第四十二話:暴虐の斧と、帰還した『逃亡者』
北の開拓地。
そこは、この世の終わりのような光景が広がっていた。
「あ……あ……」
高橋は、震える膝を抱え、地面に座り込んでいた。
周囲には、同じ『農奴』のクラスメイトたちが、悲鳴を上げる気力もなく、ただ絶望的な表情で立ち尽くしている。
監視していた衛兵たちは、魔王軍の接近を知るや否や、我先にと逃げ出した。武器も持たない彼らだけが、荒野に取り残されたのだ。
ズシン、ズシン、と地響きが近づいてくる。
地平線を黒く染める、魔物の軍勢。
その先頭を歩くのは、見上げるごとき巨躯の怪物だった。
身長は3メートルを超え、隆起した筋肉は鋼鉄の鎧のよう。頭部は巨大な牡牛。手には、人間一人を容易く両断できそうな、巨大な戦斧が握られている。
魔王軍四天王、『剛力のバッカス』。
「ブモォォ……。脆い、脆いな、人間どもの砦は」
バッカスは、鼻息荒く嗤った。
「女神の結界がなければ、蟻を踏み潰すのと変わらぬわ」
彼の背後では、オークやゴブリンたちが、残虐な笑みを浮かべて獲物を物色している。
バッカスの視線が、高橋たちに向けられた。
「ん? なんだ、あの薄汚い連中は」
「ヘヘッ、将軍。ありゃあ、人間どもが捨てていった奴隷でしょう」
「捨て駒か。……哀れよな。だが、慈悲はやらん」
バッカスは、つまらなそうに戦斧を振り上げた。
「まとめて挽肉にしてくれるわ!」
「い、いやだ……!」
「助けて……!」
クラスメイトたちが身を寄せ合う。
高橋は、死の恐怖の中で、ふと、ある男の顔を思い出した。
(カンザキ……)
あの日、ここで自分たちを見捨てて逃げた男。
(畜生……あいつだけ……あいつだけ、逃げ切りやがって……!)
最期の瞬間まで、彼らは他者を恨むことしかできなかった。
戦斧が、風を切り裂いて振り下ろされる。
圧倒的な質量と速度。
誰もが死を覚悟し、目を閉じた。
ガギィィィィィィンッ!!!
轟音。
そして、強烈な衝撃波が周囲の砂塵を巻き上げた。
「……え?」
高橋は、痛みが来ないことに恐る恐る目を開けた。
「……な、なんだ!?」
バッカスが、驚愕の声を上げている。
そこには、信じられない光景があった。
バッカスの巨大な戦斧を、たった一本の、白銀の剣が受け止めていた。
その剣を握っているのは、小柄な――バッカスに比べれば子供のように小さな、一人の人間。
「……間に合ったか」
涼やかな、しかし絶対的な落ち着きを払った声。
その男は、戦斧の凄まじい圧力を受け流すと、トン、と軽くバックステップを踏み、高橋たちと魔王軍の間に立った。
「か……神崎……?」
高橋の声が裏返る。
そこに立っていたのは、間違いなく、彼らが「卑怯者」「人殺し」と罵り、石を投げつけた相手、神崎湊だった。
「キサマ……何者だ?」
バッカスが、目を細めて唸る。
「我の一撃を止めるとは、ただの人間ではないな」
ミナトは、剣についた砂埃を払い、バッカスを見上げた。
以前の彼なら、Sランク級の魔圧に、あるいは「また殺し合いか」という忌避感に、心が揺らいだかもしれない。
だが、今のミナトの瞳には、何の揺らぎもなかった。
「……通りすがりの、『元・勇者』だ」
ミナトは淡々と答えた。
「女神のシナリオ通りに死ぬのが癪だから、邪魔しに来た」
「元勇者だと? ……フン、女神に見捨てられた『反逆者』か!」
バッカスは嘲笑した。
「ならば、なぜここに来た? そこのゴミどもを守るためか? 女神に捨てられ、人間に捨てられたお前が、今更『正義の味方』ごっこか?」
背後で、高橋たちが息を呑む。
そうだ。自分たちは、ミナトを拒絶した。罵倒した。
助けられる道理など、一つもない。
ミナトは、チラリと背後のクラスメイトたちを一瞥した。
その瞳は、冷たくはなかったが、熱くもなかった。
「……勘違いするな」
ミナトは、静かに言った。
「俺は、こいつらを『許した』わけじゃない。仲良しこよしに戻るつもりもない」
「じゃあ、なんで……!」
高橋が叫ぶ。
「ただ、気に入らないだけだ」
ミナトは、バッカスに向き直り、剣を構えた。
「女神が、お前ら(魔王軍)を使って、この国を絶望させようとしているのが」
「俺の知ってる人間が、盤面の上で、ゴミみたいに掃除されるのが」
「全部、あの女神の思い通りに進むのが、死ぬほど気に入らない」
ミナトの全身から、凄まじい魔力が立ち昇る。
それは、女神から与えられた「祝福」の輝きではない。
ミナト自身が、葛藤の末に掴み取った、彼自身の意志の光。
「だから、へし折る」
「お前を倒して、女神の『ざまあ』を、俺が『ざまあ』してやるんだよ」
「……ヌゥッ! 舐めるな、人間風情がぁッ!!」
バッカスが激昂し、全身の筋肉を膨張させた。
「剛力」の二つ名の通り、そのパワーは山をも砕く。
「潰れろオォォ!!」
再び振り下ろされる戦斧。今度は、手加減なしの全力だ。
ミナトは、動じなかった。
(……遅い)
自己嫌悪という「精神の枷」が外れた今、彼の『超速成長』と『身体能力超強化』は、かつてない領域へと達していた。
「『身体能力超強化』――全開」
ミナトの姿が、かき消えた。
ドゴォォォン!!
戦斧が地面を叩き割り、巨大なクレーターを作る。だが、そこにミナトはいない。
「なっ……どこだ!?」
「ここだ」
声は、バッカスの頭上からした。
ミナトは、振り下ろされた戦斧の柄を駆け上がり、空中に躍り出ていたのだ。
「デカい図体だ。……いい的だな」
ミナトが剣を振りかぶる。
魔法は使わない。使う必要もない。
「『一閃』」
白銀の軌跡が、空を走った。
着地したミナトが、静かに剣を納める。
数瞬の静寂。
やがて、バッカスの巨大な右腕が、戦斧ごと、ずり落ちた。
「ガ……ア……?」
鮮血が噴き出す。
「グオオオオオオオッ!?」
四天王の絶叫が、荒野に響き渡った。
「……悪いな」
ミナトは、苦痛に悶える巨人を冷たく見下ろした。
「今の俺は、機嫌が悪いんだ」
かつて逃げ出した場所で、かつて背を向けた者たちの前で。
最強の反逆者・神崎湊の、女神への「意趣返し」が幕を開けた。




