第三話:女神の寵愛(ちょうあい)と王の誓い
セバスに導かれ、神崎湊は広大な王城の廊下を歩いていた。
床は鏡のように磨き上げられ、壁にはこの国の歴史を描いたであろう巨大なタペストリーが並ぶ。すれ違う騎士や文官たちは、湊の姿を認めると、誰もが例外なく足を止め、胸に手を当てて最敬礼を送ってきた。
(……すごい。昨日までの俺とは、まるで別人だ)
すれ違う人々の瞳に浮かぶのは、畏敬と、わずかな好奇。そこには、昨日まで向けられていた嘲笑や侮蔑、無関心といった色は一切存在しなかった。
『勇者』という地位。そして、女神の『お気に入り』というお墨付き。それだけで、世界はこんなにも変わって見える。
やがて、ひときわ大きく、豪華な装飾が施された両開きの扉の前で、セバスが足を止めた。
「ミナト様。これより、国王陛下への謁見となります。陛下は、女神セレスティーナ様の神託を受け、ミナト様の来訪を心よりお待ちかねでした」
「神託……」
「はい。『我が愛しき勇者を、我が身の如く敬い、支えよ』と。さあ、中へ」
重々しい音を立てて扉が開かれる。
その先は、途方もなく広い謁見の間だった。天井からは巨大なシャンデリアが下がり、床には深紅の絨毯が玉座までまっすぐに続いている。
絨毯の両脇には、この国の重鎮であろう貴族や将軍たちがずらりと並び、その視線が湊一人に集中する。
そして、最も奥。一段高くなった玉座に、威厳ある中年の男――この国の王、アルトリウス・フォン・アルカディアが座っていた。
湊が歩を進めると、並み居る重鎮たちが一斉に頭を垂れる。
玉座の前で立ち止まると、国王アルトリウスは、なんと自ら玉座から立ち上がり、階段を数段降りて湊の前に立った。
「よくぞ参られた、女神の勇者ミナト殿」
王は、臣下に対するような尊大な態度ではなく、むしろ同等、あるいはそれ以上の相手に対するような、丁寧な口調で語りかけた。
「神託は確かに拝聴した。この国は、いえ、この世界は今、北の大陸より現れた魔王軍の脅威に晒されておる。我ら人類の力だけでは、もはや抗いきれぬところまで来ていた」
王はそこで一度言葉を切り、湊の目をまっすぐに見つめた。
「そこへ、女神セレスティーナ様が、貴殿という『希望』を遣わしてくださった。……神託によれば、貴殿は女神様の絶大なる『祝福』を受けし、唯一無二の存在であると」
「……」
「ミナト殿。どうか、その御力でこの世界を救っていただきたい。我がアルカディア王国は、女神様の御意志に従い、貴殿の活動を全面的に、あらゆる手段をもって支援することを、ここに誓おう!」
それは、懇願であり、同時に絶対的な忠誠の誓いだった。
昨日までいじめられっ子だった高校生が、一国の王に頭を下げられている。あまりにも現実離れした光景に、湊はただ頷くことしかできなかった。
「……わかりました。俺にできることなら」
その言葉に、王も、並み居る重鎮たちも、安堵と歓喜の表情を浮かべた。
謁見の後、湊の王城での生活が始まった。それは、想像を絶する厚遇だった。
まず、彼には教育係として、王国最高の賢者と名高い老魔術師が付けられた。
「ミナト様。これはこの世界の文字と地理、歴史に関する書物です。まずは……」
「……読めます」
「は?」
湊は、目の前に出された難解そうな古文書を、ごく普通に読み上げてみせた。『自動翻訳』スキルは、会話だけでなく、読み書きにも完全に対応していた。
「なんと……! これが女神様の祝福の力……。では、魔法については?」
賢者が、基礎中の基礎である『火球』の魔術書を渡す。湊がページをめくった瞬間、スキル『全属性魔法適性(最上級)』が発動し、そこに書かれた理論と術式の全てが、一瞬で頭に流れ込んできた。
「……たぶん、できます」
「ま、まさか。詠唱もなしに……」
湊が中庭に向かって軽く手をかざすと、手のひらにバスケットボール大の灼熱の火球が出現した。
「おお……おお……!」
賢者は、あまりの才能に感動のあまり打ち震え、その場に泣き崩れた。
次に、剣術の訓練。
相手は、王国最強と謳われる騎士団長が直々に務めることになった。
「勇者様。まずは素振りから。こう、腰を入れて……」
騎士団長が見本を見せる。湊はそれを見様見真似で、木剣を振るった。
スキル『身体能力超強化』と『超速成長』が、彼の筋肉と神経を最適化する。
ヒュンッ、と空気を切り裂く音は、見本よりも鋭く、速かった。
「……なっ!?」
騎士団長が目を剥く。
「も、もう一度!」
二度、三度。振るうたびに、湊の剣筋は洗練されていく。わずか十分後、その一振りは、歴戦の達人の域に達していた。
「……ばかな。私がこの一振りを身につけるのに、三十年を要したというのに……!」
騎士団長もまた、その場で膝をつき、天を仰いだ。
食事は、王族専用の料理長が腕を振るい、毎日フルコースが並ぶ。
入浴は、大理石でできた大浴場が貸し切り。
就寝時には、セバス以下、侍従たちが完璧な手際で身の回りの世話を焼く。
何一つ不自由のない、まさに王侯貴族以上の生活。
その夜。シルクのシーツに身を沈めながら、湊はぼんやりと天井の装飾を見つめていた。
(数日前まで、俺は埃っぽい教室の隅で、明日のお金をカツアゲされる心配をしてたんだよな……)
焼きそばパンを買いに走らされ、教科書を隠され、笑いものにされていた日々。
(佐藤たち……あいつらは今、どうしてるんだろう)
女神は、彼らを冷遇すると言っていた。
(田中さんは……『平民』だったな。少しはマシな暮らしをしてるといいけど)
自分だけが、こんな贅沢をしている。
罪悪感が湧くかと思ったが、不思議と、心は穏やかだった。
(これは、俺が耐えてきたことへの、ご褒美なんだろうか)
いや、違う。
(これは、あの女神様の、完全な『依怙贔屓』だ)
理由はともかく、手に入れたこの力と環境。それをどう使うか。
湊は、かつてないほどの充実感と、微かな高揚感を覚えながら、ゆっくりと目を閉じた。
いじめられっ子の卑屈な影は、その顔から急速に消え失せていた。




