第十七話:王の憂慮、勇者の決裂
ミナトが王城に帰還した時、玉座の間はすでに重い空気に包まれていた。
国王アルトリウス、騎士団長、そして王国賢者が、ミナトに同行した護衛騎士隊長からの報告を、厳しい表情で受け止めているところだった。
テーブルの上には、ミナトが脱ぎ捨てた白銀の軽鎧が置かれている。その肩には、Bランクモンスターのものとは思えない、生々しい「へこみ」が刻まれていた。
「……信じられん」
騎士団長が、低い声で唸った。
「Sランクの『影の魔豹』を無傷で屠ったあの方が、Bランクのロック・ワイバーンごときに、直撃を許しただと?」
「隊長の報告によれば、勇者様の動きは、一瞬、明らかに『停止』した、と。まるで何かに気を取られたかのように」
賢者が、深刻な顔で髭をひねる。
国王アルトリウスの心中は、穏やかではなかった。
(……まさか)
Sランクとの激戦による、隠れた疲労の蓄積か?
それとも、連戦連勝による、一瞬の「油断」か?
(いや、違う……)
国王の脳裏に、数日前、娘が報告してきた、ギルドでの一件がよぎった。
『ミナト様、あの日から少し、お考え事をなさっているご様子ですの……』
(あの『平民』の娘か……!)
国王は、ミナトが田中美咲と接触したことを把握していた。
そして、ミナトがあのギルド訪問以降、急速に精神のバランスを欠いていることにも気づいていた。
(まずい)
国王にとって、ミナトは「完璧な英雄」でなければならなかった。
女神の依怙贔屓によって与えられた絶対的な力。それを、迷いなく魔王軍に向かって振るう、純粋な「剣」。
その剣が、「情」や「疑念」によって曇ることは、王国の破滅に直結する。
(あの『嘘』は、ミナト殿の心を護るための、必要な『配慮』だったはずだ。だが、それが裏目に出たというのか……?)
国王は、ミナトの精神的な「脆さ」を、この上ない脅威として受け止めていた。
そこへ、ミナト本人が、執務室の扉を開けて入ってきた。
その顔は、いつもより青白く、感情が読み取れないほどに静かだった。
「ミナト殿!」
国王は、玉座から立ち上がり、努めて穏やかな声を作った。
「よく戻られた。……その、鎧のことは聞いた。連戦の疲れが出たのであろう。今日はゆっくりと……」
「陛下」
ミナトは、国王の温情ある言葉を、冷たく遮った。
その瞳は、もはや国王を絶対の信頼を置く庇護者として見てはいなかった。
「任務は完了しました。それよりも、陛下に、一つ、お願いがございます」
「……何かな」
国王は、ゴクリと唾を飲んだ。
「開拓地へ、行く許可をいただきたい」
その場が、凍りついた。
騎士団長も賢者も、何のことかわからず、勇者
(ミナト)と国王を交互に見る。
「……開拓地、と申すと?」
国王は、あくまで冷静に問い返した。
「私と、共に転生してきた者たちがいる場所です。陛下が仰っていた、『使命感に燃え、張り切って』働いているという、あの場所を。この目で見たいのです」
国王の瞳が、わずかに細められる。
(……知られたか。あの『平民』の娘から)
ミナトの口調は「お願い」だったが、その瞳は「答えによっては、どうなるかわからない」という、暗黙の圧力を放っていた。
国王は、瞬時に天秤にかけた。
ここで許可を出し、ありのままを見せるか。
あるいは、嘘を突き通すか。
(……駄目だ)
国王は、後者を選んだ。
ミナトの精神状態は、あの『ミス』を見てもわかる通り、すでに不安定だ。
ここで、『農奴』として鞭打たれる元クラスメイトの姿を見せれば、彼の心は完全に折れるか、あるいは、我々王家に対して決定的な「反逆」を選ぶかのどちらかだ。
どちらに転んでも、「魔王討伐の剣」としては、使い物にならなくなる。
国王は、重々しく、そして「勇者の身を案じる」という仮面を被って、首を横に振った。
「……ミナト殿。その儀は、許可できぬ」
「……なぜですか」
「君は、今、疲れている」
国王は、へこんだ鎧を指差した。
「その『ミス』が何よりの証拠。Sランク級の魔獣を倒した君が、Bランク程度で傷を負うなど、尋常ではない。君の心は、今、迷っている」
「……」
「そのような不安定な状態で、開拓地の現実を見ることは、君の精神をさらに蝕むだけだ。彼らは彼らの義務を果たしている。君は君の大義を果たすべきだ。勇者として、魔王を討伐することにのみ、集中していただきたい」
それは、ミナトを案じるように聞こえる、完璧な「拒絶」だった。
ミナトは、何も言わなかった。
ただ、静かに、目の前の国王を見つめていた。
(……そうか)
(やっぱり、嘘だったんだな)
国王の「拒絶」は、ミナトにとって、美咲の言葉が「真実」であったことの、何よりの証明となった。
「……御身を案じていただき、感謝いたします、陛下」
ミナトは、ゆっくりと、深く一礼した。
「少し、頭を冷やします。本日は、これで失礼いたします」
国王も、騎士団長も、そのあまりにも素直な引き際を、訝しげに見つめた。
ミナトは、感情のない表情のまま部屋を出て、自室へと戻っていく。
「……陛下、よろしかったので?」
賢者が不安げに尋ねる。
「……ああ。これでよい。少し休めば、彼はまた『完璧な勇者』に戻る」
国王は、自分に言い聞かせるように言った。
だが、その背中には、冷たい汗が流れていた。
自室に戻ったミナトは、王城の窓から、夕日に染まる王都を、そしてその向こうにあるであろう「開拓地」を、冷え切った瞳で見つめていた。
(国王が許可しないというのなら)
(俺は、俺のやり方で、真実を確かめるまでだ)
王家と勇者の間に生まれた亀裂は、この瞬間、修復不可能な「決裂」へと変わった。




