第五話:平民 田中さんの新しい日常
田中美咲は、衛兵に指示された「冒険者ギルド」の巨大な木製の扉を、恐る恐る押し開けた。
カラン、とカウベルの乾いた音が鳴る。
途端に、むっとするほどの熱気、酒と汗の匂い、そして騒々しい怒号のような話し声が彼女を包んだ。
(こ、こわい……)
ギルドの中は、美咲が想像していた以上に荒々しい場所だった。
あちこちのテーブルで、傷だらけの顔をした屈強な男たちがジョッキを打ち鳴らし、壁には「ゴブリン討伐」「鉱石採集」といった物騒な依頼書が所狭しと貼られている。
場違いな少女の登場に、何人かの視線が突き刺さる。美咲はびくりと肩を震わせ、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながら、奥にある受付カウンターへと足早に向かった。
「あ、あの……!」
カウンターの向こうでは、キツネの耳を生やした活発そうな女性職員が、うんざりした顔で書類をさばいていた。
「はいはい、何? 依頼ならあっちの掲示板。登録? また『転生者』?」
女性職員――エルマは、昨日から続々と連行されてくる『農奴』たちの対応に追われ、少々苛立っていた。
「い、いえ、あの、衛兵さんに『平民』として登録を、と……」
「『平民』?」
エルマは、面倒くさそうに顔を上げた。だが、美咲のステータス(それはギルド職員には見えるようになっている)を確認すると、わずかに目を見開いた。
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名前:タナカ・ミサキ
地位:平民
ギフト:生活魔法
スキル:『ウォーター』『クリーン』『ドライ』『スモールヒール』
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「……あら、本当だわ。『平民』で、しかも『生活魔法』持ち?」
エルマの態度が、苛立ちから興味へと変わる。
「ちょっとこっち来て。登録用紙に名前を書いて」
促されるままに、美咲は震える手で、見慣れない羊皮紙にサインをした。幸い、文字は『自動翻訳』スキルのおかげか、自然とこの世界の文字で書くことができた。
「タナカ・ミサキ、ね。ミサキ、あなた、そのスキル、使える?」
「は、はい。たぶん……」
「ちょっとやってみて。そこの、泥だらけのカップに『クリーン』を」
エルマが指差したのは、先ほどまで冒険者が使っていたであろう、泥と謎の液体で汚れた金属製のカップだった。
美咲は、教えられたばかりの力に祈るように意識を集中する。
「『クリーン』!」
ふわり、とカップが淡い光に包まれる。光が消えた時、あれほど汚れていたカップは、まるで新品のようにピカピカに輝いていた。
「……すごい」
エルマが、素直な感嘆の声を漏らした。
「『ウォーター』と『ドライ』も使えるってことは、洗濯も一瞬ね。……それと、『スモールヒール』は?」
「あ、それは……」
「ちょうどいいわ」
エルマは、わざとらしく依頼書の束の角で、自分の指先に小さな切り傷を作った。
「はい、これ。治せる?」
「や、やってみます! 『スモールヒール』!」
美咲が恐る恐るその指に手をかざすと、柔らかな光が傷を包み、痛々しかった切り傷が、すぅっと塞がっていく。
「……決まりね」
エルマは満足げに頷くと、カウンターの奥に向かって叫んだ。
「ギルド長ー! 今年の新人で、大当たり引きましたよー!」
数分後。美咲は、ギルドの奥にある小さな事務所で、ギルド長と呼ばれる恰幅のいいドワーフの男と向かい合っていた。
「うむ。ミサキ嬢、といったな」
ギルド長は、エルマから報告を受け、ご機嫌な様子で髭をしごいている。
「君のような『生活魔法』の使い手は、貴重なのだ。特に『クリーン』と『スモールヒール』を両立できる者はな」
ギルド長は、美咲にいくつかの選択肢を示した。
一つは、町の洗濯屋や宿屋で働くこと。間違いなく引く手あまただろう。
もう一つは、冒険者パーティに「ヒーラー見習い」として所属すること。ただし、『スモールヒール』では本格的な戦闘の怪我は治せず、危険が伴う。
「そして、三つ目の選択肢だ」
ギルド長は、ニヤリと笑った。
「このギルドで、職員として働かんか?」
ギルドは、常に怪我と汚れがつきものだった。
冒険者たちが持ち帰る装備は血と泥にまみれ、討伐の証拠品は異臭を放つ。そして、彼ら自身も、依頼から戻れば生傷が絶えない。
「君の魔法があれば、装備の洗浄も、軽傷の手当ても、ギルド内で完結できる。職員用の宿舎も、食事も、給金も出そう。どうだね?」
それは、美咲にとって望外の申し出だった。
他のクラスメイトたちが『農奴』として過酷な労働に従事させられているであろう中、自分は安全なギルドの中で、自分の力を必要とされる仕事に就ける。
「や、やります! 私でよければ、よろしくお願いします!」
美咲は、深く、深く頭を下げた。
こうして、田中美咲の新しい生活が始まった。
ギルドの裏手にある、清潔だが簡素な職員寮の一室。それが彼女の新しい住処だ。
彼女の仕事は、ギルドの医務室での手伝いと、冒険者が持ち込んだ装備の洗浄だった。
「お嬢ちゃん、助かるぜ! こいつ(剣)の血糊、いつも取るの大変だったんだ!」
「ありがとうよ、おかげで傷が痛まねえ!」
最初は物騒な見た目に怯えていた冒険者たちも、美咲の魔法の恩恵を受けると、皆、彼女に感謝の言葉を口にした。
(よかった……私にも、できることがあったんだ)
華やかな生活ではないけれど、自分の力で日々の糧を稼ぎ、人から「ありがとう」と言われる。
それは、教室の隅で息を潜め、無力感に苛まれていた昨日までの彼女にはなかった、確かな手応えだった。
夜、小さな宿舎の窓から、遠くに見える王城を見上げる。
(神崎くん……勇者様は、あそこにいるんだよね)
女神様は、彼を厚遇すると言っていた。あの優しい彼のことだから、きっと今頃、勇者として大変な責務を負っているのかもしれない。
(私も、頑張らなくちゃ)
彼が救おうとしているこの世界で、自分も自分の居場所を見つけたのだ。
美咲は、ささやかだが確かな希望を胸に、異世界での第一歩を、力強く踏み出した。




