第六話 エルゴの教え
「失礼いたします、マリィ王女殿下」
澄んだ空気を切り裂くように、凛とした声が部屋に響いた。扉の向こうから現れたのは、女官長 ヘレナである。
年嵩の鶏獣人である彼女は、まるで刃のように真っ直ぐな眼差しを湛え、揺るぎない威厳を纏っていた。
紅茶の香りがまだ室内に漂う中、マリィの傍に仕えていた側仕えたちは一礼し、そっと身を引いた。静寂が訪れる。
白木の繊細な彫刻が施された椅子に腰掛けていたマリィは、その気配を受けてそっとティーカップをテーブルの上のソーサーへと戻した。カップが磁器の皿に触れる、かすかな音が室内に響いた。
その仕草は気品に満ち、けれどもどこか張りつめたものを滲ませている。
ヘレナ女官長は、沈んだ表情のマリィにそっと向き直った。
「――王女殿下。あなたは“生贄”などではありません」
ピシリと張った声は、迷いなく空気を裂いた。
「そのような誤解を抱かせてしまったこと、深くお詫びいたします。しかしその本当の理由は陛下みずからが語るはずです。」
マリィは、ぱちりと瞬き、目を伏せる。
「……はい。分かりました」
「よろしい。あなたは今や、西ファングレイヴ王国に――魔界大陸の一角におられる。その意味を、そして我ら“魔族”というものを、正しく知っていただかねばなりません」
ヘレナは凛とした態度のまま、マリィを見下ろした。
「この国の歴史、文化、教養、礼儀作法。そのすべてを学んでいただきます。ご理解いただけますか?」
しばしの沈黙ののち、マリィは静かに頷いた。
「……はい。異存はありません」
「ふふ。素直でよろしい。王女殿下、なかなかの心がけですわ」
ヘレナの唇がわずかにほころんだのを見て、マリィの胸の奥にあった不安が、少しだけやわらいだ。
(郷に入っては従うべきだわ。それに教養を学ばせるという事は…しばらくはこの城に留めるという事。そして私を招いた本当の理由はまだ話すつもりもないのね)
(ならば課された目の前の事に真摯に取り組むべきだわ)
マリィの新たな生活は、静かな緊張とともに始まった。
※※※
王城の奥庭――さらにその奥にひっそりとそびえる離れの塔、《白鳳の塔》。
築千年を超える古塔は、かつて大賢者たちが知を積み重ねたという。
魔界建築の粋を凝らしたその姿は、昼の陽を飲み込むように漆黒の外壁が光を吸い、螺旋塔に絡みつく蔦薔薇が風に揺れていた。
重厚な木製の扉を開けると、香木の穏やかな香りがふわりと包み込む。
回廊には淡く揺れる燭光、柱には精緻な彫刻。そこかしこに魔界ならではの美意識が息づいていた。
高い天井には魔法陣が刻まれ、ゆるやかに漂う魔力が読書や集中を助けるよう設計されている。
書架には、魔界全土から集められた書物が並んでいた。
文化、礼儀作法、戦史、医術、経済…。
案内役の女官に連れられて螺旋階段を上がると、上階の書斎から、すん…と甘く渋い香草と紙の匂いが漂ってくる。
扉の前で軽く深呼吸をして、マリィは小さく衣擦れの音を立てながらお辞儀をした。
「……マリィ・ド・ルミナフローラでございます。エルゴ教授に、初めてご挨拶申し上げます」
室内の奥からふわりと立ち上がった影があった。
くるりと振り返ったのは、白く豊かな髭とボサボサの白髪に山羊の角を備えた老紳士。肩には朱の刺繍がほどこされたマントをかけ、丸眼鏡の奥の目は実に優しげだった。
「おお、お待ちしておりました。……これはこれは、ようこそ、ルミナフローラ王国の姫君殿。初めての講義にお出ましいただき、光栄であります」
穏やかに、けれど礼を尽くした口調でそう言うと、教授はやや猫背ぎみに一礼した。
「私の名は、エルゴ・カラム・ミューレン。この塔にて、歴史・文化・外交儀礼などを担当しております。恐縮ですが、好きに呼んでくださればよろしいですぞ。さて――」
彼は懐からごそごそと何かを取り出すと、マリィにそっと手渡した。
それは、金色の包みに包まれた小さな飴玉だった。爽やかな香りのミントキャンディ。
