第二十四話:理の改竄(リライト)
田中美咲の、ギルド宿舎の小さな一室。
窓から差し込む月明かりだけが、床にうずくまるミナトの姿をぼんやりと照らしていた。
「ミナト様……いえ、神崎くん……」
美咲は、戸惑いと恐怖で声を震わせた。
彼女が匿っているのは、数日前まで王都の英雄だった男。そして今、王国中から追われる「反逆者」だ。
「どうするんですか……! 王城を抜け出したなんて、街中は衛兵さんだらけですよ!」
「……わかってる」
「ここにいるのがバレたら、神崎くんだけじゃなくて、私や、ギルドの皆にも……!」
「わかってる!」
ミナトは、焦りを滲ませた声で遮った。
「顔を隠して、夜のうちに街を出る。それしかない」
「でも、城門は全部閉まってます! 壁を越えられたとしても、街の外も捜索隊だらけじゃ……」
「……」
ミナトは、そこまで考えていなかった。
いや、それ以上に、根本的な問題に気づき、戦慄した。
(ダメだ……)
ミナトは、自分の甘さを呪った。
(顔を隠しても、無意味だ)
(衛兵や、ギルドの職員とすれ違った瞬間、『鑑定』を使われたら?)
(俺のステータスには、『勇者』と表示される)
この世界において、「ステータス」は戸籍であり、身分証だ。
そして、ミナトの『勇者』というステータスは、今や「指名手配犯」のマークそのもの。
(……詰んでる)
逃げても、隠れても、鑑定された瞬間に終わり。
彼は、この世界で生きていくことすらできない。
(意外と馬鹿だった、か……)
昨夜、開拓地から逃げ出した自分の姿を思い出し、ミナトは自嘲した。
(結局、俺は何もできないまま、捕まるのか)
(そして、田中さんまで、俺を匿った罪で……)
「神崎くん……?」
絶望に目を見開くミナトの姿に、美咲が息を呑む。
(……いや)
ミナトは、自分の目の前に、光の板――ステータスプレート――を呼び出した。
=====
名前:ミナト・カンザキ
地位:勇者
ギフト:女神の祝福
=====
(……これだ)
ミナトは、今までその「副産物」しか使ってこなかった、自らの根幹となるギフトを睨みつけた。
あの日、女神は言った。
『あらゆる理を書き換える、唯一無二の力』と。
(「ステータス」が、この世界の「理」だというのなら)
(その「理」を、俺が「書き換え」られないはずがない)
ミナトは、床に座り込んだまま、目を閉じ、精神を集中させた。
自らのステータスプレート。
その、『地位:勇者』という文字列。
(変われ)
(変われ、変われ、変われ!)
『勇者』から、『平民』へ。
だが、文字列は微動だにしない。
(……くそっ、なぜだ!)
(違う……)
(「平民」に『変える』んじゃない)
(俺はもう、何者でもないんだ)
(「勇者」という理そのものを、俺から『消す』んだ)
ミナトは、再び集中した。
今度は、『地位:勇者』という文字列そのものを、対象にする。
(――『理の改竄』)
ミナトが、心の底からそう叫んだ瞬間。
彼の全身から、凄まじい魔力が溢れ出し、バチッ、と部屋の空気が鳴った。
ステータスプレートが、激しく明滅する。
『地位:勇者』
その文字列に、亀裂が走る。
そして、ガラスが砕け散るように、音もなく、消滅した。
同時に、『名前:ミナト・カンザキ』の文字列も、薄れ、消えていった。
「……はぁ……っ、はぁ……」
ミナトは、全身の力が抜けたように、激しく肩で息をした。
美咲が、目の前で起こった超常現象に、腰を抜かしている。
ミナトは、震える手で、もう一度ステータスプレートを呼び出した。
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名前:(空白)
地位:(空白)
ギフト:女神の祝福
スキル:
・全属性魔法適性(最上級)
・身体能力超強化(Lv.MAX)
・超速成長(EXP1000倍)
……(他は全てそのまま)
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「…………できた」
ミナトの口から、乾いた笑いが漏れた。
「できたぞ、田中さん……」
「え……? え……?」
「俺は、今、この世界から『消えた』」
「勇者ミナト」は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、名前も地位も持たない、ただの「何者か」だ。
ミナトは、立ち上がった。
その瞳には、開拓地で逃げ出した時のような、絶望も虚無もなかった。
初めて、自分自身の「力」で、この世界の「理」をねじ伏せた。
その事実は、彼に、王国に頼らない、新たな「道」を示していた。
「田中さん。ありがとう。もう、大丈夫だ」
ミナトは、美咲に深く頭を下げた。
「俺は、行く。この街を出て、俺が本当に何をすべきか、見つける」
「神崎くん……」
「君も、気をつけて。俺と関わっていたことは、絶対に誰にも言うな」
ミナトは、窓枠に手をかけた。
もう、彼は『勇者』ではない。
だが、その背中は、王城を逃げ出した時よりも、遥かに力強かった。




