第三十話:偽りの平穏、最初の接敵
神崎湊は、アルテア平原を抜け、南へと続く古い街道を歩いていた。
シエナの町でキマイラを倒してから、すでに数日が経過している。
(……結局、俺は)
彼は、自己嫌悪に陥っていた。
キマイラを倒した。人々を救った。だが、そのために使ったのは、あの女神から与えられた『光刃』だった。
(あの力を使わなければ、俺はAランク一体すら、まともに相手にできない)
(『勇者』を捨てたはずなのに、『女神の祝福』を捨てられない)
彼は、自分が「自由」になったのではなく、ただ、女神の力の「使い方」を知る、便利な「道具」のまま、野に放たれただけなのではないかと感じ始めていた。
道中、小さな村の検問所に差し掛かった。
「おい、お前。フードを取れ」
王都から派遣されたのであろう、正規軍の衛兵が、鋭い目でミナトを制止する。
ミナトは、言われた通り、静かにフードを外した。
(どうせ、似顔絵とは似ていない)
「『鑑定』」
衛兵が、スキルを行使する。
ミナトは、もはや何の緊張も感じていなかった。
「……チッ。『空白』か」
衛兵は、ミナトを「魔力異常の病人」と判断し、興味を失った。
「行け行け。俺たちは、あの『裏切り者ミナト』を探してるんでな。お前みたいな病人に構ってる暇はねえんだよ」
ミナトは、無言で一礼し、検問所を通り過ぎた。
(……やはり、そうだ)
彼の心は、安堵よりも、虚しさで満たされた。
(俺のステータスは『空白』。俺は、この世界において『無』だ)
(国王軍が俺を見つけることは、絶対にない)
その「偽りの確信」が、彼の警戒心を、完全に解きほぐしてしまっていた。
その夜。
ミナトは、街道から外れた森の中で、火も焚かずに休息していた。
自己嫌悪と、この先の当てもない放浪への漠然とした不安。
(……これから、どうしようか)
そう、深く思考に沈み、彼が最も無防備になった、その瞬間だった。
「――そこまでだ、『裏切り者ミナト』」
声。
ミナトが顔を上げた瞬間、周囲の暗闇から、数十の松明が一斉に灯された。
完全に、包囲されている。
その甲冑、その練度。シエナの衛兵や、検問所の兵士とは、明らかに「格」が違った。
そして、ミナトの正面に、最も重厚な鎧をまとった一人の男が、ゆっくりと馬を進めてきた。
ミナトは、その顔を見て、目を見開いた。
「……騎士団長」
王城で、彼に剣術(の基本)を教え、そしてSランク魔獣の討伐を共に乗り越えた、あの王国騎士団長その人だった。
「……なぜ」
ミナトの声は、震えていた。
驚愕。そして、裏切られたという思い。
「なぜ、俺の居場所がわかった!? 『鑑定』は効かないはずだ!」
騎士団長は、兜の面頬を上げ、苦渋に満ちた、悲しい目でミナトを見つめた。
「……お主を導いたのは、『鑑定』ではない」
「!」
「女神セレスティーナ様より、神託が下されたのだ」
騎士団長は、神託の言葉を、そのままミナトに突きつけた。
「『アルテア平原にて、裏切り者の大いなる力の残滓を感知せり』……とな!」
「な……」
ミナトは、全身から血の気が引くのを感じた。
キマイラを倒した、あの『光刃』。
あの力が、座標となって、女神に自分の居場所を!?
(馬鹿な……!)
(俺は、自由になんて、なっていなかった)
(あの力を使うたび、俺は、女神の手のひらの上で、自分の位置を知らせていただけだったのか!)
自分が「意外と馬鹿だった」ことの、これ以上ない証明。
ミナトは、王国軍に包囲された絶望よりも、その「真実」に、打ちのめされていた。
「ミナト殿」
騎士団長が、静かに剣を抜いた。
「陛下は、まだお主を『処分』するとは仰っておらん。……大人しく、我らと王城へお戻りいただきたい」
「……戻って、どうなる」
ミナトは、憎しみを込めて、騎士団長を睨みつけた。
「『爆弾』として、地下牢に幽閉か?」
「……」
騎士団長は、答えなかった。
それが、答えだった。
「……断る」
ミナトも、剣を抜いた。
「俺は、もう、あんたたちの『道具』には戻らない」
「……ならば、力ずくでも」
騎士団長が、右手を振り下ろす。
「――捕縛せよ!!」
国王軍、最初の接敵。
ミナトの、本当の意味での「逃亡劇」が、今、始まった。