「初対面のご挨拶には、まず小さな甘みを。これは私の習わしですな。緊張した頭に、ちょっとした糖分を」
「……ありがとうございます」
マリィが戸惑いながらも礼を述べると、教授はにっこりと目を細めた。
「礼儀正しく素直なお方ですな。私の教え甲斐があるというものです」
「……今日から、よろしくお願いいたします。わたくし、たくさん学ばせていただきます」
その言葉に、エルゴ教授の白髭がふわりと笑みに揺れた。
「うむ、喜ばしい。学びは常に尊きこと。さあ、ではまず――席に着く前に、我らが塔での習わし、小祈祷を一つ」
マリィが少し驚いたように見上げると、教授は手を胸にあて、手短な祈祷を唱えた。
「《知よ、我らに照らしを。忘却より守りたまえ》……さ、姫君もどうぞ」
マリィもそれにならい、小さく胸元に手をあてる。
「知よ、我らに照らしを。忘却より……守りたまえ」
小さな声で唱えた祈りが、静かな講義室に溶けていく。
新たな学びの扉が、今、静かに開かれた――。
「マリィ様、こちらが我が魔界大陸で用いられている世界地図です。」
そう言って、エルゴがそっと机の上に広げたのは、羊皮紙に美しく描かれた緻密な地図だった。大陸の稜線、山脈の隆起、河川の流れまでが生きているように描かれている。
マリィは目を見開いた。
「…これは……」
人間の世界しか描かれていない、祖国で見てきた地図とは、まるで違う。
そこには、魔界と人間界、それぞれの大陸が同等に、正確に、並べられていた。
「どうして……人間界の詳細まで、こんなに…? 魔界の方々がここまで…」
マリィの呟きに、エルゴは静かに頷いた。
「人間の地図が、己らの陣営しか描かなんだのは、長き対立と断絶の影響でしょうな。
だが、魔界は違う。……知るために、命を賭して世界を渡った者たちがいたのです。
危険を顧みず、戦火の中にあっても――地形を、文化を、歴史を、記録していった尊き先人たちろ。
この地図は、多くの血と犠牲が刻まれておるのです。マリィ王女殿下」
マリィは、両の手で地図の端をそっと撫でた。紙越しに、知らない誰かの想いが伝わるような気がした。
「……学ぶというのは、敬意を払うことなのですね」
そう呟いた彼女に、エルゴはにこりと笑い、懐から青色の紙に包まれたベリーキャンディを一粒取り出してそっと机に置いた。
「良き答えには、甘き報酬を。学びは甘味を欲しますからな。」
そう言ってエルゴは同じ味のキャンディをもう一つ取り出し己の口に放り込んだ。
「…時にマリィ王女殿下は、魔族をどのような存在とお思いですかな?」
にこやかだが核心を突くような問いに、マリィの指先がわずかに震える。問いは鋭いが、声音は柔らかく、どこか暖かさすらある。
「え、ええと……私は……」
視線を落とし、マリィは言葉を選びながらも、正直に口を開いた。
「私は……魔族は、人を喰らい、災厄を生み、呪いを振りまき、人間の大地を常に狙っているもの……と、教わって……きました。すみません……」
エルゴは、マリィを責めることなく、静かに頷いた。
「うんうん。無理もありませんな。
千年近い永きに渡る対立があれば、互いにそのような認識となるものです。
魔族だって、人間を恐れ、忌避することもありますぞ。まこと、我らは似たようなものです」
老魔族は窓の外の空を眺め、白ひげを撫でながら穏やかに言葉を続ける。
「人は未知なるものに恐れを抱く。――ならば、未知を、知に変えればよいのですな」
マリィは、ふと顔を上げる。彼の言葉に、嘘も怒りもなかった。ただ、静かな確信がある。
「“魔族”と一言で申しますが、それは人間の都合による乱暴な括り。
実のところ、魔界大陸には百を超える部族や文化が存在します。獣人、幻影種、岩人、風霊系……姿も力も、信仰も暮らしも異なります」
エルゴはそう言いながら、先ほどの地図に手をかざす。すると魔界大陸各地の紋章と土地柄、祭りや信仰の違いまでが精緻に浮かび上がった。
「婚姻の形も違えば、信仰する神も違う。しかし、咲いた花や五穀豊穣を讃える“花祭り”のような行事は、多くの地で行われておりますな」
