第三十五話:『空白』の驕り、『復讐者』の執念
神崎湊は、荒れ狂う川の流れに身を任せていた。
冷たい水が、背中の傷口に容赦なく染み込み、激痛が走る。だが、それこそが彼の狙いだった。
(これでいい……)
この川の水が、騎士団長に負わされた、この忌まわしい『血』の痕跡を全て洗い流してくれる。
『神縛り』の結界の呪詛も、この清流が浄化してくれるかのように、スキルの阻害が解け、傷口がようやく『自動回復』の力で塞がり始めていくのを感じた。
数キロ下流。
ミナトは、疲弊しきった体を引きずり、対岸の深い茂みへと上陸した。
騎士団が追跡に使っていた「血の匂い」も「血の痕跡」も、この激流によって完全に分断されたはずだ。
彼は、川岸から少し離れた、雨風をしのげそうな小さな洞窟を見つけると、そこに転がり込んだ。
「……はぁ……っ、はぁ……」
全身ずぶ濡れだったが、『火魔法』で服を乾かし、体温を取り戻す。
背中の傷は、まだ完全ではないが、痛みは引き、出血も止まっていた。
ミナトは、『アイテムボックス』から王城の保存食(上等な干し肉と硬いパン)を取り出し、この世界に来て初めて、心の底からの「安堵」と共にそれを口にした。
(……撒いた)
(間違いない。これで、騎士団も俺を見失った)
ミナトの心には、もはや焦りはなかった。
あるのは、自分の「力」への、絶対的な信頼。
(国王軍の切り札は、『神縛り』の結界だけだ)
(だが、あれは『試作品』。一度きりの使い捨てか、そうでなくとも、俺が弱点を見抜いた今、二度と俺を捕らえることはできない)
(そして、何より――)
ミナトは、自分のステータスを呼び出した。
『名前:(空白)』
『地位:(空白)』
(俺は、この世界において『空白』だ。『鑑定』には絶対に引っかからない)
(あの騎士団長も、神託がなければ俺の居場所を掴めなかった。その神託も、俺が『力』を使わなければ発動しない)
(……つまり)
ミナトは、結論付けた。
(俺が、あの『光刃』のような馬鹿げた大技を、人前で使わない限り)
(そして、衛兵の『鑑定』にさえ気をつければ)
(俺は、この世界で、誰にも見つからずに生きていける)
その「驕り」とも呼べる「偽りの確信」が、彼の警戒心を、完全に解きほぐしてしまっていた。
彼は、自分が追われる「逃亡者」であることすら忘れ、この洞窟の中で、久しぶりに熟睡に近い休息をとろうとしていた。
(まずは、体力を回復させる。それから、南の港町を目指そう。そこから船で、別の国へ……)
そんな「呑気な」未来図を描きながら、彼はゆっくりと目を閉じていった。
彼が、この世界で最も危険な「別の追跡者」の存在を、まったく想定していないがゆえの、油断だった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
その頃。
ミナトが川に飛び込んだ地点で、佐藤健也は、忌々(いまいま)しげに川面を蹴り飛ばしていた。
「クソが! アイツ、川に逃げ込みやがった!」
背後では、女神の力で「強化」され、疲れを知らないはずの元・取り巻きたちが、不安げにざわついていた。
「健也……血の匂いが、ここで完全に消えたぞ……」
「これじゃあ、追えねえ……」
「……黙ってろよ、クズども」
健也は、目を閉じ、神経を集中させた。
確かに、ミナトが流した「血」の生臭い匂いは、この川の濁流に掻き消されている。
騎士団なら、ここで完全に追跡を断念しただろう。
だが、健也の鼻腔は、別の「匂い」を捉えていた。
それは、血のような生々しいものではない。
もっと、澄み切っていて、それゆえに、この淀んだ森の中では異質すぎるほどの「残り香」。
(……これだ)
(女神の言っていた、『聖なる力の残り香』)
ミナトがキマイラを倒した時に放った、あの『光刃』。ミナトの体には、その強大な力の「残り香」が、まだ染み付いている。
それは、川の水ごときでは洗い流せない、魂そのものに染み付いた「匂い」だった。
「……ハ」
健也は、暗闇の中で獰猛(どう猛)な笑みを浮かべた。
「見つけたぜ、カンザキ……」
その「残り香」は、川の流れに沿って、わずかに下流へと続いていた。
そして、対岸のある一点で、陸に上がった痕跡を示している。
「てめえは、血の匂いは消せても、その『勇者様』の力の匂いまでは、消せなかったようだな!」
健也にとって、ミナトのギフトは、彼を追うための「最大の道標」でしかなかった。
「行くぞ、テメェら! 獲物はすぐそこだ!」
「「「オオオオオオ!!!」」」
憎悪に染まった軍勢が、疲れを知らぬ体で、躊躇なく冷たい川へと飛び込み、対岸へと渡っていく。
彼らは、もはや「人間」ではなかった。
ただ、ミナトという獲物を狩るためだけに最適化された、執念深い「猟犬」の群れだった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
洞窟の中。
ミナトは、浅い眠りの中で、不穏な物音に気づき、ハッと目を開けた。
(……物音? 獣か?)
