第三十七話:『自己』という名の最強の敵
「ここからが、本番だ」
佐藤健也の全身から、濃密な『腐食の瘴気』が、洞窟の空気を満たしていく。
「……っ」
ミナトは、即座に息を止め、剣を構えた。
(あの瘴気に触れるのは、ヤバい気がする……!)
狭い洞窟内。瘴気からは逃げ場がない。
「ハッ! 息止めてんのかよ、カンザキ!」
健也は、ミナトの思考を嘲笑う。
「無駄だぜ。そいつは、呼吸わなくても、肌からお前の魔力を腐らせる!」
健也が、瘴気を纏ったまま、ミナトに殴りかかってきた。
その速度は、取り巻きたちとは比較にならない。女神の「強化」は、健也自身を最も強く変貌させていた。
(速い……!)
ミナトは、剣でその拳を受け止める。
ジュウウウウッ!!
白銀の剣が、健也の瘴気に触れた瞬間、黒く変色し、溶け始めた。
「なっ!?」
「お前の『勇者様』の剣も、俺の前じゃただのナマクラだ!」
健也が、続けざまに瘴気を纏った拳を叩き込んでくる。
ミナトは、剣が完全に溶け落ちる前に、それを投げ捨て、スキル『身体能力超強化』による体術だけで応戦する。
ガッ、ゴッ、と、二人の拳と蹴りが、狭い洞窟内で激しく交錯する。
ミナトの「技術」と「速度」は、健也を上回っていた。
だが、ミナトは決定的に不利だった。
(……くそっ)
健也の瘴気が、ミナトの拳や腕に触れるたび、皮膚が焼け、そこから力が奪われていく。
『自動回復』スキルが発動するが、瘴気の「腐食」の速度と、回復速度が、ギリギリで拮抗していた。
(……こいつ、強い)
ミナトは、焦っていた。
罵詈雑言を克服した精神は、もはや揺らがない。
だが、肝心の「力」が、相手のギフトと相性が悪すぎる。
(……まずい。このままじゃ、ジリ貧だ)
一方、健也もまた、焦っていた。
(……こいつ、なんで倒れねえんだ)
瘴気を浴びせ、殴りつけているのに、ミナトは一向に弱る気配を見せない。罵詈雑言が効かない時点で、計算が狂っていた。
(……このままじゃ、俺の魔力が先に尽きる)
(……仕方ねえ)
健也は、ミナトの拳をわざと受け止め、その隙に、ミナトの体を両腕で組み敷くように拘束した。
「なっ!? 離せ!」
「離すかよ、バーカ!」
健也は、ミナトの動きを封じたまま、顔を耳元に近づけ、下卑た声で囁いた。
「……お前、俺が、仲間をどうやって強化したか、知ってるか?」
「!」
「お前に、『お裾分け(おすそわけ)』してやるよ」
「――『憎悪注入』!!」
「何を――ぐ、あああああああああああっ!!!」
健也の手のひらから、瘴気とは比べ物にならない、どす黒い「何か」が、ミナトの体内に直接、流れ込んできた。
(……なんだ、これ)
(憎い)
(憎い、憎い、憎い、憎い)
(誰を? 健也を? 女神を? 国王を?)
(違う)
ミナトの脳裏に、映像がフラッシュバックする。
教室の隅で、いじめに耐えるだけの、無力な自分。
開拓地で、クラスメイトの罵声から、逃げ出した自分。
国王の嘘に気づきながら、何もできず、ただ城を抜け出した自分。
シエナの町で、「面倒だ」と、見捨てようとした自分。
川で、「これで逃げ切れる」と、驕り高ぶっていた自分。
田中さんに、「必ず何とかする」と嘘をついた、自分。
騎士団に、血の痕跡を残した、馬鹿な自分。
健也の罵詈雑言に、一度は屈した、弱い自分。
(……こいつだ)
(こいつが、全部悪い)
(こんな『ゴミ』が、力を持ったせいで)
(こんな『臆病者』が、勇者になったせいで)
ミナトの憎悪の矛先は、ただ一点。
『神崎湊』へと、収束していった。
「ああ……ああああ……」
ミナトの瞳から、光が消えた。
彼は、健也の拘束を振りほどくと、よろよろと立ち上がった。
「……ハハハ! どうした、カンザキ!」
健也は、自分の「奥の手」が完璧に決まったことを確信し、高笑いした。
ミナトは、健也に目もくれなかった。
彼は、洞窟の壁に向かって歩き出すと、そこに、自分の「顔」が映っているかのように、その壁を睨みつけた。
そして、
「……お前のせいだ」
と、呟いた。
「お前が、弱かったから」
「お前が、逃げたから」
「お前が、裏切ったから!」
ミナトは、自分の「幻影」に向かって、叫んだ。
そして、その「幻影」を殺すために、岩壁に向かって、容赦のない拳を叩き込み始めた。
ドン! ドン! ドン!
「死ね!」
「消えろ!」
「お前さえいなければ!」
「……ハハハハハ! 傑作だ!」
健也は、腹を抱えて笑い転げた。
「最強の勇者様が、自分自身と戦い始めやがった!」
ミナトは、完全に「憎悪」に呑み込まれていた。
彼は、最強の敵を前に、完全に無防備になっていた。
健也は、笑うのをやめ、その手に『腐食の瘴気』を集中させた。
「……じゃあな、カンザキ」
「テメェは、テメェ自身に、殺されるんだよ」
健也が、錯乱するミナトの背中に、その「とどめの一撃」を振り下ろした。




