第十九話:王城脱出
国王アルトリウスが「爆弾」と断じた勇者への監視は、その夜から、人の目につく「近衛騎士」から、気配なき「影」へと切り替わった。
自室の扉一枚を隔てた向こう側。
そこに立つ者の気配が、昨日までのそれとはまったく異質であることに、神崎湊はすぐに気づいた。
(……殺気だ)
騎士が放つ「守護」の気配ではない。獲物の動きを監視し、場合によっては即座に「処分」すら辞さない、冷徹な暗部の気配。
『鑑定(真)』スキルを使うまでもなく、戦闘で研ぎ澄まされたミナトの感覚がそう告げていた。
(ここまでやるか、国王陛下)
ミナトの心は、もはや怒りを通り越し、冷え切っていた。
自分は「勇者」ではなく、王城に囚われた「囚人」なのだと、明確に自覚した。
(……だが、好都合だ)
扉からの脱出は、この「影」との戦闘になる。それは避けたい。
だが、彼らは、ミナトが「窓」から出ていくことまでは、想定していないだろう。
ミナトは、白銀の鎧(それは国王から与えられた「勇者の象徴」だ)を部屋の隅に脱ぎ捨てた。
動きやすい黒の戦闘服に着替え、腰に愛剣だけを差す。最低限の食料と水を、『アイテムボックス』に詰め込んだ。
もう、ここに戻るつもりはなかった。
窓枠に手をかけ、鍵を外した、その瞬間。
コン、コン。
静かな夜の闇に、控えめなノックの音が響いた。
「……」
ミナトは動きを止めた。
扉の向こうの「影」は、微動だにしない。ノックの主は、その監視を通過することを許可された人物。
「ミナト様……? 起きていらっしゃいますか……?」
リリアーナ王女の声だった。
「……お休みください、王女殿下。もう夜更けです」
ミナトは、ドア越しに、感情を殺した声で答えた。
「ミナト様……! お願いです、開けてくださいまし!」
声が、わずかに震えている。
「わたくし、心配で……。あの日、ギルドでお会いしてから、ミナト様はずっとご自分のお部屋に……。今日の任務のことも、騎士団長から聞きましたわ。とても、乱暴な戦い方をなさったと……」
「……」
「お父様も、ミナト様のこと、とても心配なさっていました。『勇者殿は、心が疲れているのだ』と……。ミナト様、何があったのですか? わたくしには、話してくださいませんか?」
(心配……だと?)
ミナトの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
(俺に「影」を差し向けておいて、「心配」か)
(この人も……国王とグルになって、俺を騙していたのか?)
一瞬、リリアーナのあの無邪気な笑顔が、全て計算された「演技」だったのではないかという疑念が、ミナトの心を焼いた。
だが、ドア越しに聞こえる声は、演技とは思えないほど切実で、純粋な不安に満ちていた。
(……違う)
ミナトは、首を振った。
(この人は、多分、何も知らない)
(何も知らず、ただ、父親の言う通りに俺を「心配」しに来たんだ)
そう思うと、リリアーナがひどく哀れに見えた。
同時に、そんな彼女を「利用」している王家への嫌悪感が、さらに強まった。
「……すみません、リリアーナ様」
ミナトは、窓の方へ向き直った。
「俺は、行かなければならない場所がある」
「え……? 行くって、どこへ……?」
「もう、あなた方の言う『勇者』でいるのは、やめたんです」
「ミナト様!? どういう意味ですの!? 待って……!」
リリアーナの悲鳴に近い声を、背中で聞く。
ミナトは、ためらわなかった。
音もなく窓を開け、夜の冷たい空気に身を躍らせる。
スキル『身体能力超強化』。
王城の数階の高さから、彼の体は羽のように軽く、しかし矢のように速く落下し、中庭の深い茂みの中に、足音一つ立てずに着地した。
「――!?」
扉の外。
「影」は、ミナトの部屋から魔力の気配が消えたことに、コンマ数秒遅れて気づいた。
「侵入者か!?」
「いや、勇者が、窓から――!」
扉が蹴破られる音が遠くで響く。
リリアーナの「ミナト様!」という絶叫が、夜の王城にこだました。
だが、もう遅い。
警鐘が鳴り響く王城を背に、神崎湊は、この世界に来て初めて、自分自身の「意志」で、闇の中を駆け出していた。
向かう先は、一つ。
国王が隠した「真実」が待つ場所――開拓地。
彼の『勇者』としての物語は、今、終わりを告げた。




