第四十三話:一万対一(ワン・マン・アーミー)
「グ……ガ……ッ!」
バッカスは、切り落とされた右腕の断面を押さえ、脂汗を流しながら後退した。
痛みよりも、驚愕が勝っていた。
(見えなかった……! この我が、人間の剣速に反応すらできなかっただと!?)
目の前の小柄な男から放たれるプレッシャーは、魔王城で謁見する魔王のそれに匹敵、いや、異質な鋭さにおいてはそれを凌駕していた。
(勝てぬ……!)
本能がそう告げている。一対一でやれば、次は首が飛ぶ。
だが、ここは戦場だ。騎士道など存在しない。
バッカスは、醜悪に顔を歪め、背後の黒い海――数万の軍勢に向かって咆哮した。
「何をしている、ウスノロども!!」
「奴は一人だ! 囲め! 押し潰せ!!」
「そして――後ろの人間どもを狙え!!」
その命令に、硬直していた魔物の群れが、弾かれたように動き出した。
「「「グオオオオオオ!!!」」」
オーク、ゴブリン、オーガ……。
地平線を埋め尽くす暴力の濁流が、一斉に雪崩を打って押し寄せる。
狙いはミナトだけではない。彼の背後で震える、無防備な数百人のクラスメイトたちだ。
「ひっ……!」
「来る……! 無理だ、こんな数!」
高橋たちが、再びパニックに陥る。
ミナトがいくら強くても、剣は一本しかない。一万の軍勢が四方八方から殺到すれば、守りきれるはずがない。
ミナトは、迫りくる黒い波を、冷めた瞳で見つめた。
(……やっぱり、そう来るか)
「おい」
ミナトは、背中越しに高橋たちに声をかけた。
「え……?」
「動くなよ。……俺の射線から出るな」
ミナトは、剣を鞘に納めた。
そして、両手をゆったりと広げ、押し寄せる軍勢の正面に立った。
「なっ……武器を捨てた!?」
「諦めたのか!」
魔物たちが、勝利を確信して加速する。
先頭集団まで、あと五十メートル。三十メートル。十メートル。
ミナトが、小さく息を吸った。
ハーピークイーンとの戦いで、彼は感情に任せて魔法を暴走させた。
だが、今の彼は、怒りも殺意も、完全にコントロール下に置いている。
今の彼なら、女神のギフト(全属性魔法適性)の真価を、100%引き出せる。
「――『合成魔法』」
ミナトの周囲に、赤(火)と緑(風)の魔法陣が同時に展開される。
「火」の爆発力に、「風」の拡散性と切断力を乗せる。
単純だが、今のミナトの魔力総量でそれを放てば、それは天災になる。
「『紅蓮旋風』」
ゴオオオオオオオオオオオオッ!!!!
ミナトの両手から放たれたのは、炎の竜巻だった。
だが、それは通常の魔法の規模ではない。
高さ数十メートル、横幅数百メートルに及ぶ、視界の全てを焼き尽くす灼熱の暴風が、扇状に広がり、魔王軍の前衛を飲み込んだ。
「ギ……ッ!?」
「グギャアアアアアア!!」
先頭を走っていた数千匹の魔物が、悲鳴を上げる間もなく、炎の刃に切り裂かれ、瞬時に灰へと変わる。
圧倒的な熱量。
だが、背後にいる高橋たちには、熱風ひとつ届かない。完璧な魔力制御。
「……は?」
バッカスは、開いた口が塞がらなかった。
一撃。
たった一撃で、自慢の軍勢の三分の一が、消滅した。
炎が晴れると、そこには、黒く焦げた大地と、何事もなかったかのように立つミナトの姿だけがあった。
「……次は?」
ミナトが、退屈そうに問う。
「ば、化け物め……!」
バッカスは恐怖に震えた。
(こいつは勇者じゃない……魔王だ!)
「ええい、怯むな! 突撃だ! まだ数はいる!」
バッカスは部下を督戦しようとするが、魔物たちはミナトの圧倒的な力に恐れをなし、後ずさり始めている。
「行かないなら、こっちから行くぞ」
ミナトが、一歩踏み出した。
「『身体能力超強化』」
ドンッ!
爆発音と共に、ミナトの姿が消える。
次の瞬間、彼は軍勢の真っ只中にいた。
「なっ、貴様ッ!」
指揮官であるオーガジェネラルの首が、認識する前に飛ぶ。
ミナトは、一万の軍勢の中を、まるで散歩でもするかのように駆け抜けた。
彼が通った後には、魔物たちの死体の道ができる。
剣を振るうたびに衝撃波が走り、直線上の敵が吹き飛ぶ。魔法を放てば、一帯が更地になる。
「ひ……ひいいっ!」
「逃げろ! 勝てねえ!」
魔王軍が、崩壊した。
恐怖が連鎖し、我先にと背を向けて逃げ出し始める。
「待て! 逃げるな! 貴様ら、魔王様への忠誠はどうした!」
バッカスが叫ぶが、誰も聞く耳を持たない。
ミナトは、逃げる雑魚には目もくれず、戦場に取り残されたバッカスへと、ゆっくり歩み寄った。
「……さて」
ミナトは、血の一滴もついていない剣を、バッカスに向けた。
「お前らのボス(魔王)に、伝言がある」
「……な、何だ……」
バッカスは、腰を抜かし、後ずさりながら問うた。
四天王としての威厳は、完全に粉砕されていた。
「『女神と手を組んだことを、後悔させてやる』」
「『首を洗って待っていろ』……とな」
ミナトの瞳が、冷たく光った。
「言えるか?」
「い、言える! 伝える! だから……!」
「よし」
ザシュッ。
「ガ……ッ?」
バッカスの視界が、回転した。
首から下が、自分の意志とは無関係に崩れ落ちるのが見えた。
「……でも、お前を生かして返すとは言ってない」
ミナトは、転がったバッカスの首に、冷たく言い放った。
「俺の国を荒らした代償は、命で払え」
四天王、討伐完了。
所要時間、わずか数分。
数万の軍勢は壊滅、あるいは敗走。
それは、戦いではなく、一方的な「蹂躙」だった。
静寂が戻った荒野で、ミナトは剣を納め、ゆっくりと振り返った。
そこには、腰を抜かし、開いた口が塞がらないままの、数百人のクラスメイトたちがいた。
高橋と、視線が合う。
「……か、かんざき……」
高橋の声は震えていた。
それは、かつての「侮蔑」でも、先日までの「逆恨み」でもない。
圧倒的な「隔絶」を見せつけられた者の、純粋な「畏怖」だった。
ミナトは、彼らに向かって歩き出した。
再会の言葉は、まだない。
ただ、圧倒的な「勇者」の背中を見せつけた事実だけが、そこに残った。




