第二十九話:『力』の代償と女神の逆探知
神崎湊の放浪は、続いていた。
王都を離れて十日以上が経過し、彼は今や、王国の遥か南、アルテア平原と呼ばれる広大な穀倉地帯を歩いていた。
『勇者』であった頃に討伐した魔獣のおかげか、道中の治安は比較的安定していた。
彼の心は、いまだ晴れなかった。
「自由」とは、こんなにも虚しいものだったのか。
誰からも期待されず、誰とも関わらず、ただ「生きている」だけ。
(……俺は、あの開拓地で、あいつらを見捨てた)
(国王から、逃げた)
(結局、俺は勇者でも何でもなく、ただの臆病者だ)
その自己嫌悪が、彼を他者から遠ざけていた。
その日。
彼が、平原の中ほどにある「シエナ」という中規模の町に差し掛かった時、異変に気づいた。
黒煙。そして、悲鳴。
「……またか」
ミナトは舌打ちし、面倒事を避けるように、町の街道から大きく外れ、丘を迂回しようとした。
だが、丘の上から見下ろした光景に、足が止まった。
「……キマイラ、か」
町の城壁の一部が破壊され、そこから、獅子の頭、山羊の体、そして毒蛇の尾を持つ、Aランク級の魔獣「キマイラ」が侵入し、暴れまわっていた。
町の衛兵や、駆けつけた数人の冒険者たちが必死に応戦しているが、キマイラの吐く強酸のブレスと、神速の蛇の尾の前に、次々と命を散らしている。
もはや、ただの「討伐」ではなく、「蹂躙」だった。
(……関係ない)
ミナトは、フードを目深にかぶり、踵を返した。
(俺が助ける義理はない。俺はもう『勇者』じゃない)
(あいつらを助けても、どうせロクなことにならない。開拓地での一件で、学んだはずだ)
彼は、自分にそう言い聞かせ、その場を立ち去ろうとした。
「――パパ! 助けて!!」
金切り声。
見ると、衛兵の一人が、キマイラの酸に脚を焼かれ、倒れていた。その衛兵に向かって、幼い少女が泣きながら駆け寄ろうとしている。
「来るな! リナ! 逃げろ!」
衛兵は、絶望的な形相で叫ぶ。
キマイラが、その新しい獲物(少女)に気づき、巨大な獅子の顎を開いた。
「…………」
ミナトの時間が、止まった。
脳裏に、あの教室で怯えていた自分と、あの開拓地で鞭打たれていたクラスメイトの姿が、同時にフラッシュバックした。
(……面倒だ)
ミナトは、心の底から、そう呟いた。
(……本当に、面倒だ)
次の瞬間。
キマイラの眼前に、ミナトの姿が「出現」していた。
スキル『身体能力超強化』による、音を置き去りにした移動。
「グルル!?」
キマイラは、少女を庇うように立ったミナトに対し、至近距離から強酸のブレスを吐き出した。
ミナトは、剣を抜かなかった。
ただ、片手を前にかざす。
「『聖域』」
詠唱破棄で発動した上級防御魔法。
不可視の障壁が、強酸のブレスを完全に霧散させる。
「え……」
衛兵も、少女も、何が起きたのか理解できていない。
キマイラは、獲物を邪魔されたことに激怒し、毒蛇の尾をミナトに突き刺そうとする。
「……遅い」
ミナトは、その尾を素手で掴み取った。
そして、Aランク魔獣の巨体を、軽々と掴み上げ、町の中央広場まで投げ飛ばした。
凄まじい地響きと共に、キマイラが瓦礫に叩きつけられる。
ミナトは、衛兵と少女に一瞥もくれず、広場へと歩いていく。
(……やるしかない)
(こいつを倒すには、あの『力』を使うしかない)
(結局、俺はこの女神の力を借りなければ、何も救えないのか)
一瞬、葛藤がよぎる。
だが、ミナトは首を振った。
(……だから、どうした)
(バレたら、バレた時だ)
彼は、腰の剣を抜いた。
「キィィシャァァァァ……!!」
起き上がったキマイラが、ミナトめがけて突進する。
ミナトは、剣に、自らの『女神の祝福』に由来する、膨大な聖なる魔力を注ぎ込んだ。
カイルネス峡谷で、『影の魔豹』を仕留めた、あの力。
「『光刃』」
白銀の剣が、天を突くほどの光の刃と化す。
ミナトは、それを、ただ、振り下ろした。
閃光。
町全体が、真昼のように照らされた。
キマイラは、悲鳴を上げる間もなく、その巨体ごと、光の中に「蒸発」し、消滅した。
「…………」
生き残った町の人々が、呆然と、光の剣を収めたミミナトを見つめている。
「あ……ああ……」
「女神、さま……?」
「……助かった……のか……?」
ミナトは、彼らの声に、振り返らなかった。
ゴブリンの時と同じだ。
(鬱陶しい)
彼は、町の人々からの感謝の言葉が始まる前に、再び城壁を飛び越え、平原の闇へと姿を消した。
その、直後。
神域。
女神セレスティーナが睨む、魔法の世界地図。
ミナトのステータスが消えて以来、彼がいた場所は「空白」のままだった。
だが、今。
その地図の南、「アルテア平原」の一点が、チカッ、と、強く、赤く、点滅した。
「…………」
女神は、その完璧な唇に、愉悦の笑みを浮かべた。
「……見つけましたわ、愚かな裏切り者」
彼女には、ミナトの姿は見えない。
だが、ミナトが「ギフト(わたくしの力)」を行使したことで、世界の「理」に生じた、強烈な「歪み(ひずみ)」と「座標」は、感知できた。
「どこまでも『甘い』子。結局、わたくしが与えた力を使わなければ、何もできない」
女神は、即座に、二方面へ「神託」を降ろした。
一つは、王都の国王アルトリウスへ。
『反逆者、南ノ「アルテア平原」ニ潜伏セリ。直チニ討伐隊ヲ送レ』
そして、もう一つ。
すでに鉱山を脱出し、ミナトの行方を追っていた、「復讐者」佐藤健也へ。
『――獲物は、南よ。アルテア平原に行きなさい』
二つの、ミナトを狩るための「牙」が、ついに、同じ獲物の匂いを嗅ぎつけた瞬間だった。




