第二十八話:『自由』の代償
神崎湊は、王都の森を抜け、当てもなく荒野を歩いていた。
王都を脱出して、すでに三日が経過していた。
『鑑定』に引っかからないことを確信してからは、小さな村を見つけても、あえて立ち寄ることはしなかった。
(……今、誰かと関わりたいとは思えない)
国王、クラスメイト、そしてリリアーナ王女。
「信じていた」とすら思っていなかった者たちからの裏切り(あるいは期待外れな反応)は、ミナトの心を、彼が思っている以上に深く蝕んでいた。
空腹は感じない。
スキル『アイテムボックス(容量無限)』には、王城を出る前に詰め込んだ、最高級の保存食料がまだ大量に残っている。
夜は、スキル『全属性魔法適性』を使い、風を防ぐ『土魔法』と、体温を保つ『火魔法』で、即席の快適な野営地を作れた。
肉体的な苦痛は、何一つなかった。
だが、心が、どうしようもなく空っぽだった。
(……これから、どうする)
王城にいた頃は、明確な「任務」があった。
オーガを倒せ。盗賊団を潰せ。ワイバーンを狩れ。
それは、国王に「やらされている」ことではあったが、同時に、民衆からの「感謝」と「称賛」という、明確な「報酬」を彼に与えてくれた。
いじめられっ子だった彼にとって、それは麻薬のような快感だった。
だが、今は?
誰も彼に命令しない。
誰も彼に期待しない。
彼は「自由」だ。何をしてもいい。
何をしてもいい、ということは、何もしなくてもいい、ということでもあった。
(……魔物でも、探しに行くか)
ミナトは、腰の剣に手をやった。
スキル『超速成長(EXP1000倍)』。
戦えば、強くなる。だが、
(強くなって、どうするんだ?)
(魔王を倒す? ……それは、俺を裏切った国王の仕事だ)
(もう、俺には関係ない)
『勇者』という「役割」を捨てた彼は、戦う「理由」すら失っていた。
ただ、無意味にレベルを上げるだけの作業。
それは、教室の隅で、ただ息を潜めて時間を潰していた、あの頃の無気力感と、どこか似ていた。
その時だった。
ガサリ、と近くの茂みが揺れた。
ミナトは、条件反射で剣を抜いた。
茂みから飛び出してきたのは、二匹のゴブリン。そして、その後ろから――
「きゃああああっ!」
小さな女の子を抱えた、若い母親らしき女性が、足を滑らせて転んだ。
どうやら、近くの村へ帰る途中、ゴブリンに襲われたらしい。
「グルルル……!」
ゴブリンは、弱った獲物を見つけ、下卑た笑みを浮かべ、ナタを振り上げた。
(……)
ミナトは、その光景を、冷めた目で見つめていた。
王城にいた頃の自分なら、迷わず飛び出し、一瞬でゴブリンを斬り捨てていただろう。
そして、母親から「ありがとうございます、勇者様!」と感謝され、高揚感を覚えていたはずだ。
だが、今の彼は『勇者』ではない。
(……助けるか)
(助けて、どうなる?)
(礼を言われる? 面倒だ)
(見返りもないのに、なぜ俺が?)
彼の心は、開拓地での一件以来、他者への「善意」というものを、完全に失いかけていた。
ゴブリンのナタが、母親の頭上へと振り下ろされる。
母親は、娘を守るように、強く抱きしめ、目を閉じた。
「……チッ」
ミナトは、舌打ちした。
その姿が、あの教室で抵抗できずにいた、かつての自分自身と重なったからか。
あるいは、彼を庇おうとした、田中美咲の姿と重なったからか。
理屈ではなかった。
ミナトの姿が、その場から消えた。
ゴブリンは、自分がナタを振り下ろしたはずの空間から、獲物(母娘)が消え、代わりに目の前にミナトが立っていることを、認識できなかった。
ザシュッ。
二つの命が、音もなく消えた。
ミナトは、剣を振るうことすらしなかった。ただ、すれ違いざまに、手刀に『風魔法』を纏わせ、二匹の首を同時に刎ねただけだった。
「……え?」
母親は、自分がまだ生きていることに気づき、恐る恐る目を開けた。
目の前には、ゴブリンの死体と、自分たちを庇うように立つ、フードの男の背中があった。
「あ……あの……!」
母親が、感謝の言葉を口にしようと、立ち上がる。
「助けていただいて……!」
「……もう、行け」
ミナトは、振り返らなかった。
「はやく村へ帰れ。二度と来るな」
「あ、ありがとうございます……! あの、お名前を……!」
「名乗るほどの者じゃない」
ミナトは、母親の感謝の言葉を聞き終える前に、その場から立ち去った。
母親は、あっという間に森へ消えていく謎の恩人の背中を、ただ呆然と見送るしかなかった。
森の中。
ミナトは、血糊(本当は血などついていないが)を払うように、手を振った。
(……気分が悪い)
助けたのに、気分が悪い。
感謝されるのが、面倒で、鬱陶しい。
(俺は……どうなっちまったんだ)
『勇者』を捨てた代償として、彼が失ったのは、地位や名誉だけではなかった。
人を助け、感謝されることに喜びを見出していた、かつての「自分」そのものだったのかもしれない。
ミナトの放浪は、自らの「心」を取り戻すための、暗い旅の始まりでもあった。




