第九話 ふたりでディナー
マリィは上品なアイボリーホワイトのドレスに身を包んでいた。
胸元と裾には、金糸で繊細に刺繍された唐草模様の花々があしらわれる。
ハイウエストで体のラインを拾いすぎず、けれど歩くたびにふわりと揺れて、彼女の柔らかな印象を際立たせていた。
オルクは漆黒の礼装を纏っていた。
王としての威厳を感じさせる軍礼式の上衣は、肩と袖に金糸の刺繍が施されており、胸元には王家の紋章が刻まれている。
立て襟にスカーフタイをゆるく巻いて、戦場の王とは違う、静かな装いに仕上げている。
「……まあ」
扉が開かれた瞬間、マリィは自然と足を止めていた。そこはただの部屋ではない。
一歩踏み入れれば、王としての威厳と誇りを視覚と空気で刻みつけてくる、
――《紅玉の間》。
光沢を持つ漆黒の床。その中央を、深紅の絨毯が真紅の血流のようにまっすぐ走り、玉座にも似た晩餐席へと導く。
天井を彩るのは、魔光石を螺旋状に組み上げた豪奢なシャンデリア。重厚な細工が、柔らかな琥珀色の光を絶えず揺らし、部屋全体を温かくも神聖な光で包んでいる。
「なんて素晴らしいの…」
調度品のひとつひとつに妥協はなく、椅子の座面は魔界南部の魔獣「月豹」の毛皮、すべてが一級の魔界素材で統一されていた。
――だが、どこか違う。
それは彼女の生まれ育ったルミナフローラ王国の“雅”ではない。
ここにあるのは、魔族の獣人族という種が築き上げてきた“誇り”と“力”の象徴。
その重みが、この空間にただ在るだけで、来訪者に静かに教えている。
テーブルの中央にはすでに燭台と魔光石のランタンがゆらめき、食器やカトラリーはどれも艶やかな細工が施された豪奢なもの。
マリィがオルクとともに椅子へ腰かけると、静かに合図を受けた給仕たちが一斉に動き出す。
「オルク様、今日はお招き頂きありがとうございます。」
「ん、俺達だけなんだし気ぃ抜けよ。本当はもっと緩い服着ようと思ったんだけどよ、家来たちがこれを着てくれって言うから。」
マリィは微笑む。
「それはオルク様がとてもお似合いになるからですわ。」
まるで朝の挨拶のように自然に言ったマリィの言葉に、オルクは数秒の間を置いてから、目を逸らし――顔を赤く染めた。
誤魔化すように詰襟に指をかけ、少し緩めながらぼそりと呟く。
「…おま…も…きれ…だ」
マリィからは全く聞き取れないくらいに小声だったが翻訳すると『お前もとても似合ってる…綺麗だ。』である。
「失礼致します。オルク陛下、マリィ王女殿下」
次々と運ばれてくる料理――
野菜をふんだんに使った彩り豊かなサラダ、薬膳の香り高いスープ、焼き立ての全粒粉のパンに、黒玉葡萄から造られた芳醇なワイン、そして何より、この夜の主役――
「わぁ……」
目を見張るマリィの前に、香ばしく焼き上げられたキラーベアのローストが姿を現す。
香草と魔獣の骨髄から煮出した濃厚なソースがかけられ、食欲をそそる匂いが漂う。
「乾杯の前に…」
オルクと目が合うとマリィは小さく頷く。オルクとマリィは右手の拳を開いた左手に当てる。
「糧に敬礼ーー我が身を満たせ。」
魔界式の食前の祈りを済ませ、オルクが豪快にワイングラスを掲げる。
「満点だぜマリィ、乾杯だ。」
「良かった…ありがとうございます。」
マリィもグラスを手に取り、軽く触れ合わせた。ひとくち、ワインを口に含んだマリィは――
「……っ」
ふわ、と頬に紅が差した。
柔らかい芳香が鼻に抜け、思ったよりも口当たりが優しくまろやかだった。
オルクがそれを見て、ちょっと目を丸くしてから口元を緩める。
「…大丈夫か?」
「はい……すこし、あたたかくなっただけです。」
小さく笑うその顔は、ほんのり赤らんで、まるで花が咲いたように愛らしい。
オルクは胸がきゅうと甘い締め付けを感じ、喉が『グルル…』と鳴りかけた。
キラーベアのローストにナイフを入れると、外は香ばしくパリッと焼け、薄桃色の断面から肉汁がじゅわりと溢れ出す。
口に運べば旨味が広がり、しっとりとした肉は絹のように滑らかだった。
「…!本当に美味しいです。あの見た目から、こんな繊細な味だなんて…」
