第二十二話:『勇者』の逃走
「殺せよ!」
「なんでお前だけ!」
「卑怯者! 助けられるくせに!」
元クラスメイトたちの、憎悪と嫉妬にまみれた金切り声が、開拓地の冷たい空気を切り裂く。
神崎湊は、剣を握りしめたまま、その場で凍りついていた。
(……助けろ?)
(俺が、こいつらを?)
目の前で喚き散らす、痩せこけ、泥にまみれた顔。
その顔が、あの教室で、自分が健也に殴られているのを、嘲笑しながら、あるいは無関心に眺めていた顔と、完全に重なった。
彼らは、変わっていなかった。
いじめられていたのが自分から衛兵に変わっただけ。自分たちの保身のために、見て見ぬふりをしたあの日のまま。
今、自分に力が宿ったと知るや、今度はその力を「利用」して、自分たちの都合のいいように「命令」している。
(ああ、そうか……)
ミナトの中で、衛兵への殺意も、国王への怒りも、急速に冷めていく。
それらの感情を、もっと強烈な、吐き気にも似た「虚無感」と「嫌悪感」が上回った。
(……馬鹿みたいだ)
(俺は、こんな奴らのために、王国と敵対しようとしていたのか)
(こいつらを助ける? 助けたとして、何になる?)
ミナトの迷いは、もはや「葛藤」ではなかった。
ただ、純粋な「無価値」という判断。
その一瞬の精神的な空白を、「影」たちは見逃さなかった。
「ミナト様。お分かりいただけたでしょう」
包囲していた「影」の一人が、ミナトの腕にそっと手をかけた。拘束するためだ。
「さあ、お戻りください。彼らは、貴方が心を砕くべき存在ではありませぬ」
その手が、ミナトの肌に触れた。
瞬間。
ミナトの虚無は、「拒絶」となって爆発した。
「――触るな」
地を這うような低い声。
ミナトは、腕を掴もうとした「影」の手を、見えないほどの速度で振り払った。
彼の怒りの矛先は、もはやクラスメイトでも、衛兵でもなかった。
自分を「道具」として連れ戻そうとする、この「影」たち。
そして、その向こうにいる、国王。
「ミナト様、抵抗なさるか!」
「影」たちの空気が、監視から「制圧」へと変わる。数人が、同時にミナトに飛びかかった。
「……消えろ」
ミナトは、もはや剣を抜かなかった。
スキル『身体能力超強化』。
彼は、ただ、影たちに向かって「歩いた」。
常人には目で追えない速度で放たれる「影」たちのクナイや鎖を、ミナトは紙一重ですべて避け、すれ違いざまに、飛びかかってきた一体の鳩尾に、容赦のない肘鉄を叩き込む。
「がっ……!?」
王国の暗部が、まるで子供のように吹き飛んだ。
「馬鹿な、速すぎ……」
「これが、勇者……!」
「影」たちは、ミナトを「殺す」ことは許されていない。手加減をしながら「制圧」しようとする彼らと、「拒絶」だけを目的とするミナトとでは、勝負にならなかった。
ミナトは、彼らを殺すことなく、しかし戦闘不能になるギリギリの打撃を与えながら、その包囲網を突破した。
「……あ」
高橋たちが、呆然とその光景を見ていた。
圧倒的な力。
自分たちを虐げる衛兵でも、謎の黒服たちでもない、ミナトの、本物の「力」。
ミナトは、開拓地の出口、森の入り口で、一度だけ足を止めた。
そして、ゆっくりと、クラスメイトたちを振り返った。
「!」
高橋たちが、息を呑む。
(助けてくれるのか!?)
(そうだ、あいつらを倒して、俺たちを……!)
希望の光が、彼らの瞳に一瞬宿った。
だが、ミナトの瞳は、彼らを「救済」の対象として見てはいなかった。
まるで、道端に転がる石か、汚物でも見るかのような、絶対零度の、冷え切った瞳だった。
ミナトは、何も言わなかった。
ただ、彼らに背を向けた。
「……え?」
高橋の顔から、血の気が引いた。
「ま、待てよ……」
「どこ行くんだよ!」
「助けろよ! 助けろって言ってんだろ!」
「卑怯者! 逃げるのか!」
「お前、あの時と一緒じゃねえか! 見て見ぬふりかよ!」
「勇者のくせに! この人殺し!」
罵声が、背中に突き刺さる。
(……ああ)
(そうだ。それでいい)
ミナトは、もはや何も感じなかった。
国王にも裏切られ、クラスメイト(なかま)にも失望した。
この世界に、俺の居場所は、どこにもない。
ミナトは、二度と振り返らなかった。
彼を罵るクラスメイトたちの声を背に、ただ、当てもなく、深い森の中へとその姿を消していった。
『白銀の勇者』が、王国から、そして彼が守るべきだった民から、完全に「逃亡」した瞬間だった。




