第二十五話:女神の反転
神々が住まう神域。
そこは、下界の争いとは無縁の、永遠の光に満ちた場所。
女神セレスティーナは、自らの神殿に設えた水鏡で、いつものように「お気に入り」の様子を眺めていた。
彼女は、ミナトが王城を脱出した時も、さほど気にしてはいなかった。
(まあ、少しお灸を据えれば、また素直な『剣』に戻るでしょう)
(あの子が逃げ込める場所など、わたくしの手のひらの上しかないのですから)
彼女は、自分が作った盤上で、駒が少し反抗的な動きをすることすら、娯楽として楽しんでいた節があった。
だが、田中美咲の宿舎の一室。
ミナトが自らのステータスを書き換えようとした、その瞬間。
女神の表情から、笑みが消えた。
「……まさか」
水鏡の中で、ミナトが苦悶の表情を浮かべ、自らのギフトを行使する。
『地位:勇者』
その、女神がミナトだけに与えた、最大級の「寵愛」の証である文字列に、亀裂が走る。
「やめなさい」
女神の声は、まだ静かだった。
だが、次の瞬間。
ミナトの力が「理」をねじ伏せ、『勇者』の地位がガラスのように砕け散った。
パリン。
水鏡には映らない音。
だが、女神セレスティーナの中で、確かに何かが砕ける音がした。
「…………」
彼女の神殿から、光が消えた。
いや、女神自身が放っていた慈愛のオーラが消え失せ、その神々しいまでの美貌が、氷のように冷たく、無感情なものに変質したのだ。
「……愚かな」
ぽつり、と呟かれた声は、もはや鈴の音ではなく、地獄の底から響くような冷気を帯びていた。
「わたくしが、救って差し上げたのに」
「わたくしが、力を与えて差し上げたのに」
「わたくしが、『勇者』という最高の輝きを、授けて差し上げたというのに」
水鏡に映るミナトは、ステータスを消し去り、どこか晴れやかな、力強い顔で立ち上がっている。
その顔は、もはや女神の庇護を必要としない、「一個の人間」の顔だった。
それが、女神には許せなかった。
自分の「お気に入り」が、自分の「所有物」が、自分の管理下から完全に離脱した。
「……裏切り者」
女神セレスティーナは、ミナトが映っていた水鏡から、す、と視線を外した。
(もはや、あの子に用はありません。壊れた玩具など、不要ですわ)
彼女の関心は、もはやミナトにはなかった。
彼女の「依怙贔屓」は、その対象を失い、即座に「怒り」へと転換された。
(ですが、わたくしの『盤』を荒らした罪は、償ってもらわねば)
女神は、別の水鏡を覗き込んだ。
そこには、王都アルカディアの玉座で、勇者逃亡の報に頭を抱える、国王アルトリウスの姿が映っていた。
女神は、彼に向かい、冷厳な「神託」を降ろす準備を始めた。
『わたくしが与えた勇者の名は、剥奪する』
『かの者は、もはや勇者にあらず。わたくしの恩寵を裏切った、ただの『反逆者』である』
『王国の全てをもって、反逆者ミナトを捕縛し、処断せよ』
そして。
女神は、さらに別の水鏡を起動させた。
そこが映し出したのは、王都から遥か北。
太陽の光も届かない、グレイロック鉱山の最深部。
そこには、ミナトへの復讐心だけを糧に、ツルハシを振るう、一人の『罪人』がいた。
佐藤健也。
女神セレスティーナは、その憎悪に満ちた獣のような瞳を、値踏みするように見つめた。
そして、その完璧な唇に、初めて、悪魔のような冷たい笑みを浮かべた。
「……『光』がダメなら、『闇』を使いましょう」
「反逆者を狩るのに、同じく反逆を夢見る『罪人』を使うのも、また一興ですわね」
女神は、今や「王国」と「元・クラスメイト」という二つの敵を失ったミナトに対し、第三にして最大最強の「敵」として、立ちはだかろうとしていた。
彼女の「ざまあ」は、まだ終わっていなかったのだ。




