第三十八話:覚醒、そして『ゼロ』の応酬
「――じゃあな、カンザキ」
健也の嘲笑と共に、瘴気を纏った渾身の手刀が、無防備なミナトの背中――騎士団長に斬られた、まさにその古傷へと、容赦なく突き刺さった。
「が……っ、は……!」
ミナトの体が、糸が切れた人形のように、前のめりに崩れ落ちる。
洞窟の冷たい床に突っ伏し、痙攣していた体は、やがて、完全に動きを止めた。
背中からは、瘴気によって腐食した傷口から、どす黒い血が流れている。
「…………」
洞窟は、静まり返った。
呻いていた元・取り巻きたちも、何が起きたのかわからず、静まっている。
「……ハッ」
健也は、自分の手に付着したミナトの血を払い、勝利を確信した。
「……あっけねえ」
(結局、こいつは、あの頃のままだった)
(俺の『憎悪』に呑まれて、自分自身に殺されたんだ)
最強の勇者を倒した。その高揚感が、健也の全身を満たす。
彼は、完全に「油断」していた。
無力に転がるミナトを見下ろし、この「勝利の瞬間」を、もう少しだけ味わおうとした。
その「隙間」が問題だった。
ぴくり、と、ミナトの指先が動いた。
(……なんだ?)
健也が、眉をひそめる。
ミナトの精神は、今、深い闇の底にいた。
『お前が弱いから』『お前が逃げたから』『お前が卑怯者だから』
健也が注入した「憎悪」が、ミナト自身の「自己嫌悪」と共鳴し、彼を内側から殺そうとしていた。
(……そうだ)
(俺は、弱い)
(俺は、逃げた)
(俺は、臆病者だ)
ミナトは、その「事実」を、暗闇の中で、静かに受け入れた。
(……だが)
(弱くても、逃げても、臆病者でも)
(俺は、田中さんを……あの人を、守ると決めた)
(――『超速成長』)
ギフトが、発動した。
それは、戦闘経験値(EXP)だけを糧にするスキルではない。
「あらゆる経験」を、ミナトを成長させる糧とする、女神の祝福。
健也が与えた「自己嫌悪」という名の猛毒は、今、この瞬間、ミナトの『超速成長』スキルによって、「自己嫌悪に対する、完全な耐性」という「血清」へと、凄まじい速度で書き換えられた。
ミナトの背中の傷口で、瘴気の呪いと『自動回復』スキルが拮抗していた。
だが、今。
『超速成長』によって「憎悪(瘴気)」への耐性を獲得したミナトの体が、瘴気の力を無効化し始めた。
傷口が、ジュウ、と音を立てて、急速に塞がっていく。
「…………は?」
健也は、目の前で起きている信じられない光景に、声を失った。
倒れていたはずのミナトが、ゆっくりと、立ち上がったのだ。
その瞳には、もはや、錯乱も、恐怖も、自己嫌悪も、何一つ映っていなかった。
ただ、どこまでも静かで、冷たい「無」だけがあった。
「……なんだよ、それ」
健也が、動揺で後ずさる。
「俺の『憎悪』は……効かなかったのか!?」
「ああ、効いたさ」
ミナトは、背中の傷を確かめるように肩を回した。痛みは、もうない。
「おかげで、目が覚めた」
ミナトは、健也をまっすぐに見据えた。
「お前が俺にくれた『自己嫌悪』は、全部、俺が受け入れた」
「!」
「もう、俺には効かない」
「ふ、ふざけるな!」
健也は、恐怖を振り払うように、残った全魔力を『腐食の瘴気』に変え、ミナトに向かって再び殴りかかった。
「死ねえええええ!!」
ミナトは、もう、避けなかった。
その瘴気の拳を、左手で、真正面から掴み止めた。
ジュウウウウウウッ!!
ミナトの左手の皮膚が、焼け焦げ、溶けていく。
だが、ミナトは、眉一つ動かさなかった。
「……熱いな」
そして、その焼けた左手で、健也の腕を、万力のような力で握り潰した。
「ぎ……あああああっ!?」
骨が軋む音。
ミナトの左手は、瘴気で溶かされながら、同時に『自動回復』で再生していく。
腐食と再生が、目まぐるしく繰り返される。
「お前の『腐食』と、俺の『回復』。どっちが上か、試してみるか?」
「ひ……っ!」
健也の顔に、初めて、ミナトに対する純粋な「恐怖」が浮かんだ。
精神攻撃が効かない。
物理攻撃(瘴気)も、回復力で相殺される。
健也の切り札は、全て尽きた。
「終わりだ、健也」
ミナトは、健也の腕を掴んだまま、無防備なその腹部に、右の拳を、静かに、だが深く、叩き込んだ。
スキルも、魔力も、瘴気も乗せない。
ただ、Sランク魔獣すら凌駕する、純粋な「物理」の拳。
「ごふっ…………!!」
健也の体が、くの字に折れ曲がり、数秒遅れて、凄まじい衝撃波が洞窟の奥の岩盤を粉砕した。
健也は、白目を剥き、糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
完全に、意識を失っていた。
「…………」
静寂が戻る。
ミナトは、瘴気で爛れた左手を見つめた。
それは、彼が「過去」と、そして「自己」と決別するために支払った、代償だった。
彼は、洞窟の隅で震える、戦闘不能の元・取り巻きたちを一瞥し、そして、意識のない健也を、ただ、冷たく見下ろした。
ピンチは、去った。
だが、ミナトの心には、勝利の昂揚など、何一つなかった。