いや、違う。獣ではない。
複数の、人間の足音。
(まさか!)
ミナトは、即座に剣を掴み、洞窟の入り口へと身構えた。
(騎士団か!? 馬鹿な! どうやって俺の居場所を!?)
(川の痕跡を、もう辿ってきたというのか!?)
思考が、混乱する。
自分が立てた「完璧な」はずの逃走計画が、音を立てて崩れていく。
そして、洞窟の入り口を塞ぐように、一つの「影」が立った。
月明かりを背にし、シルエットになっている。
だが、あの威厳ある騎士団長の鎧姿とは、明らかに違った。
もっと、歪で、獣じみた、禍々(まがまが)しいオーラ。
「……誰だ」
ミナトは、声を絞り出した。
影は、ゆっくりと、月明かりの下にその姿を現した。
「…………え」
ミナトは、自分の目を疑った。
そこには、教室にいた頃の精悍な面影はなく、痩せこけ、頬は落ち窪み、しかしその瞳だけが、憎悪と狂気でギラギラと輝く、見知った顔が立っていた。
「……サトウ、ケンヤ……?」
ありえない。
ミナトの思考が、フリーズした。
(なぜ、お前が、ここに!?)
(お前は、あの鉱山にいたはずじゃ……!)
健也は、ミナトの完璧なまでの「驚愕」の表情を見て、心の底から満足そうに、喉を鳴らした。
「よう」
その声は、かつての傲慢な響きではなく、暗く、粘りつくような憎悪に満ちていた。
「探し回ったぜ、カンザキ……いや、『白銀の勇者ミナト様』よぉ」
健也の背後から、ぞろぞろと、見知った顔が現れる。
かつての、取り巻きたち。
だが、その誰もが、健也と同じ、狂気の光を瞳に宿していた。
「……!」
ミナトは、理解が追いつかなかった。
「どうやって……どうやって、俺の居場所を……!? 騎士団ですら……!」
「ああ?」
健也は、心底おかしそうに、口の端を吊り上げた。
「お前の『血』の匂いは、あの川で消えてたな。騎士団の雑魚どもは、あれで撒いたつもりだったんだろ?」
健也は、自分の鼻をトン、と叩いた。
「だがなぁ、俺にはわかるんだよぉ」
「お前が撒き散らした、『女神の匂い』がよぉ。お前が、俺たちを差し置いて手に入れた、あの『力』の臭い匂い(・・)が、俺の鼻には、臭くてたまらねえんだよっ!」
「な……」
ミナトは、絶望した。
『鑑定』されないから安全だ?
『力』を使わなければ神託は飛ばない?
(違う……!)
(俺の存在そのものが、こいつら(・・・・)にとっては、道標だったのか!)
自分が立てた前提の、全てが崩れ去った。
自分の「驕り」が、自分をこの最悪の窮地に追い込んだのだと、ミナトはついに理解した。
健也は、これ以上ないほど「悠然と」、ミナトを見下ろした。
そして、背後に控える「軍勢」に向かって、顎をしゃくった。
「さあ、始めようぜ」
「お楽しみの、『復讐』の時間だ」
元・取り巻きたちが、ミナトを教室で取り囲んでいた、あの日のように。
憎悪と嘲笑を浮かべ、一斉に、ミナトに向かって叫び始めた。
「おい見ろよ、カンザキだぜ!」
「勇者様が、こんな薄汚ねえ洞窟で、ネズミみたいに隠れてやがる!」
「俺たちがどれだけ苦しんだか、わかってんのかよ、ああ!?」
開拓地で聞いた、あの「罵詈雑言」。
ミナトの最大のトラウマ。
ミナトは、剣を構え直した。だが、その切っ先は、あの日の恐怖で、わずかに震えていた。




