第三十三話:『痛み』の代償、『血』の道標
森の暗闇を、神崎湊は半ば転がるように疾走していた。
木々の枝が、容赦なく彼の顔や腕を打ち付ける。数日前まで、それらは彼の『身体能力超強化』によって、触れることすらできずにすり抜けていった障害物でしかなかった。
だが、今は違う。
「……っ、はあっ、はぁ……!」
ミナトは、巨大な樹木の幹に背中を預け、崩れるようにうずくまった。
口の中に、鉄の味が広がる。
そして、背中。
王城の寝台で使われていた、どんな上質なシルクよりも滑らかだったはずのシャツが、今は背中に張り付き、そこを中心に、焼け付くような、今まで経験したことのない感覚が広がっていた。
(……痛い)
それは、彼がこの世界に来て、初めて自覚する、純粋な「痛み」だった。
衝撃だった。
ゴブリンに殴られても、オーガに叩かれても、ミナトの体は『自動回復(超)』のスキルによって、痛みという「信号」が脳に届くよりも早く、損傷を修復していた。彼は、自分が「無敵」であり、「傷つかない」存在なのだと、心のどこかで信じきっていた。
だが、あの『神縛り』の結界。
あれは、ミナトの力の源である『女神の祝福』そのものを、根こそぎ阻害した。
あの結界の中で、彼は『勇者ミナト』ではなく、ただの「神崎湊」に戻されていたのだ。
そして、その「ただの人間」の背中を、王国最強の騎士団長の剣が、確かに切り裂いた。
「ぐ……っ!」
ズキリ、と、まるで体の中に異物をねじ込まれたかのような鈍い痛みが、波のように押し寄せる。
ミナトは、震える手で、背中に触れた。
指先に、ぬるりとした、生温かい粘りつくような感触。
「…………!」
ミナトは、戦慄した。
月明かりに照らされたその指は、赤黒く染まっていた。
自分の『血』だった。
痛みではない。
その「事実」そのものが、ミナトの心臓を鷲掴みにした。
(血が……俺の血が、出ている)
(まずい)
瞬間、彼の思考は、痛みから「恐怖」と「焦り」へと、一瞬で切り替わった。
(……血の、匂い)
(血の、痕跡)
自分は、あの結界から、ここまで、森の中に「血」を撒き散らしながら逃げてきたのだ。
あの有能な騎士団長が、これを見逃すはずがない。
彼らは、今頃、自分が通った道を、まるで猟犬が獲物を追うように、的確に追跡してきているだろう。
この森は、もはや隠れ家ではない。
自分自身が、騎士団をここまで導く「道標」になってしまっていた。
(……回復しない)
ミナトは、スキル『自動回復(超)』に意識を集中させた。
結界から脱出した今、スキルは機能しようとはしている。
だが、傷口が、まるで凍りついたかのように治りが遅い。
ズキズキとした痛みの奥に、まだ、あの『神縛り』の結界の、紫電のような禍々(まがまが)しい魔力の残滓が、棘のように突き刺さっているのを感じる。
あれが、ミナトのギフト由来のスキルを、内側から「阻害」しているのだ。
(クソっ……!)
ミナトは、慌てて『アイテムボックス』から回復ポーション(王城から持ち出した最高級品だ)を取り出した。
冷たいガラス瓶を、震える手で背中に押し当て、中身を全て、傷口に振りかける。
「ぐ……うううっ!!」
ジュッ、と肉が焼けるような音と、背骨を直接掴まれるような、さらなる激痛が走った。
痛みで、視界が白く明滅する。
だが、数秒後。
痛みは少し和らいだものの、最悪なことに、出血が完全に止まる気配はなかった。
ポーションの回復力と、結界の呪いのような残滓が、傷口の上で拮抗している。
(止血できない……!)
(このままじゃ、血を流し続けて、追いつかれる)
(あいつらには、まだあの『結界』の『完成品』があるかもしれない)
ミナトは、ミナトが「試作品」の隙間を抜けたことを、「根本的な弱点」だと誤解してくれるだろう。
(……だが、騎士団長も、俺が『血』を流すことを知った)
(次は、もっと執拗に、確実に、俺のスキルを封じにくる)
(逃げないと。一刻も早く、この痕跡を消さないと)
ミナトは、シャツの裾を力任せに引きちぎり、それを背中にきつく巻き付けて、簡易的な止血を試みた。
だが、白い布は、すぐにじわりと赤く染まっていく。
痛みと、わずかな失血による寒気で、思考が鈍る。
(どこへ……)
(どこへ逃げれば、あいつらは追ってこない?)
(血の匂いを、どうやって消す……?)
(土に埋めるか? 葉を被せるか? 無意味だ。あの騎士団長の目をごまかせるとは思えない)
絶望的な状況。
『勇者』という絶対的な強者の立場から、スキルを封じられ、血を流し、追っ手に怯える、ただの「手負いの獣」へ。
彼のプライドは、この数分間で、ズタズタに引き裂かれていた。
その時。
全ての意識を耳に集中させていたミナミナトの鼓膜が、微かな、しかし確かな「音」を捉えた。
(……水の、音?)
微かに、だが絶え間なく聞こえる、せせらぎの音。
(……川だ)
ミナトの瞳に、絶望の中で初めて、理性の光が戻った。
(川に飛び込めば、匂いも、痕跡も、洗い流せる)
(たとえ一時的でも、追跡の足を止めることができるかもしれない)
ミナトは、残された最後の力を振り絞り、痛む背中を押さえながら、その川の音だけを頼りに、再び闇の中を駆け出した。
もはや、彼に「英雄」の面影はなかった。
ただ、生き延びるためだけに、必死で逃げる、一人の「逃亡者」の姿がそこにあった。




