第四十話:『絶縁宣言』
神々の住まう神域。
そこにある、女神セレスティーナの私室は、かつてないほどの冷気に満たされていた。
彼女の目の前にある水鏡には、洞窟での健也の敗北と、その後、王城で手を取り合うミナトと国王の姿が映し出されていた。
「……不愉快です」
女神は、手にしたワイングラスを、床に叩きつけた。
美しいクリスタルが砕け散り、深紅の液体が白い床を汚す。
「わたくしの『お気に入り(ミナト)』が、わたくしの『手駒(国王)』と結託し、わたくしに牙を剥く……?」
それは、絶対的な支配者である彼女にとって、許されざる侮辱だった。
「復讐者も、期待外れでした。あんなに力を与えてあげたのに、精神論ごときで敗北するなんて」
女神は、冷たい瞳で水鏡を見下ろした。
彼女にとって、この世界は「盤面」であり、人間は「駒」に過ぎない。
言うことを聞かない駒。思い通りにならない展開。
そんなゲームに、彼女はもう飽き飽きしていた。
「……要りません」
女神は、低い声で宣告した。
「わたくしに逆らうような可愛げのない『勇者』も」
「わたくしの神託に従えない無能な『国王』も」
「そして、そんな不敬者どもを匿う『王国』も」
「全て、壊してしまいましょう」
女神は、指先を空中で滑らせ、新たな「通信」を開いた。
繋がった先は、人間たちの世界とは対極に位置する、闇の領域。
そこに座す、もう一人の「プレイヤー」。
『……ほう? 光の女神が、我に何の用だ?』
地の底から響くような、重低音。
「魔王」だ。
女神は、慈愛の女神としての仮面をかなぐり捨て、妖艶な悪女の笑みを浮かべた。
「取引をしましょう、魔王。……いえ、貴方にとっては、ただの『プレゼント』ですわ」
『……?』
「アルカディア王国を守護している、わたくしの『聖なる結界』。……これを、今すぐ消して差し上げます」
魔王側の空気が、凍りついたのがわかった。
『……正気か? それは、貴様が愛する人間どもを、我らに食わせるということだぞ』
「ええ、構いませんわ。愛は冷めました」
女神は、残酷に告げた。
「その代わり、条件が一つだけあります」
『言ってみろ』
「国を蹂躙し、人間どもを絶望の底に叩き落としなさい。……特に、『元・勇者ミナト』という小僧には、この世で最も残酷な死を与えなさい」
『クク……ハハハハハ!』
魔王の哄笑が響き渡る。
『良かろう! 堕ちた女神よ、その契約、乗ったぞ!』
一方、王都アルカディア、玉座の間。
ミナトと国王アルトリウスは、今後の対策を練っていた。
「ミナト殿。わしは、直ちに開拓地へ早馬を出す。理不尽に『農奴』とされた君の学友たちを解放し、保護するためだ」
「ありがとうございます、陛下。……彼らが俺を許すかはわかりませんが、少なくとも、人としての扱いは取り戻してやりたい」
ミナトの顔つきは、憑き物が落ちたように穏やかで、しかし芯の通ったものになっていた。
「俺は、もう一度、この国を見て回ります。俺が見落としていたこと、俺ができること。……そして、女神に対抗する手段を探すために」
「うむ。君はもう、わしの道具ではない。君自身の意志で、この国を救ってくれると信じている」
二人が、固い握手を交わそうとした、その時だった。
ドォォォォォォン……!!!
突如、地響きと共に、王城全体が激しく揺れた。
「な、なんだ!?」
「地震か!?」
騎士たちが騒然とする中、窓の外を見ていた王国賢者が、絶叫した。
「へ、陛下! 空が……空が!!」
ミナトと国王がバルコニーへ駆け出すと、信じがたい光景が広がっていた。
王都の上空を覆っていた、薄い金色の膜――王国を魔物の脅威から守っていた『女神の守護結界』が、音を立ててヒビ割れ、ガラス細工のように砕け散っていくところだった。
「結界が……消滅した……?」
国王が、呆然と呟く。
その直後。
脳裏に直接響く、あの冷徹な声が、王都中の人々に降り注いだ。
『愚かなるアルカディアの民よ。聞きなさい』
「女神……!」
ミナトが、空を睨みつける。
『貴方たちの王と、反逆者ミナトは、わたくしの慈悲を裏切りました。……よって、わたくしはこの国を見捨てます』
『もはや、加護はありません。守りもありません。……せいぜい、自らの罪を悔いながら、闇に飲まれなさい』
一方的な、絶縁宣言。
そして、それと同時に。
「伝令ーーーッ!!!」
血相を変えた騎士が、玉座の間になだれ込んできた。
「ほ、北方国境より緊急報告!!」
「北の空が黒く染まり……魔王軍の先遣部隊と見られる、数万の魔物の軍勢が、国境を突破!!」
「結界消失により、侵攻を食い止める術がありません!!」
「な……っ」
国王が、膝から崩れ落ちそうになる。
数万。それは、一国の騎士団だけで支えられる数ではない。今までは、女神の結界が大型の魔物の侵入を阻んでいたからこそ、均衡が保たれていたのだ。
ミナトは、拳を強く握りしめた。
(やりやがった……)
(自分の思い通りにならないからって、盤面ごとひっくり返しやがった!)
「……陛下」
ミナトの声は、震えていなかった。
「立ってください」
「ミナト殿……しかし、結界なしで、数万の魔王軍など……」
「俺がいます」
ミナトは、振り返り、国王を、そして絶望に沈みかけた騎士たちを見渡した。
「女神が守らないなら、俺たちが守ればいい」
「俺は、もう逃げません。……女神がけしかけた魔王軍なら、全部叩き潰して、あいつの顔を恐怖で歪ませてやる」
それは、『勇者』という称号を与えられたからではない。
神崎湊という一人の人間が、自らの意志で選び取った、反逆と守護の誓い。
「行きましょう、陛下。……第二ラウンドの開始だ」
神に見捨てられた国で、人と神の、本当の戦争が始まろうとしていた。