マリィは昼間に見た、絶命して半開きの目をした魔獣と、毛むくじゃらの体を思い出す。けれど、今口にしているのはその荒々しい印象を裏切る、驚くほどの上品さだった。
「狩ってすぐ血抜きしねぇと、すぐ味が落ちるからな。あとはウチの料理長の腕がいいってだけだ」
オルクは豪快な外見に似合わぬ滑らかな所作で肉を切り、口に運ぶ。ただし、一口はやはり大きい。
「家来の皆さん、仕事ぶりが丁寧な方ばかりですね」
「そうか?」
「はい。料理ひとつでも分かります。香りも盛り付けも…ひと口で、下ごしらえの丁寧さが伝わってきます」
オルクはワインをごくりと飲む。
「細かいところまで見てるな」
「ええ、外から来た私にも気を遣ってくださってます。部屋に季節の花を飾ってくれたり、体調に合わせてお茶を淹れてくれたり…。言葉にはされなくても、心尽くしがちゃんと伝わるんです」
オルクは短く息を吐き、グラスのワインを飲み干す。すぐに給仕が現れ、音もなくワインを注いで下がった。
「…本当に、心尽くしだな」
「はい。ありがたいことです」
「俺も礼を言わねぇとな。『下の者に感謝しろ』って、よく言われたよ。でも…俺、そういうの上手く言えねぇんだよな」
オルクはワインが入ってるグラスをくるくると回すと芳醇な薫りが立ち込めた。
「上手く言う必要はありません。オルク様の『ありがとう』の一言で、きっと伝わります。確かに、言わなくても分かることはありますけど…言葉にしてもらえると、安心したり嬉しくなるものですわ」
気づけば、オルクがじっと自分を見ていた。マリィは少しだけ血の気が引く。
「…私、なんて偉そうなことを…申し訳ありません」
「いや、謝らなくていい。その通りだしな。…俺だって、マリィに『ありがとう』って言われると嬉しい」
優しい微笑みに、なんだか照れてしまってマリィは視線を逸らし、密度のある雑穀パンを静かにちぎった。
「は、はい、え…と、あの、そういえばオルク様は狩りがお好きだと聞きました。今日のキラーベアだって…あんな大きな魔獣をどうやって狩ったのですか?攻撃魔法とか…弓矢ですか?」
「俺は魔法苦手だからよ、剣も使うが…トドメは素手だなっ!」
「え!素手…ですか?」
あんな3m超えの巨大な体躯で毛皮も厚い魔獣のキラーベアを素手でどうやって倒すのかマリィは皆目検討がつかなかった。
間合いが近いと鋭い爪や強靭な顎の噛みつきでかなり危険なはずだが。
「ああ!獲物の間合いに一気に飛び込んで脳天に拳を振り降ろせばいいんだぜ!意外と簡単だぞ。弓矢…は弾き返されるからな、俺なら槍投げて当てるがよォ」
「なんだか…想像もつきませんわ…」
人間界の狩猟といえば弓矢や魔法銃を使い鹿や猪を狙うものだが、それとは全く違うようで改めて住んでる世界が違うのだと思った。
「じゃあさ、次は俺の番だぜ?マリィは何が好きなんだ?」
「私は植物が好きです。花、観葉、薬草も…祖国がそれらの生産が盛んで幼い頃より囲まれて育ったので…それらを原料に自家製ポーションを作ったりもします」
「そうか…植物か…!」
オルクはそれは良いことを聞いたぞ!とうんうんと頷き、僅かに尻尾は揺れていた。
そのオルクの様子にマリィはオルクも植物が好きなのかも…と思ったがそれは見当違いなのであった。
美味しい食事やワインで2人の緊張も和らぎ穏やかに、楽しい時間が過ぎる。
食事を終えると、給仕たちが静かに皿を下げ、長い食堂にはほのかな蝋燭の明かりと夜の涼しさが漂っていた。
オルクは椅子を引き、さりげなくマリィに手を差し出す。
「部屋まで送る」
廊下を歩く間、しんとした空気に、二人の足音だけが響く。窓から差す月明かりが、石畳にやわらかな影を落としていた。
マリィが「今日はありがとうございました」と笑みを向けると、オルクは短く「ああ」とだけ返す。
やがてマリィの部屋の前に着き、オルクは扉の前でふと立ち止まった。
少しの沈黙のあと、低い声で言葉を探すように口を開く。
「……毎日は難しいけど、たまに…こうして一緒に食えたら、俺は嬉しい」
言った瞬間、自分で少し照れくさそうに視線を逸らす。
マリィが柔らかく微笑んで「はい」と答えると、オルクは口元をわずかに緩めた。
「…じゃあまたな、おやすみ」
オルクの背中がだんだんと小さくなる。
