第三十六話:窮鼠(きゅうそ)、猫(ねこ)を噛む
「ハハハ! 聞いたかよ、今の!」
「『勇者様』がネズミみたいに震えてやがるぜ!」
「おい、もっと言ってやれ! あいつが開拓地の連中を見捨てた時の話もな!」
「そうだそうだ! 『卑怯者!』『見て見ぬふり!』って、泣きながら叫んでたぜ、高橋が!」
洞窟は、教室だ。
ミナトの思考は、過去と現在を混同していた。
狭い空間。逃げ場のない閉塞感。
自分を嘲笑う、複数の声。
(やめろ……)
(やめてくれ……)
背中の傷が、痛む。だが、それ以上に、心が痛かった。
開拓地での、あの罵声。
『見て見ぬふりかよ!』
そうだ、俺は逃げた。あいつらを見捨てた。俺は、卑怯者だ。
ミナトは、剣を構えながらも、その切っ先は恐怖と自己嫌悪で震え、動くことができなかった。
佐藤健也は、そのミナトの「壊れっぷり」を見て、満足げに喉を鳴らした。
(……チョロい)
(こいつは、あの頃と、何も変わってねえ)
(力だけ手に入れた、臆病者のネズミだ)
健也は、もはやミナトを脅威とは見なさなかった。
「……おい、お前ら」
健也は、強化した元・取り巻きたちに、顎をしゃくった。
「遊んでやれ。殺すなよ? 手足の一本くらいは、構わねえがな」
「ヒャッハー!」
「任せろ、健也!」
取り巻きの一人が、憎悪に歪んだ笑みを浮かべ、強化された肉体でミナトに殴りかかった。
「まずは、そのイケ好かねえツラを、元に戻してやるよ!」
ミナトは、反応できなかった。
罵詈雑言によって、精神が完全に「金縛り」にあっていた。
(……ああ、俺は、ここで……)
ガッ!!
重い拳が、ミナトの顔面を捉えた。
吹き飛ばされ、洞窟の岩壁に叩きつけられる。
「ぐ……っ!」
(……痛い)
(違う。背中の傷じゃない。顔が、痛い)
「ハハハ! どうした、勇者様!」
「スキル(チート)はどうしたんだよ!」
取り巻きたちが、ミナトを取り囲み、容赦なく蹴り始めた。
「おら!」
「開拓地で、俺たちが、どれだけ……!」
「お前が、王女とイチャついてる間に……!」
「ぐ……っ、が……っ」
ミナトは、ただ、蹲り、その暴力を受け入れていた。
あの教室の、体育倉庫裏での日々が、完全に再現されていた。
(……ああ)
(結局、俺は、こうなる運命だったんだ)
(力を手に入れても、逃げ回って、最後はこうやって、こいつらに……)
ミナトの瞳から、光が消えかけた。
その時だった。
取り巻きの一人が、ミナトの髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「おい、カンザキ。お前、あの地味な女のこと、覚えてるか?」
「……?」
「ギルドで働いてる……田中だ」
ミナトの瞳が、かすかに動いた。
「あいつも、お前の『仲間』なんだろ?」
男は、下卑た笑みを浮かべた。
「俺たち、王都に寄った時に、見かけたんだよなあ」
「健也が言ってたぜ。『カンザキを殺ったら、次は、あの女だ』ってな」
「お前を匿った罪で、衛兵に突き出してやるか……それとも、俺たちで、たっぷり『可愛がって』やっても……」
「――うるさい」
「あ?」
男は、ミナトが何か言ったことに気づかなかった。
「何だって? 聞こえねえよ、ゴミが」
「だから、黙れっつってんだよ、クズが」
瞬間。
ミナトの目が、変わった。
自己嫌悪でも、恐怖でもない。
あの『影』を振り払った時と同じ、絶対零度の「怒り」と「殺意」。
(……そうか)
ミナトは、理解した。
(俺は、何をされてもいい)
(俺が、卑怯者で、臆病者で、ゴミだってことは、俺が一番よく知ってる)
(だが)
ミナトの脳裏に、王城で「俺を信じろ」と言ってしまった、美咲の不安げな顔が浮かんだ。
(あの人を、あいつを)
(俺が逃げたせいで、俺が弱かったせいで)
(こいつらみたいな、本物の『ゴミ』に、指一本でも触れさせてたまるか)
殴られていた「痛み」が、消えた。
罵詈雑言が、「雑音」に変わった。
スキル『超速成長』が、ミナトの精神的な「トラウマ」を、たった今、「克服」した。
髪を掴んでいた男の腕を、ミナトは、鋼鉄のような力で掴み返した。
「ぎ……っ!?」
「今、なんて言った?」
ミナトは、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳は、もはや震えていない。
「田中さんに……何をするって?」
「ひ……」
取り巻きの男は、目の前のミナトが、数秒前の「壊れたネズミ」とは別次元の存在に変貌したことに、本能的な恐怖を覚えた。
ミナトは、男の腕を掴んだまま、その顔面に、容赦のない拳を叩き込んだ。
ゴッ!!
鈍い音。男は、白目を剥いて、岩壁まで吹き飛んだ。
「……てめえ」
他の取り巻きたちが、ミナトの変化に動揺し、一斉に殴りかかる。
だが、もう、遅い。
ミナトの『身体能力超強化』が、完全に発動した。
狭い洞窟。
それは、ミナトの機動力を封じる「罠」ではなかった。
敵が、ミナトの攻撃範囲から逃れられない、「檻」だった。
ミナトは、剣を抜かなかった。
ただ、圧倒的な速度と、Sランク魔獣すら凌駕するパワーで、強化されたはずの取り巻きたちを「破壊」していく。
一人が殴りかかれば、その腕を掴んで関節を折り、壁に叩きつける。
一人が蹴りかかれば、その足を掴み、そのまま振り回して別の仲間へとぶつける。
それは「戦闘」ではなく、ただの「蹂躙」だった。
「う……あ……」
「化け物……」
数分後。
そこには、手足をありえない方向に曲げ、戦闘不能になって呻く、元・取り巻きたちの山ができていた。
ミナトは、彼らを一人も「殺し」はしなかった。
ただ、二度と立ち上がれないように、無力化しただけだ。
「…………」
ミナトは、血振り(ちぶり)のように拳を振り、洞窟の入り口に、ただ一人、呆然と立ち尽くす男と向き合った。
佐藤健也。
「……へえ」
健也は、油断していた表情を引き締め、口の端を吊り上げた。
「やっと、『ネズミ』が牙を剥いたか」
「……お前が、逃がしたんだ」
ミナトは、静かに言った。
「俺を殺すだけなら、俺は抵抗しなかったかもしれない」
「だが、お前は、余計なことを言った」
「ハッ! 感動的な仲間愛かよ!」
健也の全身から、あの黒い『腐食の瘴気』が、オーラのように立ち昇った。
「いいぜ、カンザキ……!」
「ここからが、本番だ!」
洞窟の唯一の出口は、健也が塞いでいる。
正面突破、するしかない。
ミナトは、初めて、自らの「意志」で、この「過去」との対決に臨むべく、ゆっくりと剣の柄に手をかけた。




