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「顔が好み」で勇者にしてあげたのに、裏切られたのでラスボスになります  作者: さらん
第一章『寵愛(ちょうあい)の勇者、憎悪(ぞうお)の反転』

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第三十三話:『痛み』の代償、『血』の道標


森の暗闇を、神崎湊は半ば転がるように疾走していた。

木々の枝が、容赦なく彼の顔や腕を打ち付ける。数日前まで、それらは彼の『身体能力超強化』によって、触れることすらできずにすり抜けていった障害物でしかなかった。


だが、今は違う。


「……っ、はあっ、はぁ……!」


ミナトは、巨大な樹木の幹に背中を預け、崩れるようにうずくまった。

口の中に、鉄の味が広がる。

そして、背中。


王城の寝台ベッドで使われていた、どんな上質なシルクよりも滑らかだったはずのシャツが、今は背中に張り付き、そこを中心に、焼け付くような、今まで経験したことのない感覚が広がっていた。


(……痛い)

それは、彼がこの世界に来て、初めて自覚する、純粋な「痛み」だった。


衝撃だった。

ゴブリンに殴られても、オーガに叩かれても、ミナトの体は『自動回復(超)』のスキルによって、痛みという「信号」が脳に届くよりも早く、損傷を修復していた。彼は、自分が「無敵」であり、「傷つかない」存在なのだと、心のどこかで信じきっていた。


だが、あの『神縛り』の結界。

あれは、ミナトの力の源である『女神の祝福』そのものを、根こそぎ阻害した。


あの結界の中で、彼は『勇者ミナト』ではなく、ただの「神崎湊」に戻されていたのだ。


そして、その「ただの人間」の背中を、王国最強の騎士団長の剣が、確かに切り裂いた。


「ぐ……っ!」


ズキリ、と、まるで体の中に異物をねじ込まれたかのような鈍い痛みが、波のように押し寄せる。

ミナトは、震える手で、背中に触れた。

指先に、ぬるりとした、生温かいねばりつくような感触。


「…………!」


ミナトは、戦慄した。

月明かりに照らされたその指は、赤黒く染まっていた。


自分の『血』だった。

痛みではない。

その「事実」そのものが、ミナトの心臓を鷲掴みにした。


(血が……俺の血が、出ている)

(まずい)

瞬間、彼の思考は、痛みから「恐怖」と「焦り」へと、一瞬で切り替わった。


(……血の、匂い)

(血の、痕跡)

自分は、あの結界から、ここまで、森の中に「血」を撒き散らしながら逃げてきたのだ。


あの有能な騎士団長が、これを見逃すはずがない。

彼らは、今頃、自分が通った道を、まるで猟犬が獲物を追うように、的確に追跡してきているだろう。

この森は、もはや隠れ家ではない。


自分自身が、騎士団をここまで導く「道標みちしるべ」になってしまっていた。


(……回復しない)

ミナトは、スキル『自動回復(超)』に意識を集中させた。

結界から脱出した今、スキルは機能しようとはしている。


だが、傷口が、まるで凍りついたかのように治りが遅い。

ズキズキとした痛みの奥に、まだ、あの『神縛り』の結界の、紫電のような禍々(まがまが)しい魔力の残滓ざんしが、とげのように突き刺さっているのを感じる。


あれが、ミナトのギフト由来のスキルを、内側から「阻害」しているのだ。


(クソっ……!)

ミナトは、慌てて『アイテムボックス』から回復ポーション(王城から持ち出した最高級品だ)を取り出した。

冷たいガラス瓶を、震える手で背中に押し当て、中身を全て、傷口に振りかける。


「ぐ……うううっ!!」


ジュッ、と肉が焼けるような音と、背骨を直接掴まれるような、さらなる激痛が走った。

痛みで、視界が白く明滅する。


だが、数秒後。

痛みは少し和らいだものの、最悪なことに、出血が完全に止まる気配はなかった。

ポーションの回復力と、結界の呪いのような残滓が、傷口の上で拮抗きっこうしている。


(止血できない……!)

(このままじゃ、血を流し続けて、追いつかれる)

(あいつらには、まだあの『結界』の『完成品』があるかもしれない)

ミナトは、ミナトが「試作品」の隙間を抜けたことを、「根本的な弱点」だと誤解してくれるだろう。


(……だが、騎士団長も、俺が『血』を流すことを知った)

(次は、もっと執拗に、確実に、俺のスキルを封じにくる)

(逃げないと。一刻も早く、この痕跡を消さないと)

ミナトは、シャツの裾を力任せに引きちぎり、それを背中にきつく巻き付けて、簡易的な止血を試みた。


だが、白い布は、すぐにじわりと赤く染まっていく。

痛みと、わずかな失血による寒気で、思考が鈍る。


(どこへ……)

(どこへ逃げれば、あいつらは追ってこない?)

(血の匂いを、どうやって消す……?)

(土に埋めるか? 葉を被せるか? 無意味だ。あの騎士団長の目をごまかせるとは思えない)

絶望的な状況。

『勇者』という絶対的な強者の立場から、スキルを封じられ、血を流し、追っ手に怯える、ただの「手負いの獣」へ。


彼のプライドは、この数分間で、ズタズタに引き裂かれていた。


その時。

全ての意識を耳に集中させていたミナミナトの鼓膜が、微かな、しかし確かな「音」を捉えた。


(……水の、音?)

微かに、だが絶え間なく聞こえる、せせらぎの音。


(……川だ)

ミナトの瞳に、絶望の中で初めて、理性の光が戻った。


(川に飛び込めば、匂いも、痕跡も、洗い流せる)

(たとえ一時的でも、追跡の足を止めることができるかもしれない)

ミナトは、残された最後の力を振り絞り、痛む背中を押さえながら、その川の音だけを頼りに、再び闇の中を駆け出した。


もはや、彼に「英雄」の面影はなかった。

ただ、生き延びるためだけに、必死で逃げる、一人の「逃亡者」の姿がそこにあった。


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