残されたマリィは扉に手をかけながら、胸の奥にほんのりと温かいものを感じていた。
(…オルク様って見た目はあんなに大きくて豪快な方だけど、とても紳士的で照れ屋なのね。)
扉が閉まると同時に、マリィの側仕えのサフィーとミラが、にこ〜っと笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「マリィ様、お帰りなさいませ……にゃふふ、なんだか今日はとてもご機嫌に見えますにゃ」
「お顔も少し赤いです〜」
「それは、お酒を飲んだせいよ。そんなに強くないのよ私」
マリィは頬に手を当てると少し口を尖らした。
「うふふ〜、陛下も――いつもより、柔らかなお顔をされておりましたよぉ」
「……そう?」
「はいにゃ。“毎日は難しいが、たまにこうして食えたら嬉しい”と、陛下から仰るにゃんて……」
ミラは口元を手で押さえ、くすくす笑う。
「あ、聞いてたのね?」
マリィは少し口を尖らせる。
「わ、私たちご入浴の準備でお部屋で待っておりましたから…全部は聞いてませんよぉ」
サフィーはミルク色のフワリとした髪を揺らして首を振る。
からかわれるようなやり取りに、マリィは耳まで赤く染めながらも、オルクと会話し充実した時間を過ごした温もりをそのままに「もうっ」と呟いた。
※※※
その夜、遠い人間大陸でまた重い会議が開かれていた――
人間大陸の国の一つフーヴァルヘイツ王国の玉座の間に漂う空気は重苦しかった。
その国の若き王であるリーフィオは、静かに手にしていた杯を卓へ置き、深く息を吐いた。
その正面に座するのはヴィンタルヤ王国のビスマルク王。頑健な体躯を誇る老王であるが、その表情には沈痛な色が濃い。
「まったく…近年のバルメギア帝国の傲慢な態度といったら…ますます酷くなるばかり、去年より遥かに高額で武器を買わされましたわい」
「……ああ、ビスマルク王。私のところも酷いものです」
リーフィオの声は苦渋に満ちていた。
「私の王妃――セラフィアは、ルミナフローラ王国の第一王女でして……」
その名を聞いた瞬間、ビスマルクの瞳に一瞬の影が走る。
「あ……ああ」
短く発した言葉には、すでにすべてを知っているという響きがあった。
リーフィオは唇を結び、やがて押し殺したように続ける。
「バルメギア帝国は同盟国である我らに一切の断りもなく、魔族との緩衝地帯へ侵攻し……敗れました。
それだけでも暴挙だというのに、彼らはさらにルミナフローラ王国へ圧力をかけ、第三王女マリィ殿下を……生贄として魔族に渡してしまったのです。」
彼の声音には怒りと無力感が交じり合い、低く震えていた。
「私達がそれを知ったのは……すでにマリィ王女が出国した後のことでした。」
重苦しい沈黙。やがて、ビスマルクは眉間に深い皺を刻み、呻くように応じた。
「そ、それは……なんとも……酷い話だ」
リーフィオは額に手をあて、苦々しく続ける。
「その報せを聞いたセラフィアの怒りは……それはもう、烈火の如く。普段はあれほど温和な王妃が、あそこまで激しく怒る姿など……私は見たことがありません」
王の吐息は重く、胸の奥をえぐるようだった。ビスマルクもまた瞼を閉じ、低くつぶやく。
「……ごもっとも。いやはや、ごもっとも……セラフィア妃殿下はマリィ王女殿下の実の姉でありますからな。怒らぬはずがございません」
彼はゆっくりと視線を上げ、リーフィオの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「バルメギア帝国…正直、付き合い方を考えないといけませぬな。魔族大陸の国々はもはや我ら人間の文明を凌駕しつつあるしの」
「…はい、ここ百年で目を見張るほどの進歩だと言われています。
魔力は膨大、技術もある、そんな勝てる見込みの無い戦に費用を延々と費やすのも得策ではありません。
しかしあのバルメギアが魔族と平和協定を結ぶとは到底…。」
玉座の間に、重く冷たい沈黙が落ち、2人のため息が同時に漏れたのだった。
人間界にあって魔界にないもの(逆も然り)、そして両方の世界にあるものが存在します。例えばワインに使われた黒玉葡萄は魔界にのみ存在します。