第二十三話:唯一の、か細い糸
森を、どれだけ駆けただろうか。
神崎湊は、背後から追っ手の気配が完全に消え去ったことを確認すると、巨大な樹木の根元に、崩れるように座り込んだ。
「はぁ……っ、はぁ……」
体力は、スキル『身体能力超強化』のおかげで無限に近い。
だが、精神が、もう限界だった。
(……馬鹿みたいだ)
ミナトは、泥だらけの手で顔を覆った。
国王に裏切られ、元クラスメイトには逆恨みされ、王城の「影」を力ずくで振り切ってきた。
「勇者」の地位も、「王国最強」の名誉も、リリアーナ王女の好意も、全てを捨てて。
(……何がしたかったんだ、俺は)
クラスメイトを助けたかった?
いや、違う。彼らのあの目を見た瞬間、そんな気は失せた。
国王の嘘を正したかった?
それも違う。あの「影」を差し向けられた時点で、もう分かり合うことなど不可能だと悟った。
結局、俺は。
あの教室で、健也のいじめから逃げていた時と、何も変わっていない。
目の前の「現実」が自分の手に負えなくなると、ただ、逃げ出すことしかできない。
(あいつらの言う通りだ。『見て見ぬふり』だ)
ミナトは、自嘲の笑みを浮かべた。力だけ手に入れても、中身はあの頃のままだった。
だが、いつまでもここで朽ち果てるわけにはいかない。
ミナトは、重い体を無理やり立ち上がらせた。
これから、どうするか。
王城には戻れない。戻れば、今度こそ「爆弾」として、地下牢に幽閉されるか、あるいは……。
開拓地にも戻れない。あの顔を二度と見たくない。
(……行く場所が、ない)
この広大な異世界で、ミナトは完全に孤立無援となった。
いや、とミナトは首を振った。
(一人、いる)
(あの人だけは、俺に『真実』を教えてくれた)
(あの人も、『農奴』でも『罪人』でもなく、俺と同じ『平民』として、この世界で戦っている)
田中美咲。
彼女の顔が、脳裏に浮かんだ。
ミナトは、王都の方角を見据えた。
(……王都に戻るのか)
今、王都は、脱走した「元・勇者」を捕縛するため、厳戒態勢が敷かれているに違いない。
城門は閉じられ、衛兵たちが見張っているだろう。
だが、行かなければならない。
このまま当てもなく森をさまよっても、精神がすり減るだけだ。
ミナトは、夜を待った。
陽が落ち、深い闇が王都を包む頃、彼は再び動き出した。
王都の高い城壁。
衛兵たちが見張る城門を、ミナトは鼻で笑った。
(……こんなもの、俺にとっては『壁』ですらない)
彼は、人目につかない暗がりから、城壁に向かって跳躍した。
スキル『身体能力超強化』。
その体は、重力に逆らうように数メートルの壁を駆け上がり、音もなく、王都の市街地へと侵入を果たした。
深夜の王都は、静まり返っていた。
だが、あちこちで衛兵たちが松明を持って巡回しているのが見える。やはり、厳戒態勢だ。
ミナトは、建物の屋根を伝い、影から影へと飛び移り、冒険者ギルドへと向かった。
ギルドの建物は、すでに閉まっていた。
だが、裏手に回ると、ギルド職員が使う宿舎があるのを、美咲から聞いていたことを思い出す。
(……ここか)
簡素だが清潔な宿舎。
ミナトは、美咲の部屋がどれか知らない。
だが、スキル『鑑定(真)』を、建物全体に、ごく微弱に行使した。
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名前:タナカ・ミサキ
地位:平民
状態:睡眠(浅い)
=====
(……いた)
二階の、一番奥の部屋。
ミナトは、音もなくその窓の外に着地し、ガラスを、コン、コン、と軽く叩いた。
「……ん……」
中で、寝返りを打つ気配がする。
ミナトは、もう一度、叩いた。
「……はい……?」
寝ぼけ眼の美咲が、窓に近づいてくる。
「……!」
窓の外、闇の中に立つ人影を見て、美咲が息を呑んだ。
ミナトは、口元に人差し指を当て、「静かに」というジェスチャーを送る。
美咲は、一瞬、恐怖に目を見開いたが、それが「ミナト様」であることに気づくと、慌てて窓の鍵を開けた。
「ミナト様!? どうして、こんな……!」
窓から滑り込んだミナトは、疲労困憊の顔で、その場に崩れ落ちそうになった。
「……頼む、田中さん」
彼は、この世界に来て初めて、他人に「助け」を求めた。
「……少しだけでいい。匿って(かくまって)くれないか」
美咲は、伝説の英雄の、あまりにも弱り切った姿に、ただ、呆然と頷くことしかできなかった。




