第二話:それぞれのスタートライン
眩い光が収まった時、神崎湊たちを包んでいたのは、荘厳な神殿ではなく、埃っぽい広場の喧騒だった。
石畳の広場。レンガ造りの建物。行き交う人々は、獣の耳を生やしていたり、明らかに人間とは違う体躯をしていたりと、ここが自分たちの知る世界ではないことを雄弁に物語っていた。
「……どこ、ここ」
「街? っていうか、人多くない?」
転生させられたクラスメイトたちは、突然の変化に戸惑い、不安げに身を寄せ合っていた。彼らの服装は、一様にみすぼらしい麻の貫頭衣のようなものに変わっている。つい先ほどまで着ていた学生服の面影はどこにもない。
田中美咲は、その集団から少しだけ離れた場所に立っていた。
彼女は、自分の服装が他の大多数の生徒とは違うことに気づいていた。貫頭衣ではなく、簡素だが清潔な木綿のワンピースと、丈夫そうな革のサンダル。
「私……」
おそるおそる、自分のステータスプレートを意識する。光の板が目の前に現れた。
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名前:タナカ・ミサキ
地位:平民
ギフト:生活魔法
スキル:『ウォーター(水生成)』『クリーン(洗浄)』『ドライ(乾燥)』『スモールヒール(小治癒)』
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「生活魔法……」
美咲は、祈るように手を組み、『ウォーター』と呟いてみた。すると、手のひらの上にぽこんと小さな水の塊が出現する。
「わっ……!」
驚いて手を振ると、水はぱしゃりと石畳に落ちて小さな染みを作った。本物の魔法だ。戦闘にはまったく向かないだろうが、生きていく上では確かに役立ちそうだった。
その時、甲冑をまとった衛兵らしき男たちが、広場の隅に固まっていたクラスメイトたちに近づいてきた。
「お前たちか、女神様の神託にあった『転生者』というのは」
低い、事務的な声。衛兵たちは、生徒たちのステータスプレートを一瞥し、面倒くさそうに吐き捨てた。
「チッ、揃いも揃って『農奴』か『雑用係』か。まあいい、人手はいくらあっても足りん」
「え、あの、俺たち……」
「口答えするな。お前たちには労働の義務が課せられている。まずはギルドで登録だ。こっちへ来い」
衛兵たちは、抵抗しようとする元クラスメイトたちを威圧し、まるで家畜を追いやるかのように、ぞろぞろと広場の一角へ連行していく。その中には、昨日まで教室で楽しそうに笑っていた女子生徒たちの姿もあった。彼女たちは、みすぼらしい服と、これからの運命に絶望し、泣きじゃくっていた。
美咲は、息を飲んでその光景を見ていた。自分もあの中に入らなければならないのだろうか。
「……ん? そこな嬢ちゃんは」
衛兵の一人が、美咲に気づいた。男は美咲のステータスプレートを確認すると、わずかに目を見開く。
「ほう、『平民』か。珍しいな、この中に『平民』持ちがいるとは」
男の態度は、先ほどまでの威圧的なものとは違い、いくらか穏やかなものに変わっていた。
「君は彼らとは違う。街のギルドで『平民』として登録しなさい。そうすれば、市民権と当面の仕事、宿舎が手配されるだろう。場所はわかるか?」
「あ、いえ……」
「あそこの、剣と盾の看板が下がっている建物だ。行きなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」
美咲は深々と頭を下げ、足早にその場を離れた。連行されていくクラスメイトたちの、羨望と、あるいは嫉妬が混じった視線が背中に突き刺さる。
(私……助かったんだ)
湊を助けようとした、あのささやかな行動。神様(女神)は、本当によく見ていてくれたのだ。
美咲は、自分に与えられた『平民』という地位を噛み締め、ギルドへと続く道を急いだ。
一方で。
神崎湊が目を覚ましたのは、広場の喧騒とは無縁の場所だった。
ふか、と沈み込む感触。鼻腔をくすぐる、微かに甘い香。目を開けると、視界に飛び込んできたのは、見たこともない豪奢な天蓋だった。
「……どこだ、ここ」
慌てて跳ね起きると、そこはベッドの上だった。キングサイズと呼んでもまだ足りないほど巨大で、シーツは滑らかなシルクの肌触りがする。