「……彼らにも、花祭りがあるのですね」
マリィの声は、わずかに震えていた。それは恐れではなく、共鳴に近い何かだった。ほんの小さな共通点――それが、遠かった心に小さな橋を架ける。
エルゴは微笑んだ。
「その気づきこそが、真の教養。貴女の旅は、ここから始まるのです」
「私の旅が…始まる…」
講義が終わり、マリィが軽く一礼して退室すると、静寂が塔の書斎に戻ってきた。
エルゴは分厚い参考書や古文書をひとつずつ丁寧に片付けながら、ふと手を止める。
「……お久しぶりですな、オルク様」
半開きの扉の向こうから、ふさふさとした銀灰色の尻尾がぴょこんと見えていた。
エルゴの言葉に、尻尾がビクリと震える。やがて気まずそうに現れたのは、褐色の肌を持つ大男──王、オルク・ファングレイヴだった。
「お、おう……エルゴも元気そうだな! なんつーか、たまには本でも読もうかな~って思ってよ」
照れ隠しのように後頭部をかきながら、オルクは無造作に部屋へと足を踏み入れた。
エルゴはメガネを上げ、喉を鳴らして笑う。
「はっはっは。幼き頃、書物が読みたくないとこの塔の窓から飛び降りたあの日を思えば、実にご立派に成長なされましたな」
「……まだその話すんのかよ……」
オルクが顔をしかめる。
『飛び降りた』──というのは事実だ。まだ幼い頃、勉学から逃げ出したくて塔の窓をこじ開け、大きく跳躍して地面に着地したという武勇伝……いや、悪童の逸話である。
「それほどに、あの記憶は私の心に強く残っておるのです。幼くとも、獣人の王。あの頑健さには、肝を冷やしたものでした。そして今では立派に、国を背負い、ひとりの姫君を見初められた……」
オルクの頬が赤く染まり、耳まで真っ赤になる。
「お、おいっ……」
「礼儀正しく、聡明なお方でした…マリィ王女殿下」
エルゴの穏やかな声音に、オルクは少し肩の力を抜いた。
彼の評価が、何よりも信頼できる証だと知っている。
「……そうか……嫌がってなかったか? その……魔族を怖がったり、帰りたいとか言ってなかった……か?」
真剣な問いに、エルゴはほんの少しだけ目を丸くした後、相も変わらぬ柔和な笑みを浮かべる。
「ええ…マリィ様は立ち止まり、考慮できる賢さと勇気を持つ方でしたよ。
未知なるものを前にしても、ゆっくりと一歩を踏み出しておいででした。
その一呼吸こそが大切なのですな。
本当の姿を知っていただくこと──そのためには、“対話する勇気”が必要ですぞ」
その言葉は、まるで心にそっと風が吹き込むように染みわたる。
エルゴの言葉は、昔も今も、変わらずオルクの背を押してくれる。
※※※
その晩。
オルクはレオ将軍と翌日の軍議議題を確認した後、ひとり中庭を散歩していた。
夜気がひんやりと頬を撫でる。思わず息を深く吸いたくなる心地よさだった。
空を見上げると、闇の中を巡回する鳥獣人の兵たちが羽音も静かに飛び交っている。
遠くからは、王城の外壁に魔石灯が灯されるのが見える。
(……対話、か)
そのとき――
「……!」
不意に、視界の端に柔らかな人影が現れた。
淡い布のカーディガンをふわりと羽織ったマリィがバルコニーに立っていた。寝間着姿のまま、夜風を受けて静かに佇むその横顔は、柔らかく、どこか穏やかだった。
初めてこの地に来たあの日、ぎこちなく強ばっていた表情はもうない。少し目元が緩み、肩の力が抜けている。……まるで、ほんの少し、この国の空気に慣れてきたかのように。
胸の奥が、一瞬だけ熱を持った。
奇妙な気恥ずかしさがオルクの胸を刺した。けれどそれを振り払うように、彼は静かに息を吐いた
人間と魔族。国と国。文化と文化。その隔たりを越えるには、ただ「優しくする」だけでは届かない。
それを、マリィは理解しようとしてくれている。
(……なら、俺ももっと強くあらなきゃな)
そんな思いを胸に、オルクは空を見上げた。
闇を裂くように月が美しく輝いていた。
知りたいと思う気持ちこそ勇気のはじまりかなと感じますねぇ。