部屋は信じられないほど広かった。磨き上げられた床、ビロードのカーテン、美しい彫刻が施された調度品。まるで映画で見る王族の寝室だ。
広場で、クラスメイトたちと一緒にいたはずが、自分だけが光に包まれ、次の瞬間にはこの部屋にいた。
「……!」
湊は、自分の服装が変わっていることにも気づいた。学生服ではない。体に吸い付くような、上質だが動きやすさを重視した白いチュニック。その上には、軽量な金属で編まれた、芸術品のように美しい胸当て(チェストプレート)。腰には、白銀の鞘に収まった片手剣が吊るされている。
何より、視界が驚くほどクリアだった。
昨日まで、分厚いメガネを通さなければ世界はぼやけていたのに、今は部屋の隅の埃までくっきりと見える。
「メガネ……」
顔に手をやるが、そこにあるはずのものがない。神殿で、女神に外すよう言われて落としたままだった。だというのに、この視力は。
呆然としていると、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「勇者様。お目覚めでいらっしゃいますか」
「え、勇者……?」
「失礼いたします」
静かに扉が開き、一糸乱れぬ動きで入ってきたのは、数人のメイドと、燕尾服を隙なく着こなした壮年の執事だった。
「おはようございます、勇者・ミナト様。私は勇者様付きの侍従長を拝命いたしました、セバスと申します」
執事セバスは、恭しく胸に手を当てて一礼した。メイドたちも一斉にスカートの裾をつまんで挨拶する。
「あ、あの、神崎です……」
「承知しております。ですが、女神セレスティーナ様より『ミナト様とお呼びしなさい』と直々にご下命がございました」
「女神様が……」
「はい。女神様は『あの方の、あの美しいお顔に傷一つつけぬよう、また、一切の不自由をさせぬよう、万全の体制でサポートなさい。これは神託です』と、強く仰せつかっておりました」
セバスは真顔で言う。その瞳には、女神の「お気に入り」に対する絶対的な敬意が宿っていた。
これが、依怙贔屓。
「まずは朝食の準備を。その後、国王陛下への謁見が予定されております」
メイドたちが手際よくテーブルに料理を並べていく。湯気を立てるスープ、黄金色に焼かれたパン、艶やかな果物。昨日、健也にパシリをさせられていた時には想像もつかない光景だ。
湊は、改めて自分のステータスプレートを呼び出す。
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名前:ミナト・カンザキ
地位:勇者
ギフト:女神の祝福
スキル:
・全属性魔法適性(最上級)
・身体能力超強化(Lv.MAX)
・超速成長(EXP1000倍)
・アイテムボックス(容量無限)
・鑑定(真)
・自動翻訳
・自動回復(超)
・女神の加護(常時発動)
……他多数
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「…………」
あまりのチートっぷりに、湊は言葉を失った。視力が回復しているのも、おそらくはこのギフトの影響だろう。
「勇者様、いかがなさいましたか?」
「あ、いえ……」
セバスに促され、湊はテーブルの前に座った。部屋の隅に置かれた姿見に、自分の姿が映っている。
そこにいたのは、卑屈に背を丸めていた昨日までの自分ではなかった。
姿勢よく椅子に座り、上質な服に身を包んだ、自分でも見惚れるほど端正な顔立ちの青年。涼やかな目元は、不安と戸惑いを浮かべながらも、どこか力強い光を宿し始めていた。
(他の皆は、どうなったんだろう……)
特に、健也たち、そして、田中さんのことも気にかかる。
だが、セバスの丁寧だが有無を言わせぬ態度に、それを尋ねる隙はなかった。
「さあ、勇者様。お召し上がりください。本日はお忙しくなりますゆえ」
差し出された銀のスプーンを、湊はゆっくりと手に取った。
地獄から天国へ。あまりにも急すぎる転落、あるいは飛翔。
こうして、神崎湊の、女神の絶大な依怙贔屓に守られた異世界生活が、王城という最高すぎるスタートラインから始まろうとしていた。




